新幹線の中では、気を利かせてくれたお母さんたちの計らいで、私たちは三列シートを回転させて向かい合わせにし、ボックス席を作った。私の隣には及川。そして向かいの席には、岩泉と松川、花巻がぎゅうぎゅうになって座っている。
「おい、脚当たってんだよクソ川。もっと引っ込めろ」
「はあー? 脚が長いから仕方ないでしょーが!」
「おい松川〜、こっち寄りすぎなんだって〜」
「花巻が一番通路側なんだから仕方ねーだろ。諦めて詰めろよ」
いつものメンバーと、いつも通りの軽口の叩き合い。男三人が窮屈そうに肩を並べている向かい側で、及川が楽しそうに笑っている。
「ていうか及川、お前スペイン語大丈夫なの? まさか『アミーゴ』しか知らねえとか言わないよな」
「失礼な! 『グラシアス』も知ってるし! 『アディオス』も完璧だし!」
「うわ、語彙力三歳児かよ……」
「向こうで迷子になって泣いても、誰も助けてくんねーぞ」
「泣かないもん! 俺にはボディランゲージがあるから大丈夫なの!」
花巻が呆れ、松川がニヤニヤと笑い、岩泉が深い溜息をつく。そんな彼らと及川は、今度はスナック菓子を奪い合いながら騒いでいる。
「あ! マッキーそれ俺が狙ってたやつ!」
「遅い。弱肉強食」
「ひどい! ナマエちゃん見て、こいつら俺に優しくない!」
及川が私の肩に頭を預けて甘える素振りを見せると、すかさず岩泉から手刀が飛んできた。
「おいクソ川、公共の場でイチャつくな」
「いった! 岩ちゃん暴力反対!」
まるでこれから、東京へ練習試合にでも行くかのような賑やかな空気。その変わらない日常が、今は何よりも愛おしく、そして少しだけ切なかった。
窓の外の景色が、目まぐるしい速さで流れていく。新幹線は、定刻通りに東京へ滑り込んだ。
電車を乗り継ぎ、私たちはついに羽田空港へと辿り着いた。巨大なターミナルに響くアナウンスと、行き交う多くの外国人たち。
ここが、彼を見送る最後の場所だ。初めて訪れた国際線の出発ロビー。たくさんの言語が混ざっているざわめきが、どこか現実味なく響いている。
チェックインを済ませ、大きなスーツケースを預けた及川が戻ってくる。その顔は、緊張と、少しの寂しさと、そして未来への強い決意が混じり合った、複雑な色をしていた。
「じゃあ、行ってくる」
及川が短く告げると、岩泉たちが待ってましたとばかりに口を開く。
「おう、気をつけてな。向こう着いたら連絡しろよ」
「あ、及川。これみんなからの餞別ね」
花巻が、ニヤニヤしながらスーパーの袋のようなものを押し付けた。
「え、みんな……て、何これ正露丸?」
「腹壊すなよ」
「水あたりとか怖いからなー。ちゃんとそれ飲めよ」
「うわ、夢も希望もねぇ餞別…! でもありがと!」
松川の言葉に、及川が苦笑しながらもその袋を大切そうに抱える。
この期に及んで正露丸。色気も何もないけれど、それが彼らなりの最大級の心配と愛情の裏返しなのだと分かる。
「徹、ご飯ちゃんと食べなさいよ。怪我しないようにね」
「分かってるって。母ちゃんたちも元気でね」
「頑張れよ、徹ー!」
「猛もな!」
続いて、家族と別れの言葉を交わす。及川はいつものように笑っているけれど、その笑顔がどこか強張っているのを、私は知っていた。
一通りの挨拶が終わり、ふと会話が途切れる。そのタイミングを見計らったように、岩泉がポンと及川の肩を叩いた。
「最後、ちゃんと挨拶しとけよ」
岩泉が顎で私の方をしゃくる。その言葉に、ご両親たちも「ああ、そうだね」「邪魔しちゃ悪いわね」と、気を利かせて少しだけ距離を取ってくれた。
ロビーには多くの人がいる。数メートル離れた場所には、彼の家族と親友たちが見守っている。もう、泣き叫ぶことも、縋り付くことも、「別れたくない」と本音を吐くことも許されない。
及川が、私の目の前に立つ。見上げた彼は、射し込む柔らかな日差しの中で眩しく、そして遠く見えた。
「……ナマエ」
喧騒の中、彼の声がはっきりと耳に届いた。
「…これさ、もらってくれる?」
不意に、及川がポケットから小さな箱を取り出した。少しだけ、躊躇うような仕草で。
「……──」
