校内が浮き足立った熱気に包まれる、文化祭当日。朝から廊下は仮装した生徒たちで溢れかえり、あちこちで歓声や音楽が鳴り響いている。教室の飾りつけも、廊下の模擬店も、何もかもが非日常の色をしていた。
私たちのクラスが出店したのは、パンケーキ屋さん。エプロンを着けて、私の持ち場であるホットプレートの前に行くと、教室の入り口からはすでに威勢のいい声が響いていた。
「いらっしゃいませー! 愛情たっぷり焼きたてパンケーキはいかがですかー!」
様子を見に行なくても分かる。あの妙に軽い調子の自信満々な呼び込みは、絶対に及川だ。ちらりとそちらに目をやると、案の定、彼を中心に黒山の人だかり、というか女子だかりができていた。
「やっぱ及川くん、呼び込み上手いね!」
「すごい、さっきからお客さん途切れないもん!」
一緒に生地焼き係をしているクラスメイトたちが、感心したように囁き合う。
「ほら、そこの可愛いお嬢さんも一枚どう? 今なら俺からの投げキッス付き!」
「このチョコバナナが超オススメ! 俺も大好き!」
「えー、君のためだけに焼いたって言ったら、信じてくれる?」
次から次へと繰り出される軽口と、キラキラした笑顔。女子たちはキャーキャー言いながら、嬉しそうにパンケーキを買っていく。
(……あなたは焼いてないでしょ)
心の中で冷静にツッコミを入れつつも、彼のその手腕には若干呆れるしかない。
ビジュアル担当、兼、客引き担当。文化祭という特殊な空間で、彼のその能力は遺憾なく発揮されていた。彼が誰に対してもこういう態度なのは、いつものことだ。
分かっている、はずなのに。彼の笑顔が、他の子に向けられているのを見るのは、なんだか、面白くないと思ってしまう自分がいた。
(……別に、なんとも思ってない)
自分に言い聞かせるように、私は目の前のホットプレートに意識を集中させる。じゅう、と生地が焼ける音。立ち上る、甘ったるい匂い。それが、教室の入り口で繰り広げられる、彼の甘い言葉のシャワーと重なって、私の心をじわじわと苛立たせた。
「……はぁ」
無心で生地を流し込み、ひっくり返す。その単純作業に没頭することでしか、この胸のざわめきから逃れる術を、私は知らなかった。
食べてもないのに胸焼けそうな匂いに眉を寄せ、私は及川の呼び込みの声を聞きながらひたすらフライ返しで生地をひっくり返し続けた。
△
ピークタイムが過ぎ、ようやく交代のメンバーがやってきた。エプロンを外し、衝立で仕切られた教室後方の休憩スペースへ入る。隅に並べられた椅子に座って自分の荷物から飲み物を取り出していると、同じタイミングで休憩になったらしい及川も「ふぅー、疲れたー」と言いながら入ってきた。
「……お疲れ」
「お、ナマエちゃんもお疲れ様ー! いやー、我ながら今日の俺もイケてたわー。さすがみんなの及川さん!」
達成感に満ちた顔で、当然のように及川が隣に座る。ペットボトルのお茶を飲みながら、私は横目で彼を見た。教室に充満する甘い匂いが、彼の自信満々な態度と重なる気がした。
「……本当、すごいよね、及川って」
溜め息とともに吐き出したそれは、賞賛のようでいて、ほんの少しだけ棘を含んでいた。私のその声音に含まれたものに気づいたのか、彼はパチパチと目を瞬かせる。
「え、どこが? やっぱ俺の完璧なルックス?」
「そういう、わざとらしいとこじゃなくて。その、パンケーキみたいなところだってば。メープルシロップ、これでもかってくらいかかってるやつ」
私は呆れたように続ける。及川は私の例えが全くピンと来てないようで、説明を促すように首を傾げた。さっきの、女の子たちに囲まれていた及川を思い出すと、何故か少しモヤモヤしてしまって、口調が自然と強くなってしまう。
