カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
俺はとっくに目を覚ましていたけれど、腕の中の温もりを逃がしたくなくて、じっと息を潜めていた。
すぐ隣で、規則正しい寝息が聞こえる。ナマエの白い頬には、涙の跡が乾いて残っていた。指先で、そっとその頬をなぞる。
愛おしい。どうしようもなく、愛おしい。身体を重ねて、一つになって、心も体もこれ以上ないほど満たされているはずなのに、胸の奥は鉛を飲み込んだみたいに重かった。
朝が来てしまった。この部屋を出れば、俺は「未来」に向かって歩き出す。
アルゼンチンへ行く。その決意に、迷いなんて1ミリもない。憧れの選手の元で、俺のバレーがどこまで通用するか試したい。その渇望は、俺の人生そのものだ。──だけど。
その未来に、こいつを連れて行けないことだけが、身を切られるように痛い。
「……んっ…」
隣で彼女の気配が動いた。目を覚ます。そう直感して、俺はとっさに目を閉じた。
衣擦れの音がして、ナマエが顔をこちらに向けたのが分かった。じっと、見つめられている。その視線の熱さを肌で感じながら、俺は規則正しい寝息を装い続ける。
すると──俺の腕に触れている彼女の体が、かすかに震え始めた。ぐす、と小さく鼻を啜る音が、静かな部屋に響く。
(……泣いてる、のかな)
胸が締め付けられる。 抱きしめてやりたい。涙を拭いてあげたい。けれど、それをすれば、彼女の覚悟を無駄にすることになる。
だから俺は、演技をすることにした。彼女が涙を隠せるように。笑って「おはよう」と言えるように。
「……ん……」
わざとらしく小さく唸り、俺はゆっくりと目を開けた。焦点が合わないふりをして、彼女を見る。すると、彼女は一瞬で涙を飲み込み、ふにゃりと柔らかく笑ってみせた。
「…おはよ、ナマエ……」
「……うん、おはよう」
泣いていたことなんておくびにも出さず、俺のために微笑むその顔。なんて強くて、健気で、可愛いんだろう。その無防備な笑顔を見た瞬間、俺の中の独占欲が、悲鳴を上げた。
「……そろそろ、出る準備しよっか?」
ナマエが身を起こそうとする。嫌だ。まだだ。まだ、この体温を手放したくない。
「……わっ、ちょっ…」
「…やだ。…あと、もう少しだけ」
理性が働くより先に、俺の腕は彼女をシーツの中に引きずり戻していた。子供みたいな駄々をこねて、強く抱き寄せる。バスローブ越しの柔らかい感触、首筋から香るシャンプーの匂い。その全てを、俺の記憶の引き出しに乱暴に詰め込みたくて、俺は彼女の唇を塞いだ。
「……ん…っ」
優しいキスなんて、できなかった。角度を変え、何度も貪るように唇を重ねる。逃がしたくなくて後頭部を押さえつけ、舌を割り入れる。
彼女の呼吸も、唾液も、魂ごと吸い尽くしてしまいたい。そうすれば、ナマエは俺の一部になって、アルゼンチンまで連れて行けるんじゃないか──そんな馬鹿げた妄想が頭をよぎる。
「あッ、お…いか……っ、んんっ…」
甘い声が鼓膜を揺らす。それだけで、昨夜の快楽の記憶が爆発的に蘇った。もう一回。あと一回だけでいい。彼女と繋がって、ドロドロに溶け合ってしまいたい。
俺の手は、無意識のうちにバスローブの隙間へと滑り込んでいた。熱い肌に触れる。彼女がビクリと震える。
止められない。いや、止まりたくない。このまま彼女を組み敷いて、俺のものだって証を刻みつけたい。
ナマエの足の間に手を運ぶ。滑らかな太ももの内側を、指の腹でゆっくりと撫で上げる。そこが一等弱いらしい彼女は、一際びくりと身体を揺らして、その口から色っぽい息を漏らした。その反応が、俺の劣情に油を注ぐ。
理性のタガが外れかけた、その時だった。
「……お、いかわ…っ!」
切羽詰まった声で、名前を呼ばれた。昨日、行為の最中に何度も呼んでくれた「徹」じゃない。「及川」という、いつもの呼び名。それが、冷や水のように俺の熱を下げた。
彼女の指が、俺の腕を押し留めている。拒絶じゃない。その瞳は潤んでいて、今にも泣き出しそうだ。
ああ、そうか。彼女は分かっているんだ。これ以上進んだら、俺たちが本当に離れられなくなることを。俺の夢の邪魔になってしまうことを。だから、彼女は俺のために踏みとどまったのだ。