差し出された箱を受け取ろうと、私が手を伸ばした、その瞬間。
及川の手が、箱ごと、私の手をふわりと包み込むように重ねてきた。その手が、僅かに震えていたのは私の気のせいだろうか。そして、彼はどこか名残惜しそうに、ゆっくりと手を離し、小さな箱を私の手のひらにそっと乗せた。及川の体温が移ったかのように、箱が温かく感じる。
箱を開けると、中には、華奢なチェーンに通された、小さな桜のモチーフのネックレスが入っていた。
シンプルなチャームの中にアクセントとして埋め込まれている小さなピンク色の石が、昨日のデートで二人で見た、あの満開の桜のように煌めいている。
「……つけても、いい?」
及川が、少し掠れた声で尋ねる。
こくりと頷くと、彼は少し緊張した手つきでネックレスを取り出し、私の首の後ろにそっと手を回した。指先がうなじに触れて、びくりと体が震える。顔が、カッと熱くなるのが分かった。
「…うん、似合ってる」
チェーンを留め終えたらしい彼の手が、そっと私の首から離れていく。
及川は一歩だけ後ろに下がり、私の胸元で光る小さな桜を、どこか眩しそうに、でも少しだけ苦しそうに見つめた。そして、ふっと息をつくと、少しだけいつもの意地悪そうな笑みを浮かべて、でもその瞳の奥は真剣なまま、こう言った。
「……これつけてる間は…他のやつに、あんまり隙見せないで」
「え…?」
「…ナマエ、変な男とかに付け込まれそうだし。彼氏としては、もう無理だけど……友達としてなら、心配したっていいでしょ?」
「友達として」——及川はそう言ったけれど、その言葉とは裏腹な、どこか束縛するような響きと、私の反応を窺うような視線に、彼の独占欲が見え隠れしている気がした。その「ずるさ」さえも愛おしくて、私は胸元の桜をぎゅっと握りしめた。
「……大丈夫だってば。…でも、ありがとう、大切にするね」
微笑んで、そう答えるのが、精一杯だった。この桜は、きっと私を守るお守りであり、同時に、私を彼に縛り付ける甘い鎖なのだろう。
「……そろそろ、行かなきゃ」
及川が、静かに告げた。
──別れの時が、来た。
私は「自慢の彼女」として、彼を送り出さなきゃいけない。冷え切った指先を握って力を込め、必死に口角を持ち上げた。
「……行ってらっしゃい、及川」
声は、震えていなかっただろうか。
「向こうに行っても、及川らしく、頑張ってね。……ずっと、応援してるから」
それは、恋人としての「待ってる」ではなく、友達としての「応援」。その言葉に含まれた意味を、彼は痛いほど理解したのだろう。一瞬だけ顔を歪め、今にも泣き出しそうな瞳で私を見つめた。
「──……」
及川が手を伸ばしてくる。力強い腕が、私の体を引き寄せた。ぎゅう、と。骨が軋むくらい強く、痛いほどに抱きしめられる。その強さが、彼の迷いではなく、あふれ出しそうな愛情のように感じられた。
「……ごめん」
耳元で、震える声がした。
「…あの時、『もう離さない』って言ったのに……嘘つきで、ごめん」
その言葉に、息が止まりそうになる。
忘れるわけがない。想いが通じたあの日、神社の境内で彼がくれた言葉。だからこそ、約束を守れない自分を、こんなにも深く責めているのだろう。
「……ううん。嘘つきなんかじゃないよ」
私は首を振って、彼の背中をさすった。
離すのは、嫌いになったからじゃない。お互いが前に進むためだ。だから、謝らないでほしい。
体を離そうとした瞬間、及川が抵抗するように、もう一度私を抱きしめ直した。首筋に顔を埋め、まるで駄々をこねる子供のように、低く呟く。
「……連れて行きたい」
誰にも聞こえない、私にだけ届く本音。その声の熱さに、息が詰まる。
「……ポケットに入れて、一緒に連れて行けたらいいのに」
「…ふふ、なにそれ」
「本気だよ。……置いていきたくない」
彼の腕に込められた力が、痛いほど私への愛おしさを訴えていた。バレーも、私も。両方欲しくて、でも今はバレーしか選べない。そんな彼の苦渋の選択が、体温を通して伝わってくる。そして──。
「……好きだった。…誰よりも」
まるで、自分に言い聞かせるように。過去形にして、及川は私たちの恋を終わらせた。
「──……」