「人の懐にいつの間にか入り込んで、甘い言葉ばらまいてさ…。でも、その甘さ、結構くどくて後味がしつこいっていうか……なんかもう、他の味がよく分かんなくなっちゃうくらい、存在感だけ残していく感じ」
少し皮肉を込めて言ったつもりだった。けれど、最後の部分は、自分でも無意識に本音が漏れたような気がして、若干の気まずさを覚える。
「へぇ……パンケーキでメープルたっぷり。しかも『他の味が分からなくなる』くらい、ねぇ」
及川は私の言葉を楽しそうに反芻し、唇の端をゆっくりとつり上げる。いつもの軽い笑顔とは少し違う、私の心の奥の、一番隠したい場所を、面白そうに覗き込んでいるような、底意地の悪い光がそこにはあった。
「『くどい』とか『しつこい』とか、散々な言われようだけどさ」
彼は隣の椅子からこちらへ顔を近づけ、私の目を覗き込むようにして、悪戯っぽく囁いた。
突然近づいた距離に、さっきまでの自分の中の強気はどこへ行ったのか、思わず身体が固まってしまう。それに気づいているであろう及川は、心底愉快そうに目を細めて微笑んだ。
「それって結局、『俺の味が強烈すぎて、ナマエちゃんの中にもうしっかり染み込んじゃって、俺のことしか考えられなくなってる』ってことでしょ? ……違う?」
「なっ……!」
息を呑む。近い距離と、核心を突くような言葉に、心臓が大きく音を立てた。顔にぶわっと熱が集まるのが分かる。腹が立つのと、図星を突かれた動揺とで、頭が混乱する。
「ち、違うに決まってるでしょ! バカじゃないの!? 自意識過剰!」
「えー? でも、顔真っ赤だよ?」
彼はケラケラ笑いながら、楽しそうに私の反応を見ている。
「『他の味が分からなくなる』って言ったのはナマエちゃんだからね? 俺は事実を確認してるだけ」
「言葉のアヤ! そういう意味じゃない!」
「ふーん? じゃあどういう意味?」
からかうように問い詰められて、言葉に詰まる。
違う。そう言いたいのに。彼の言葉は、あまりにも的確に、私がずっと気づかないふりをしていた真実を、容赦なく暴き出していた。
しつこくて、くどくて、甘ったるい。でも、その存在感に、もう完全に心が囚われているのかもしれない。
そんなこと、絶対に認めたくなかったけれど。彼の前では、どうしてこうも、隠し事ができないんだろう。
「……知らない」
苦し紛れに呟いて、逃げるように及川から視線を外す。
及川はなおも楽しそうに口元を緩めていたけど、それ以上はからかいの言葉を投げて来ずに、バックの中から自分の飲み物を探し始めた。その沈黙が、なんだか気まずい。私は賑やかな外の景色に目を向けた。
体育館の前では、後夜祭のステージ準備が進んでいるようだった。模擬店の前にはまだ行列ができていて、文化祭特有の熱気が校庭全体に満ちている。
私たちのクラスも、盛況は続いているらしい。衝立の向こうからは注文をするお客さんの声と、慌ただしく対応するクラスメイトの声がひっきりなしに聞こえてくる。
なんだかんだ言っても、あの女子たちを引き寄せていた及川の存在は、大きかったのかもしれない、なんてことをぼんやりと考えていた、その時だった。
「にしてもさぁ……」
不意に、隣で椅子に寄りかかっていた及川が、ぽつりと言った。その声は、思ったよりもずっと静かで、まるで話すつもりじゃなかった言葉が、不意にこぼれてしまったみたいだった。
「俺って、そんなにチャラく見えるかな」
「……は?」
気の抜けた返事になってしまったのは、横を向いた先の彼の顔が、思っていたのと違ったから。いつもの、からかうような、ちょっと得意げな笑顔じゃない。ほんの少しだけ眉を寄せて、ちょっと困ってるような顔。
