「はぁ……俺、今日、ナマエちゃんとじゃんけんで負けた時は運勢最高だと思ったのになー」
及川が苦笑しながら、ぐっしょりと濡れた前髪をかき上げる。肌に張り付いた髪の間から覗く額、そこから頬を伝って喉元へと滑り落ちていく雨粒を、私は無意識に目で追ってしまい、慌てて俯いた。
ざあざたと降りしきる冷たい雨が、容赦なく制服に染み込んでくる。九月と言えど、今日は風も強くて、濡れたシャツやスカートが肌にぴったりと張り付き、体温がどんどん奪われていくのが分かった。
私たちは体育大会のクラス練習で使う、熱中症対策のタブレットや差し入れのお菓子を買いに、学校から少し距離のある業務用スーパーまで来ていた。よりによって、その帰り道で、こんな土砂降りに見舞われるなんて。
買い出し係を決めるじゃんけんで、彼と二人揃って負けた時点で、今日の運のなさは決まっていたのかもしれない。
(このままだと、風邪引く……)
この時期に彼が体調を崩したら、もうすぐ始まるらしいバレー部の大会にも影響が出るかもしれない。そう考えた瞬間、ほとんど衝動的に言葉が口をついていた。
「……風邪引いたら大変だし、うち、寄ってく?」
「え?」
隣で、及川が驚いたように瞬きをした。彼の声が、ほんの少しだけ上擦ったように聞こえた。
「家、そこの角曲がってすぐだから…タオルとか、貸せるし……」
他意はなく、純粋な心配から口にした言葉だった。お互いに両手にはクラスメイトから頼まれた購入品が入ったビニール袋も持っているし、このびしょ濡れな状態で交通機関を利用するのも躊躇われた。それなら、家で雨が落ち着くまで待っていたほうがいいだろうと思ったのだ。
「……そっか。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
一瞬だけ躊躇うように視線を彷徨わせた後、彼は小さく笑って頷いた。その表情に、いつもの余裕とは違う、微かな戸惑いの色が滲んだ気がした。
△
鍵を開けて玄関に入ると、後ろからついてきた及川が「おじゃまします」と呟く。ここに来るまでも雨は降りしきっていて、お互いに滝に打たれたような姿だ。
「タオル、持ってくるね。ちょっと待ってて」
そう声をかけて洗面所へ向かい、一番大きなバスタオルを手に戻る。
「はい、これ使って」
「あ、どーも……」
タオルを受け取った及川が、濡れた髪をわしわしと拭き始める。その姿を眺めていて、ふと現実に引き戻された。
(……あれ? ていうか私、今、クラスメイトの男子を、家に上げている…? しかも、よりによって及川を…?)
じわじわと、自分の行動の意味が押し寄せてくる感覚。いや、でも、風邪を引かれたら困るからで。これは不可抗力というか、人道的措置というか。そう心の中で言い訳を組み立てる。
「家の人は? もうすぐ帰ってくる?」
タオルで顔を拭きながら、聞かれたくないことを及川が尋ねてきた。言い難いけど、隠しても仕方がない。私も及川と同じようにタオルで制服や髪の水気を拭き取りながら、ポツリと返す。
「…親も兄も、今日は遅いって言ってた…」
そう伝えた瞬間、及川の動きが止まった。警戒心の無さに呆れられてるだろうか。
一拍置いたのち、わざとらしく「ひゅー」と口笛を吹く。
「へぇ、マジで二人きりじゃん。ナマエちゃん、俺みたいなイケメンと二人きりとか、ドキドキしちゃうんじゃないのー?」
「……そういうところ、本当にどうかと思う」
「えー、照れちゃって。可愛いなー」
口ではいつもの軽口を叩いているのに、彼の笑顔はどこかぎこちなく、耳が少し赤い気がした。妙な気まずさを覚えながらも、彼のびしょ濡れの制服に目がいく。
「あの、とりあえず脱衣所に案内するね。濡れたままだと寒いだろうし……兄のでよかったら着替え、持ってくるから」
「え、いいの? 助かるわー」
「うん。じゃあこっち……」
彼を脱衣所へと案内する。狭い空間に満ちる雨と彼の匂いに、心臓が変な音を立てた。