息が止まる。心臓が引き裂かれそうになる。でも、泣かなかった。
「……うん。私も」
あえて、「好き」とは言わなかった。いや、言えなかった。言ってしまえば、心の奥に隠した醜い本音が決壊してしまうから。
及川はゆっくりと深呼吸をすると、その腕を解いた。顔を上げた彼の瞳は、揺らいでいたけれど、ホテルで見せたような切ないものではなく、未来を見据えるアスリートの目に戻っていた。
「見ててね。絶対…俺、最高にいい男になるからさ」
私は頷き、彼の旅立ちに見合う、最高の笑顔を作った。
「うん…。楽しみにしてるね」
私の返事を聞いて、満足したように笑うと、及川は家族や岩泉たちに向かって、別れの寂しさを振り切るように大きく手を振る。
「頑張れよ!」
誰かの言葉に、及川が不敵に笑った。当たり前だよ、と言うように。そして、くるりと背を向けた。手荷物検査場へと続くゲート。彼の背中が、雑踏の中へと吸い込まれていく。
及川は、一度も、振り返らなかった。その背中が、どんどん小さくなっていく。引き止めたい気持ちを、必死で抑え込む。声を上げそうになるのを、唇を噛んで堪える。
私は、胸元のペンダントをぎゅっと握りしめたまま、もう彼の姿が見えなくなった空間を、ただ、いつまでも見つめていた。
(──ああ)
及川が、いなくなった、がらんとした待機スペース。アナウンスが響く。誰かの笑い声がする。世界はいつも通り回っているのに、私の世界から色だけが抜け落ちてしまったようだった。
(行っちゃった…)
──本当に、行ってしまったんだ。
そう認識した瞬間、今まで必死で築いていた心の壁が、音を立てて崩れ落ちた。及川のために、自分のプライドのために、必死に貼り付けていた笑顔の仮面が、粉々に砕け散る。視界が急速に歪んで、熱いものが堰を切ったように込み上げてくる。堪えようとしても、もう止められない。
「……っ…」
立っていることすらできなくなって、ずるずると、その場に蹲る。立てた膝に顔を埋めても、嗚咽が漏れるのを止められなかった。肩が、小刻みに震える。
「ナマエちゃん…!?」
及川のお母さんの驚いた声が聞こえる。
「……っ、う……っ!」
もう身体が言うことを聞かなかった。指の隙間から、ポタポタと涙が溢れ落ち、床に広がっていく。
『ねぇ、及川』
『んー? なぁに? ナマエ』
もう、名前を呼んでも振り返ってくれない。
あの温かい手に触れることも、甘くて幸せなキスをすることも、彼の落ち着く香りを目一杯吸い込んで抱き合うことも、もう二度とない。
(いやだ、いやだ……!)
心の奥底に封じ込めていた本音が、黒い感情となって溢れ出す。でも、声に出して叫ぶことさえできない。ここで口に出して泣き叫んでしまえば、彼の家族を困惑させてしまう。
「……ごめん、なさい……」
口をついて出るのは、謝罪の言葉だけだった。あんなに可愛がってくれたのに、嘘をついてごめんなさい。もう、彼の隣にいられなくて、手を離してしまって、ごめんなさい。
「よしよし、大丈夫だよ」
及川のお母さんが、隣でしゃがみ込んで私の背中を優しく撫でてくれる。その手の温かさが、彼によく似ていて、余計に涙が止まらなくなる。
お母さんは、私が「遠距離恋愛の寂しさ」で泣いていると思っている。まさか、これが「恋人としての別れ」に対する涙だなんて、思いもしないだろう。その優しさが、痛くて、苦しい。
「……おい」
頭上から、低い声が降ってきた。岩泉だった。
彼は、泣き崩れる私と、それを介抱するお母さんを隠すように、通行人の視線との間に壁となって立ってくれた。
「…あいつなら、大丈夫だ。……お前が信じて送り出したんだろう。だから、とことん信じてやればいい」
ぶっきらぼうだけど、痛いほど核心を突いた言葉。
岩泉は、知っているから。私たちが交わした言葉が、ただの「行ってらっしゃい」ではなかったことを。私の覚悟を。
「……っ、うん…」
私は声を殺して泣き続けた。
空港の無機質なアナウンスが響く中、私は子供のように小さく丸まり、及川徹という最愛の人を失った痛みに、ただただ耐えるしかなかった。
これが、私たちの恋の終わり。
世界で一番甘くて、世界で一番痛い、恋の結末だった。