「いや、だってさっきナマエちゃん、俺のこと完全に『チャラい』って断定してたじゃん?」
「事実でしょ」
「うぐっ……そこ、肯定しちゃうんだ……」
私の即答にがっくりと肩を落とす。その落ち込み方は、いつもの及川より少しだけ子供っぽく見えた。でも、多分、ほんの少しだけ、ほんの少しだけだけど、本気で気にしてるのではないか、とも思った。
「俺だってさ、結構ちゃんとしてるつもりなんだけどなぁ……」
「“つもり”ってところが、もうダメなんじゃない?」
「ちがっ、そうじゃなくて! 本気で言ってるし!」
不服そうに反論する及川を横目で見ながら、私は再び窓の外へ視線を戻した。少しだけ、意地悪が過ぎたかもしれない、と思った。本当は、知っているくせに。
「……まぁ、でも」
ふと、口をついて言葉が滑り出た。
「軽いだけじゃないってことは、知ってるけど」
「え?」
隣の及川から、息を呑むような声が漏れる。
「…だって、バレーしてる時は、別人みたいに真剣だし」
「……」
「見てないようで、周りのこと、ちゃんと見てるし」
「……」
「……練習だって、一人で残って、ずっと…頑張ってたの、知ってる…から……」
「……っ」
そのまま、何気なく言い続けて、ふと自分の言葉の重みに気づいた。
──あ。やばい。
墓穴を掘ったかもしれない。自覚した瞬間、全身の血の気が引いていく。無意識に唇を指で押さえてしまったが、もう遅い。そんなことをしても、一度出してしまった台詞は戻らない。
何で、こんなことを口走ったんだろう。そもそも、彼が一人で練習していることなんて、本来なら私が知っているはずがないのに。
でも、見てしまったのだ、あの日、体育館で。それを、今、うっかり自分でバラしてしまった。
「……え、ちょ、ちょっと待って、ナマエちゃん」
及川の声が、いつもと違っていた。さっきまでの、不服そうな響きはもうどこにもない。そこにあるのは、戸惑いと、信じられないという驚きと、そして、それを遥かに上回る、隠しきれない喜びの色だった。
頭の中で、けたたましく警報が鳴り響いた。まずい、まずい、まずい。怖くて、視線を合わせられない。全身の血が顔に集まってくるのが分かり、その火照りがじわじわと耳まで広がっていって、私はただ、黙って目を伏せた。膝の上に置いていた両手をキュッと握りしめる。
「もしかしてさ……俺のこと、見てたの?」
「ち、違っ、これは、その……!」
「え、いつ? どこで? 俺、全然気づかなかったんだけど?」
たたみかけるように続く言葉。さっきまで子供みたいに拗ねていたのが嘘のように、彼の周りの空気が、一瞬にして輝きを増した。その、あまりにも純粋な興奮を前に、私の言い訳なんて、何の意味もなさない。
「俺の知らないところで、ナマエちゃんが俺のこと見ててくれたとか……すごく嬉しいんだけど」
「ち、近いから……!」
思わず後ずさろうとしたけれど、壁際だったこともあり、及川に簡単に行く手を阻まれてしまう。
逃げ場がない。それに気づいた及川が、ふっと、今度は楽しそうに微笑んだ。その笑顔は、もういつもの彼だったけれど、その奥にある喜びの色は、隠せていなかった。
「ねえ、もっかい言ってよ」
「……は?」
「俺がバレーしてるとこ、ナマエちゃんがどう思ってたか、ちゃんと聞きたい」
その声は、ふだんの軽さをほんの少しだけ削いだ、低くて静かな響き。耳元で、心の奥まで染み込むみたいに響いて、息が止まりそうになった。
そんな風に見つめられたら、もう、何も考えられなくなる。
「……やだ」
精一杯の抵抗のつもりだった。でも、言いながら自分でも気づく。声が震えていることに。
「えー、なんで? いいじゃん、減るもんじゃないし」
「もう、さっき言った…!」
