※「二月二十日」と同じ日のお話です。
「中野先生」
中野先生は庭でひとり立っていた。こちらに気付くと、繕うように笑みを浮かべる。
「仕事かな?今日は予定が入っていなかったと思うけど」
「仕事はないです。ただ、少し気になったので」
今朝、小林先生はなかなか食堂に現れなかった。他の先生方も気にしていたが、中野先生は特に落ち着かなかった。志賀先生と石川先生のお祝いを始めても、中野先生は少し離れた所から見ているだけだった。そして、小林先生は最後まで顔を出さなかった。
「多喜二は?」
「まだ見ていませんが、志賀先生が探しに行かれたみたいです」
「……司書さんに気を遣わせてしまったかな」
何と返せばいいかわからず、私は小さく首を横に振った。中野先生は無言で食堂から出て行った。その後ろ姿を心配そうに見ている先生も少なくなかった。
普段は普通にしていても、皆何かしらの傷を隠している。自分にもあるから、他人のそれに触れてしまうのにも躊躇するのだろう。
私には先生方それぞれが経験した苦しみなんて理解できない。どれだけ辛い時代を生き抜いたのか想像もできない。でも、わからないからこそできることもあるような気がする。
「私が気になっただけですから」
無理に聞き出すつもりではないし、かける言葉も見つからない。ただ、ひとりにしておきたくなかっただけ。中野先生は全部抱え込んで、自分を追い詰めてしまうタイプだ。それは何となくわかっている。
「多喜二は多分、僕が転向したことを知らないんだ」
ぽつりと呟いて、中野先生は下を向いた。転向したこと、信念を曲げてしまったことを中野先生は後悔していた。信念を曲げないまま亡くなってしまった小林先生の前では、その後悔が強くなるのかもしれない。
「小林先生のこと、やっぱり心配ですか?」
「確かに心配だけど、それ以上に僕が耐えられないんだよ。彼が苦しんでいるのを見ると、自分が何もできなかったことを思い知らされるようで。自分勝手な話だけどね」
自分勝手だと言った時、中野先生は微かに笑った。嘲るような言い方だった。小林先生はそんなことを望んでいないはずだ。でも、小林先生から許されたとしても、中野先生は自分を許すことができないのだろう。
「私には何もわからないですけど、自分を許すのは難しいですよね」
中野先生は少し驚いたようにこっちを見た後に小さく頷いた。
「いっそ責めてくれればと思うよ。お前だけは本当の味方だとわかってる、なんて言われたら、どうしていいかわからなくなる。信念を曲げたなんて言えなくなる」
私は戦争中のことなんて話に聞いたことしかない。小林先生が今はいい時代だと呟くのを聞いても、私にとっては今の時代が当たり前なのだ。
命に関わる状況で中野先生が信念を曲げたのだとしたら、それは責められるようなことではないと思う。それを口にしたところで、何の慰めにもならないのだろうけど。
「お酒でも飲みますか?」
「……え?」
「中野先生はお酒が好きだと聞いたので。少しは気が紛れると思いますよ。いつになく気が滅入るのだとすれば、今日という日のせいだろうとネコさんもおっしゃってましたし、明日になれば大丈夫です。明日も小林先生はここにいらっしゃるんですから」
いつか中野先生が心からの笑顔で小林先生と話せる日がくればいい。まだ時間はあるのだから。今はただ、今日を無事に乗り越えて欲しい。
「さすがにこの時間から飲む気にはならないけど、夜なら司書さんも付き合ってくれるかい」
「あ、はい……あまりお酒は強くないんですが、少しなら」
「ありがとう、楽しみにしてるよ」
中野先生が笑ってくれたから、私も笑顔で頷く。寒いから中に入りましょうと促して、2人並んで歩き出した。
170226
title by るるる