「ここで待ってて。すぐスウェット持ってくるから」
「了解」
私は急いで兄の部屋へ向かい、クローゼットから適当なスウェットの上下を見繕う。これならサイズも大丈夫だろう。少し早足で脱衣所の前に戻った。
「及川? 持ってきたよ」
そっと脱衣所のドアを開けた──その瞬間。
「え……」
息が、止まった。
そこには、すでに濡れたシャツを脱ぎ終えたらしい及川が立っていた。上半身は剥き出しで、私が玄関で渡したバスタオルで髪の水分を取っているところだったらしい。
普段の制服姿からは想像もつかない、鍛えられた胸板や、うっすらと影を作る腹筋のライン。雨に濡れた髪が額や頬に張り付いて、いつもの整った甘い顔立ちが、ひどく扇情的に見える。
「……あ、ごめん。シャツ、もう限界だったから先に脱いじゃった」
彼は少し申し訳なさそうに言う。いつもは軽口と自信に満ちた笑顔で武装している彼が、今、何も飾らず、服を脱いでいる。そのギャップが、私の心を激しく揺さぶった。
「……あの、これ……お兄ちゃんのだから、ちょっとサイズ合わないかもしれないけど……」
しどろもどろになりながら、かろうじてスウェットの上下を差し出す。自分の声が上擦っていないか、それだけが心配だった。心臓が、ありえないくらい大きな音を立てているのが分かる。
自分の大胆さと、目の前の光景の破壊力に、眩暈がしそうになる。でも、風邪を引かせるわけにはいかない。そう、これは必要なことだ。
「じゃ、じゃあ、着替え終わったら、濡れた制服はカゴに入れといて! リビングは廊下の奥だから!」
自分でも何を言っているのか分からないくらい早口でまくし立て、私は脱兎のごとくその場を後にした。
及川の「あ、ありがと……」という少し困惑したような声が背後から聞こえた気がしたけれど、もう振り返る余裕なんて、どこにもなかった。
「……」
廊下に立ち尽くし、熱くなった頬を両手で押さえ、気を落ち着けるように深く息をつく。それでも、脳裏に焼き付いてしまったさっきの光景は、そう簡単には消えてくれそうになかった。
△
「……ふぅ」
リビングのドアを開ける前に、一度深呼吸をする。
さっきの動揺をなんとか胸の奥に押し込めてから、私は自分の部屋に戻り、濡れた制服から楽なTシャツとハーフパンツに着替えた。少しは落ち着いた……はず。
意を決してドアを開けると、窓の近くに立って外の景色を眺めていたらしい及川が振り返った。大きな窓の向こうは、依然として激しい雨が世界を白く煙らせている。
少しダボっとしたスウェット姿は、見慣れなくて新鮮に感じる。
兄の身長は一応成人男性の平均以上はあるのに、180cmを越える及川が身に付けているのを見ると、同じスウェットには見えないな、とぼんやり思った。
そして何故か及川の上半身は、バスタオルを無造作に肩にかけただけの、素肌のままだった。そのあまりにも無防備な姿に、再び心臓がどきりと大きく跳ねた。
「……あれ、及川、上の服は…? サイズ合わなかった?」
思わず尋ねると、彼は少しだけばつが悪そうな顔をして、でもすぐにいつもの軽い調子に戻って言った。
「あー、いや、上は、そこまで寒くないし、バスタオルで大丈夫かなって。わざわざお兄さんの借りるの申し訳ないし…。ごめん、脱衣所の棚にあった新しいバスタオル、勝手に借りちゃった」
「それは別に良いんだけど……」
いいけど、良くない。いや、良くないのは私の心臓だ。
目のやり場に困る、というより、困っているのに視線が吸い寄せられてしまう。鍛えられているんだろうな、と他人事のように思う端から、頬が熱くなっていくのが分かる。
「じゃあ、あの……ソファ、座ってて。私、自分のと……及川の服も、乾燥機かけてきちゃうから」
「おー、マジで? 至れり尽くせりじゃん。ナマエちゃん、ありがと」
ひらひらと手を振る彼に背を向け、私は自分の濡れた服を手に再び洗面所へと向かった。
脱衣所には、まだ微かに彼自身の匂いなのか香水なのか、とにかく、さっきまで彼がここにいた気配が色濃く残っていた。それにまた心臓が速くなる。