「…おい…かわ……」
「……はぁ……」
俺は、重く息を吐き出して、彼女から手を離した。
自分の弱さが、どうしようもなく悔しかった。だから、俺は聞いた。彼女の覚悟を試すように、そして、あわよくば、その覚悟が崩れることを期待して。
「……本当に、別れる?」
俺の問いかけに、彼女の瞳が揺れる。
頷いてくれ、と思った。
「嫌だ」「待ってる」と泣きついてくれれば、俺はそれを言い訳にして、この手を離さずに済む。「遠距離でもいいから繋がっていよう」と、俺のエゴで縛り付けることができる。
けれど、彼女は微笑んだ。泣きそうな顔を隠して、それでも真っ直ぐと、俺の目を見て言った。
「……うん、別れるよ 」
──ああ、やっぱり。敵わないな。
この子は、俺なんかよりずっと強い。自分の寂しさよりも、俺のバレーを、俺の未来を優先できる強さ。俺は、そんな彼女の、バレーを愛する俺ごと愛してくれる、その凛とした強さに惚れたんだと、痛いほど思い知らされる。
だから俺も、腹を括るしかなかった。「頑張るから、見てて」と、精一杯の強がりを告げることしかしなかった。
彼女が別れを選んだ以上、俺にできることはもう、潔くこの部屋を出て、前へ進むことだけだ。身支度を整える。部屋の空気は、さっきまでの熱が嘘のように冷え切っていた。
「……よし」
ドアノブに手をかける。このドアを開ければ、ふたりだけの世界ではなくなる。覚悟は決めたはずだった。けれど、手のひらにあたる金属の冷たい感触が、足の裏に根を生やさせたように俺の動きを止めた。
「及川?」
振り返り、戸惑ったように名前を彼女の腕を、俺は無言で引いた。勢いよく俺の胸に飛び込んでくる身体。
俺は彼女の顔を両手で挟み、逃げ場をなくすようにして、ゆっくりと顔を近づけた。彼女が、すべてを受け入れるようにそっと瞳を閉じる。
その長い睫毛が、僅かに震えていた。
「──ん…」
重ねた唇は、さっきのベッドでのような、欲に任せて貪るようなものではなかった。かといって、挨拶のような軽いものでもない。ただ、唇と唇を、強く、隙間なく押し付けるだけの、静かなもの。
互いの体温を。唇の柔らかさを。形を。脳髄に焼き付けるための、「刻印」のようなキスだった。じっと、息をするのも忘れるくらい、長く。
(……これが、最後だ)
予感めいた確信が、胸を鋭く刺す。もう二度と、彼女にこうして触れることはない。この唇も、吐息も、体温も、もう俺のものじゃなくなる。
言葉にすれば溢れ出しそうな、行き場のない想いをすべて、その口付けに込める。
永遠にも感じる数秒が過ぎ、ゆっくりと唇を離した。至近距離で見つめ合った彼女の瞳は、少しだけ潤んで揺れていた。
──泣くな。泣いたら、崩れてしまうから。
その独白は、彼女への懇願か、それとも自分への戒めか。俺は精一杯の強がりで、口元を緩めてみせた。
「…よし、行こうか」
声は、震えていなかっただろうか。重たいドアを開ける。朝の光の中へ。俺は、数時間後には離すことになるその手を握りしめ、未来へと続く一歩を踏み出した。
△
駅での待ち合わせ、新幹線での移動。ナマエはずっと、「及川徹の自慢の彼女」を演じ続けていた。
俺の家族の前でも、岩ちゃんたちの前でも、彼女は一度も暗い顔を見せなかった。母親が「これからもよろしくね」なんて、残酷な願いを口にした時でさえ、彼女は笑顔で「はい」と頷いた。
その笑顔が、俺の胸を千切れるほど締め付ける。嘘をつかせているのは俺だ。無理をして笑っている彼女の痛みが、手を取るように分かってしまう。
初めてのデートの日、俺が似合うと言った色を身に纏って微笑む、その健気さが、俺の罪悪感を抉る。俺は、こんなにいい子を傷つけてまで、自分の夢を選んだんだという事実が、重くのしかかった。
羽田空港、国際線ターミナル。
出発ロビーのざわめきが、遠い。岩ちゃんやマッキー、まっつんの笑い声、家族の温かい言葉。それらに笑顔で応えながらも、俺の神経は、少し離れた場所に佇む一人の少女にだけ集中していた。
岩ちゃんに肩を叩かれ、俺は彼女の前に立つ。見上げたその瞳は、泣き出しそうに揺れているのに、それでも芯の部分で強く光っていた。俺の夢を邪魔しないという、残酷なまでの覚悟。