「ちゃんと聞きたいの。もう一回」
「…やだ!」
耳まで真っ赤になっているのが分かる。心臓がうるさくて、痛い。及川は、そんな私の顔をじっと見つめると、ややあって、ふっと、柔らかく笑った。
「……そっか」
その声は、驚くほど穏やかだった。もっと、拗ねたり、しつこく聞いてきたりすると思っていたのに。まるで、私の真っ赤な顔と、震える声そのものが、彼が欲しかった「答え」だとでも言うように。私の反応に、心底満足したような、そんな響きを持っていた。完全に、見透かされている。その事実が、少しだけ悔しくて、気まずい。だけど、あの言葉をもう一回伝えるなんて、できるはずもなかった。
「……」
「ま、いっか。俺のこと、ちゃんと見ててくれたって分かったし。……ナマエちゃんの中で、俺がメープルシロップみたいに染み込んでるって分かったしね?」
一拍置いて、いつもの調子でそう言ってくる。冗談めかしてるけど、どこか照れ隠しのようだなと思った。
「あのねぇ、だからなんでそんな自意識過剰なのよ」
「はいはい、照れない照れない」
「照れてない!」
「でも、当たってるんでしょ? ほら、『最初は普通なのに、後から甘さが残る』ってやつ」
必死に否定するけど、及川はそれすら楽しそうに受け流してくる。彼のその態度に、少しだけ、本当に少しだけ、安堵している自分がいた。いつもの、彼とのくだらないやり取り。その日常に戻れた気がして。
──でも。
「……ね?」
及川はまた、悪戯っぽく私の顔を覗き込んだ。その至近距離で、そんな甘い声を出さないでほしい。心臓が、破裂しそうだ。
そう思った、まさにその瞬間。不意に、彼の瞳から、からかうような色がすっと消えた。いつもみたいな余裕のある表情じゃない。どこか少しだけ、息を詰めたような、真剣な眼差し。
「……ねえ、ナマエちゃん」
耳元で、低く響いた声。それは囁きではなかったけれど、私の心の芯まで、直接震わせるような響きを持っていた。
「俺さ……たぶん──いや、違うな」
静かに、言葉を切る。
何かを強く決意するように、迷いを振り払うように、一瞬だけ目を伏せる。そして──ゆっくりと、もう一度、まっすぐに私を見た。その瞳の奥に、今まで見たことのない色が灯っている。
飄々とした態度も、計算された笑顔も、すべてが剥がれ落ちたようで。コート上の王様でも、クラスの人気者でもない。私が知っているどの及川の顔でもなく、ただ、ひたむきな想いを瞳に宿した、私が初めて見る彼の顔だった。
「……俺、本気、なんだと思う」
それは、問いかけでも、宣言でもなく、まるで自分自身に言い聞かせるみたいに、静かに、けれどはっきりと落とされた言葉だった。
「え……?」
息を呑むしかなかった。まったく予想もしていなかった。何も返せないまま、ただ、問い返すみたいに声が漏れる。
及川は、それ以上何も言わなかった。その顔に、一瞬だけ動揺が走る。まるで自分の口から滑り出た言葉に、彼自身が一番驚いているような表情。彼は「しまった」と言わんばかりにさっと目を伏せた。
「……なんてね」
唇の端が、無理やり引き上げられて、いつもの笑顔の形を作る。けど、その笑みがほんの少しだけ強張って、ぎこちないのを、私は見逃さなかった。
「さて、そろそろ休憩終わりかなー」
及川は徐に立ち上がり、両腕を伸ばしながら衝立のほうへと歩いて行く。まるでこの空気から逃げるように。残された私といえば、心臓が痛いほど鳴り響いて、思考が完全に停止していた。
希望なのか、戸惑いなのか、それとも恐怖なのか、分からない感情の渦が胸の中で激しく渦巻いて、結局、私は何も言い返すことができなかった。
さっきの、あのぎこちない笑顔だけが、頭から離れなかった。