洗濯カゴから彼の制服を取り出す。ずっしりと水分を含んだ生地の重みが、指先に伝わってきた。それは単なる物理的な重さだけじゃない。男子の、それも及川の制服を、今まさに私が手にしているという事実。
じっとりとした制服の冷たさと、脱衣所に残る彼の残り香。それらが一度に押し寄せてきて、自分が今、とんでもなく非日常的な状況に足を踏み入れているんじゃないか、という焦りが背筋を駆け上がった。
(私、本当に何やってるんだろう……)
顔が熱い。乾燥機に服を詰め込みながらも、さっき見たばかりの彼の姿や、この場の空気感が頭から離れなくて、心臓だけがやけにうるさかった。
リビングに入ると、及川はソファに深く腰掛けて、所在なさげにテレビのリモコンをいじっていた。やっぱり上半身は素肌のままだ。その姿が目に入るたびに、心臓が意味もなく跳ねるのをどうにかしたい。
私の姿に気づくと、彼はリモコンを置いて、少しだけ気まずそうな、でもすぐにいつもの人懐っこい笑顔を向けてきた。
「あ、ナマエちゃん。ホント助かった。ありがとね」
「う、うん。どういたしまして…」
ぎこちない返事しかできない。まだ顔が熱いのが自分でも分かるし、彼の姿に平常心ではいられない。
何か気を紛らせなくては、と必死で思考を巡らせ、当たり障りのない提案を口にする。
「…あのさ、乾燥終わるまで少し時間あるし、何かあったかいのでも飲む?」
「お、いいの?」
彼がそう答えるのを聞き届けるか届けないかのうちに、私はリビングとひと続きになっているキッチンへ移動し、紅茶でも淹れよう、と戸棚を開いた。何か作業に没頭していなければ、とてもじゃないけど、この空間には耐えられそうになかった。
湯気の立つマグカップを二つ、お盆に乗せてリビングに戻る。彼はソファに腰掛けたまま、今度は窓の外の雨をぼんやりと眺めていた。その横顔は、教室で見る騒がしい彼とは違って、やけに大人びて落ち着いて見える。
「はい、どうぞ。…熱いから気をつけて」
「……ありがと」
彼が顔を上げたその瞬間、濡れて艶めいた髪と、しなやかな筋肉のラインが目に入る。慌てて視線を逸らし、彼に気づかれないように及川に渡すマグカップをローテーブルに置く。
「……どうかした? 顔、赤いけど」
「な、何でもない」
そう答えながらも、及川が細めた目でじっとこちらを見ているのを感じる。
それに気づいてないふりをして、自分の紅茶を入れたマグカップもテーブルに置いた。そしてそこではたと気付く。私はどこに座るべきか。
ソファは一つだけなので、及川の隣に座るしかないのだが、どれだけの距離を開けて腰掛ければ良いのかが分からない。なんとなく気まずくて戸惑っていると、彼がこちらを見た。
「お邪魔してる俺が言うのもおかしいけど、ナマエちゃんも座れば? そんなところに立ってないで」
軽い口調。いつもの調子だ。でも、彼のそばに座るのはやっぱり躊躇われて、ソファの端に、少しでも距離を取って腰を下ろそうとした、その時。
「……えっ」
及川が、私の手首を軽く掴んで引き寄せた。
バランスを崩し、隣に吸い込まれるように座り込むのと、彼が私の肩を抱き寄せるのは、ほぼ同時だった。
「ちょ、な、何……っ!?」
驚いて身じろぎすると、及川の腕にさらに力が込められ、完全に彼の腕の中に閉じ込められてしまう。裸の胸板の硬さと、彼の体温が直に伝わってきて、思考が真っ白に染まった。
「……ねえ」
耳元で囁かれた声が、低くて、甘くて、脳の芯を痺れさせるように響く。
「俺のこと、意識、してるでしょ?」
「……っして、ない……っ!」
否定の言葉とは裏腹に、胸の鼓動は警鐘のように激しく鳴り響く。
「ふーん…? でもさ、その真っ赤な顔と、可愛い反応……ちょっとくらい、期待しても良いってこと?」
擽るような声とともに、背中に回された腕が、もう一度きゅっと強く引き寄せる。
(近い、近い、近い……!)