ポケットの中で、小さなベルベットの箱を握りしめる。渡すべきか、最後まで迷っていたもの。これを渡してしまえば、本当に「お別れ」の儀式が完了してしまう気がして。けれど、何も残さずにいくことなんて、俺の幼稚な独占欲が許さなかった。
「……これさ、もらってくれる?」
桜のネックレス。昨日、二人で見た満開の桜。日本での最後の思い出。そして、俺がいない日本で咲き続ける花。それを彼女の身につけさせたかった。
彼女の首に腕を回し、震えそうになる指先を叱咤して、細いチェーンの留め具を合わせる。白くて、華奢な首筋。昨夜、俺が何度も唇を寄せた場所。
「…うん、似合ってる」
一歩下がり、ナマエを見つめた。
俺のいない場所で、彼女は笑い、泣き、生きていくんだ。こんな可愛い子、俺以外の男が、放っておくわけない。
──嫌だ。他の男になんて、見せたくない。
「……これつけてる間は…他のやつに、あんまり隙見せないで」
溢れ出そうになる嫉妬心を、「冗談」というオブラートに包んで、俺は告げた。『友達として』なんていう、自分でも呆れるくらい白々しい言い訳を使って、釘を刺す。
別れると決めたくせに、俺はまだ「心配する権利」を主張している。このネックレスを「鎖」代わりにして、彼女を縛り付けようとしている。本当に、自分はどこまでもズルい男だ。
「……大丈夫だってば。…でも、ありがとう、大切にするね」
彼女は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに困ったように、でも愛おしそうにネックレスを握りしめて微笑んだ。
「……そろそろ、行かなきゃ」
別れの時が迫る。
ナマエが「行ってらっしゃい」と言う。その声の震えに気づかないふりをするのが、今の俺にできる唯一の誠意だった。
「向こうに行っても、及川らしく、頑張ってね。……ずっと、応援してるから」
その口から溢れたのは、『待ってる』じゃない。『行かないで』でもない。俺の背中を押す言葉だ。
彼女の優しさに甘えて、彼女の時間を奪うわけにはいかないから。分かってる。頭では、分かってるけど。
「──……」
腕を伸ばし、その体を抱き寄せる。
ぎゅう、と力を込める。折れてしまいそうなほど細い体。俺の腕の中にすっぽりと収まる、愛おしい熱。
「……ごめん」
彼女の耳元で、情けないほど震える声が出た。
「…あの時、『もう離さない』って言ったのに……嘘つきで、ごめん」
神社の境内で誓った、あの言葉。あれは嘘じゃなかった。本気だった。一生、こいつの手を離さないつもりだった。それなのに、自らの手でその約束を破り、夢を選ぼうとしている自分が、どうしようもなく許せなかった。
「……ううん。嘘つきなんかじゃないよ」
彼女が首を振る気配がした。背中に回された手のひらが、優しく俺をさする。
「……連れて行きたい」
口から滑り落ちたのは、誰にも聞かせられない、俺の剥き出しの本音だった。アルゼンチンへ行くことに迷いはない。でも、そこにお前がいないという事実だけが、俺を狂わせる。
ポケットに入れて、連れて行ってしまいたい。誰にも見せず、俺だけの場所に閉じ込めて、ずっとそばに置いておきたい。そんな子供じみた、無茶苦茶な願いだった。
──バレーも欲しい。お前も欲しい。全部手放したくない。
だけど、彼女は「ふふ、なにそれ」と、困ったように笑うだけだった。
このままじゃ、旅立つことができない。彼女をここへ置いていくためには、俺たちの関係に、はっきりとした「終わり」を告げなきゃいけない。今のこの溢れ出しそうな「愛してる」という感情を、無理やりにでも殺さなきゃいけない。
俺は、血を吐くような思いで、その言葉を紡いだ。
「……好きだった。…誰よりも」
過去形にすることで、この恋を「思い出」という箱に閉じ込めた。
──嘘だ。今も、これからも、誰よりも愛してる。でも、こう言わなきゃ、俺たちは前へ進めない。
一瞬、ナマエの身体が強張った気がした。泣くか、と思った。けれど、彼女は泣かなかった。
「……うん。私も」
そう言って、ナマエも俺と同じ場所で、この恋に終止符を打ってくれた。