体温を共有するようなこの距離に、胸の鼓動を誤魔化す術なんてなかった。
「う、うるさいっ! これは……部屋が暑いだけ!」
「へぇ?」
くすくすと喉を鳴らして笑う彼の気配が、また少し近づいてくる。
「……っ」
思わず息を止めた。次の瞬間、彼の指先が私の頬に触れた。ひんやりとした感触に、びくりと体が震える。
顔を上げると、すぐそこに、及川の顔があった。
彼の指先の冷たさとは対照的に、触れられた私の頬は、自分でも分かるほど熱くなっていた。
「……男をさ、こんな簡単に二人きりの部屋に入れちゃダメって、お兄ちゃんとかに言われなかった?」
静かに落とされた声は、どこか、諭すような、それでいて切実な響きを含んでいた。まるで私の不用心さを咎めるような。
「……でも、及川が風邪引いて、バレー、出来なくなったら、困るだろうからと思って……」
必死で絞り出した声は、震えていたかもしれない。それでも、言わずにいられなかった。
私だって、誰彼かまわずこんなことをするわけではない。及川がどれだけバレーを大切にしているか知っているからこその行動だ。
「……え?」
及川の目が、ぱちりと瞬いた。いつも余裕の色を浮かべている瞳が、ただ驚いたように、私を真っ直ぐに見つめている。
「……? なに?」
その反応の意味が分からず、思わず首を傾げる。私の問いかけが聞こえているのかいないのか、彼はまるで信じられないものを見るかのように、私の顔をじっと見つめたまま、動かない。
「……今、なんて言った?」
ようやく絞り出されたのは、掠れた、ほとんど吐息のような声だった。
「だから……及川が、風邪引いて、大事なバレーができなくなったら、大変でしょって……」
もう一度、今度は少しだけはっきりと繰り返した、その途端。
彼の張り詰めていた表情から、ふっと、力が抜けていく。
「……そっか」
小さく息を吐くように言う。そして、次の瞬間、彼の唇の端が、ゆっくりと弧を描いた。
それは、いつもの自信満々な笑顔や、人をからかう時の意地の悪い笑みとは全く違う。何か宝物を見つけたみたいに、どこか子供みたいに、無防備で、嬉しそうな顔。
一度だけ、同じような表情を見た記憶がある。夏の初めに、校門のフェンスで寄りかかって二人で話をした時。及川の指を心配した私を、バレーと自分を繋げて見てくれたと、嬉しそうに笑った時の、あの顔に似ていた。
「……俺のこと、そんな風に心配してくれてたんだ。ありがと」
ぽつりと落とされた言葉とともに、及川の指が、そっと私の頬を撫でた。さっきの冷たさはもうなく、彼の体温が伝わってくる。優しく、慈しむように。
「……っ」
その優しい手つきと、見たことのない彼の表情に、困惑する。髪をそっと梳く指先が、耳の後ろを撫でる。
「ナマエちゃんは、いつも、俺のこととバレーのこと、一緒に見てくれるよね。……めちゃくちゃ、嬉しい」
その声は、どこかぎこちなくて。普段の余裕綽々な彼からは想像もできないような、正直すぎる言葉だった。
及川にとって、バレーがどれだけ大切か。彼がどれほど真剣にバレーと向き合っているか。ほんの一部だろうけど、私は知っていた。
だからこそ──今、彼が私の言葉を、本当に、心の底から喜んでくれているのだと分かった。
「………うん」
小さく頷くのが精一杯だった。及川の手が再び、そっと私の背中に回される。
「……ほんと、可愛い」
囁くような声が、耳元に落ちる。吐息があたるほど近い距離に、及川の綺麗すぎる顔がある。そして、次の瞬間。柔らかいものが、そっと、私の唇に触れた。
(……え?)
息を呑む。思考が、ぷつりと断ち切られる。
──キス、された?
何が起こったのか理解できないうちに、唇に触れたものの柔らかさと、わずかに湿った熱が、じわり、じわりと現実味を帯びていった。
「……っ!」
雨音だけが響く静かな部屋で、及川の腕の温もりが、彼の心臓の鼓動が、ダイレクトに伝わってくる。
その瞬間に、起きていることを理解した。胸が、早鐘のように激しく鳴り響く。
「ん……」
でも、逃げられなかった。体が、まるで彼の腕に縫い付けられたみたいに動かない。背中に回された腕が、拒絶を許さないかのように、ほんの少しだけ強くなる。
密着した上半身から、彼の裸の体温がじかに伝わってくる。鍛えられた胸板の硬さ。肩から腕にかけての、しなやかな筋肉の感触。それらが、今は何の隔たりもなく、私の肌に触れていた。その事実に、意識が眩みそうになる。
アイドルのような甘い顔と、普段は制服に隠されている、アスリートとしての彼の肉体。そのギャップが、私の心を激しく揺さぶった。
濡れたままの髪が、お互いの額や頬に触れ合う。肌に残る水滴のひんやりとした感触と、それとは対照的に、どんどん熱を増していく唇。
彼の唇が、私の唇を確かめるように、ゆっくりと、でも深く押し当てられる。
「んん……っ」
「……ん…」
鼻にかかる、彼の少し荒い、甘い吐息。止まらない口付けに呼吸が苦しくなって、唇が、わずかに開いた、その瞬間。
彼の舌の先端が、私の唇の合わせ目を、躊躇うように、けれど確かに辿った。柔らかな感触が、奥へと、もっと深くへと誘うように入り込んでくる。
「……っ、だ……」
──だめ。だめだってば、こんなの、絶対に。
頭の中で警告音が鳴り響く。ちゅ、と小さく響く水音が、耳に、そして全身に熱を伝播させる。ぬるり、とした熱い舌が、私の舌を逃さないというように追いかけてくる。
キスをするのは初めてではない。だけど、こんなふうに、息も、意識も、逃げ場さえも奪われるようなキスは初めてだった。まるで「逃がさない」と、言葉よりも強く告げられているようで、体がぎゅっと縮こまる。
「ん……ちょ、待っ……」
息継ぎの合間に、かろうじて声を漏らす。拒絶の言葉は、彼の熱い吐息の中に溶けて、意味をなさない。
及川の腕がさらに強く腰に回り、唇が少し深く、貪るように沈み込んでいく。
「……は……っ」
どれくらいの時間が経ったのか。息を吸い込んだ瞬間、彼の舌の動きがふっと緩やかになった。徐々に慈しむような優しさに変わり、そして、最後にそっと唇を押し当てられると、名残を惜しむように、ゆっくりと離れていく。
「……」
至近距離のまま、お互いの乱れた息だけが聞こえる。彼の瞳に、さっきまでの激しい熱と、我に返ったような戸惑いの色が混じっているのが見えた。背中に手を回したまま、及川は苦しそうに顔を歪める。
「……ごめん」
掠れた声が、静かな音となって耳に届いた。
「…びっくり、させた、よね……」
背中に回った彼の腕の力が、僅かに緩む気配がした。
ぽつりと零れた言葉は、問いかけというより、彼の申し訳なさが滲んだ呟きのようだった。再び私の頬に触れた彼の指が、貼り付いていたらしい髪をそっと払う。その優しい触れ方と、すぐ目の前にある真剣な瞳に、心がぐらりと揺さぶられる。
拒絶しなければ。そう思うのに、体は石のように固まって動かない。声を出そうとしても、喉がひくついて、言葉にならない。ただ、僅かに開いた唇から、戸惑ったように彼の名前を呼ぶことしか出来なかった。
「お、いかわ…」
その反応を、彼はどう受け取ったのだろうか。
「ごめん……ほんと、我慢、できなくて……」
そう言いながら、背中に回された手が、もう一度私をさらに強く抱きしめる。彼の体温が、私の背中にじわりと広がっていく。
「ナマエちゃんが、俺のこと、あんな風に心配してくれてるって知ったら……嬉しくて、抑えきれなくなった」
顔を埋めるみたいに、私の肩口に彼の額が押し付けられる。荒い息が、私の首筋をくすぐった。
低く響いたその声は、さっきよりもずっと切実で。抱きしめる手の強さも、伝わる熱も、すべてが甘くて、切なかった。
「こんな状態で……言うのは、全然説得力ないかもしれないけど……」
腕の力を緩められる。顔を上げると、彼の目が、私を真っ直ぐに見つめている。そこには、もう隠しようのない強い光が宿っていた。
「俺、ナマエちゃんのこと、ただのクラスメイトとかじゃなくて…一人の女の子として、すごく可愛いって思ってるし……もっと、触れたいって、思ってる」
囁かれる声が、甘くて、震えるくらい優しい。
「だから…少しでもいいから、俺のこと……ちゃんと、男として見てほしい」
そう言って、もう一度頬に触れた指先が、今度はそっと両手で私の頬を包み込むようにして、目を逸らせないように、合わせさせられる。
「……っ」
彼の瞳に射抜かれて、どんな顔をして良いかわからない。
及川はいつも、軽口ばかりで、本気かどうかわからない言葉で私をからかう。だから、彼の言葉を真に受けることなんて、無駄なことだと思ってた。でも、今の彼は、いつもの彼とはまるで別人だった。冗談を言う時の、あの余裕のある笑みはどこにもない。真剣な眼差しと、切実な声。それらが、私の心を激しく乱れさせる。
「……好きだから」
囁くような、けれどはっきりとした声が、届いた。
「好きだから……こうしたくなるんだ」
息が止まった。熱が一気に顔に上るのが分かった。
──好き?