体を離す。俺は顔を上げ、彼女を真っ直ぐに見据えた。恋人の目ではなく、バレーボール選手・及川徹の目で。
「見ててね。絶対…俺、最高にいい男になるからさ」
それは、バレー選手として結果を出すという宣言であり、いつか再び彼女の前に立つ時、恥じない男になって帰ってくるという、俺なりの誓いだった。
「うん…楽しみにしてる」
彼女が、最高の笑顔で送り出してくれる。それで十分だった。
最後に、岩ちゃんたちや家族が待つ方へ、寂しさを振り払うように、大きく手を振る。振り返してくれるみんなが、「頑張れよ!」と背中を押す言葉をくれる。
俺は、胸の奥に彼女の視線を焼き付けながら、ゲートを抜けた。
△
振り返らない。絶対に、振り返ってはいけない。
手荷物検査場を抜け、角を曲がり、彼女の視界から完全に消えた。その無機質な空間に入った瞬間、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。完全に一人になった、その静寂の中で。
──今まで鋼鉄の鎧のように纏っていたはずの何かが、粉々に砕け散った。
「……っ、あ……」
声にならない呻きが漏れ、足がもつれて壁に手をつく。俺は咄嗟に、近くの太い柱の陰へと身体を滑り込ませた。そのまま、ずるずると床に崩れ落ちる。膝に顔を埋め、奥歯を噛み締めても、嗚咽が漏れた。涙が、ボロボロと溢れ出して止まらない。瞬きをするたびに雫が落ち、床に、いくつもの黒い染みを作っていく。
みっともない。誰かに見られているかもしれない。そんなことはもう、どうでもよかった。
(ナマエ……っ…)
置いてきた。誰よりも愛しい女の子を。俺の夢のために、傷つけて、泣かせて、一人にしてきた。
瞼の裏に、彼女との思い出が走馬灯のように駆け巡る。
『及川の努力が意味のないものだったなんて、絶対に思えない』
──試合に負けて、最低な八つ当たりをして彼女をしたとき、それでも彼女は逃げずに、俺の努力を肯定してくれた。
『その指が、ずっと、バレーボールに触れてきた指なんだって、一目で分かったの』
──俺の手を握りしめ、この指に惹かれたのだと、彼女は言ってくれた。
『及川がどれだけバレーが好きで、勝ちたいって本気で思ってるか、みんな分かってるよ』
──主将のプレッシャーで押しつぶされそうな時は、静かに背中を撫でてくれた。
俺が欲しい言葉を、いつだって俺が欲しい以上の温度でくれる人だった。だから。
『及川の覚悟を揺らす存在に、私がなってるんなら、私は、及川の前からいなくなる』
だからこそ、彼女は俺のために「別れ」を選んだのだ。俺が後ろ髪を引かれず、世界へ羽ばたけるように。俺の重荷にならないように。自らの心を殺して、俺の夢を守ってくれたのだ。
「……っ、あーあ、…っ……ほんと……最低だ、俺」
あんなに素敵な女の子を、あんなに強くて優しい子を、俺は手放したのだ。喪失感が、胸を抉る。今すぐに引き返して、抱きしめたい。そんな衝動が喉まで出かかる。
──でも。
俺は、濡れた顔を乱暴に腕で拭った。ここで戻ったら、彼女の覚悟を、彼女がくれた「愛」を、踏みにじることになる。『待ってて』なんて、言えなかった。彼女もそれは望んでいなかった。彼女は俺に「安心」ではなく、「輝くこと」を求めたのだから。
(……やるしかない)
俺は顔を上げた。これだけの涙を流させたんだ。これだけの痛みを、二人で背負ったんだ。なら、俺は何がなんでも成功しなきゃいけない。中途半端な結果で終われば、今日のこの涙は、ただの無駄になる。
壁に手をついて、ふらつきながらも立ち上がる。足元がおぼつかない。それでも、一歩を踏み出す。
ガラスに映る自分を見る。目は赤くて、酷い顔だ。今はまだ、何者でもない。世界から見れば、ただの無名のアジア人セッター。──だけど。
「……才能は開花させるもの。センスは磨くもの、だろ」
彼女が信じてくれた「及川徹」を証明するために。
いつか、世界中の誰が見ても「及川はすごい」と言わせるような選手になる。その時こそ、胸を張って彼女を迎えに行けるように。
俺はポケットの中の搭乗券を強く握りしめた。もう、迷わない。俺は前を向き、搭乗ゲートへと続く光の中へ、大きく足を踏み出した。