及川が、私を?
信じられない。彼の言葉が、現実のこととして、まだ上手く処理できない。軽い雰囲気で好意を口に出されることは何度もあった。でも、今の告白は全く違う響きを含んでいる。だからこそ、どんな顔をすればいいか分からない。
「……っ」
恥ずかしさで視界が滲んでしまって、思わず俯いた。
及川が言った「好き」という言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。何か、言葉を返さなきゃ。そう思うのに、喉が震えるだけで、うまく声が出ない。
そんな私を見ていた及川が、ふいに息を呑んだ。
「……やば…」
低く、けれどどこか衝撃を受けたような声。及川がほんの少し目を見開いて、固まっていた。
「…え?」
「……いや」
彼は一瞬言い淀んだあと、かすかに目を伏せ、何かを堪えるように、ゆっくりと息を吐く。そして、照れたように、困ったように、苦笑した。
「……今の顔、可愛すぎて…理性、飛びそうだった……」
静かに零された言葉に、心臓が文字通り飛び跳ねる。
(な、何、それ……!)
そんな殺し句、反則だ。
「…このままじゃ、ほんとに…もっと、触りたくなるから……」
そう呟く声は、さっきよりもずっと掠れていて、切実だった。彼の真剣な目に見つめられるだけで、体が動かなくなる。何もできないまま、ただお互いの瞳を見つめる。
「……ダメだな、俺」
不意に、及川がふっと自嘲するように小さく笑った。後ろに回されていた腕の力が緩められる。
「……ごめん、ほんと」
そう言って、彼は名残惜しそうに、でもきっぱりと、私から一人分の距離を取った。今まで至近距離にいた分、急に生まれた空間が、妙に広くて、落ち着かない。
「ふふ、ナマエちゃん、顔、真っ赤。茹でダコみたいになってるよ?」
次に聞こえてきたのは、無理やり取り繕ったような、いつもの軽い調子の声だった。彼の目が、私をからかうように細められている。でも、その奥にまだ熱が残っているのが、私には分かった。
「っ、ちが…これは、その……!」
咄嗟に否定すると、及川は楽しそうに、けれど少しだけぎこちなく目を細める。
「へぇ?」
唇の端を上げて、わざとらしくじっと見つめてくる。その演技が、今は白白しく思えるけど、それを指摘するほど私には余裕がなかった。
「……っもう、知らないっ!」
恥ずかしさと、戸惑い。感情の整理がつかず、思わずそっぽを向いた。それでも、胸の奥で燃え続ける熱は、まだ簡単には消えてくれそうになかった。
彼の言葉が、彼の熱が、彼の不器用な告白が、私の心に深く、深く刻み込まれていく。いつもの彼との、あまりにも大きなギャップ。それに頭が混乱する。
でも、彼の言葉が、嘘偽りのない、本物の気持ちだってことは、痛いほど伝わってきていた。
その事実に、どう向き合えばいいのか、まだ分からなかった。私の気持ちは、どうなんだろう。自分でも、分からない。
雨が、いつの間にか、上がっていた。