逃げないお前が悪いよ

「美華、お願い!」

 昼休憩、教室で黙々と弁当を食べている美華の元に、必死な形相をしたうさぎが頭を下げに駆けて来た。その余りの迫力に思わず引いてしまった美華は悪くないと信じたい。口内に含んだミートボールをぽこ、と内頬に押し当てては、きょとん、とした様子でうさぎを見つめる。しかし、咀嚼を止めないその姿に幼馴染みの「慣れ」を見た気がした。


「え、なに?ご飯食べてるんだけど」
「今日一人で留守番なの!ちびちびもいるし一人じゃむりだよ……!夜ご飯一緒に食べよ!」
「行きたいのは山々だけど、今日バイトだしむりだよ」
「バ、バイトのあとでも…」
「……ちょっと遅くなるけど」
「ぜんぜん平気!美華大好き!ありがとう!」

 要約すれば、一人は寂しいしちびちびのお世話も出来ない、と言う事なのだろう。この切羽詰まった様子だと、星野辺りが首を突っ込んで来そうなものだが。ちらり、と彼の方に視線をやるも、気にした様子は無い。その事実に呆れを含んでは、美華は苦笑を浮かべつつうさぎの温もりに包まれたのだ。――昔から、泣きそうなうさぎの顔には弱いんだよなあ。




 十番街の住宅密集地帯。そこの入り組んだ十字路を、夜天と大気は談笑しながら進んでいた。こう言う所で住んだ経験がないからか、自分がアブノーマルな存在だと感じてしまうのは気のせいだろうか。――星野に教えて貰った通りの情報だと、もう少しで月野の家らしい。住宅街の最後の角を曲がる直前に、夜天の視界には見知った顔が入った。色素の薄いその顔は、最近、夜天の脳内を独占してやまない人物である。


「……空野?」
「夜天くん…大気さんも!」
「何で嬉しそうなの?腹立つなあ」
「ちょっと!なに怒ってるの!」
「夜天、大人気ないですよ」

 嬉しそうに頬を綻ばせてみせた美華は、小動物の様にこちらへ駆け寄って来た。――今日の学校は午前で終了し、それからこの時間まで、美華は必死にお金を稼いでいたらしい。日中に見た制服とは違い、裾に軽いレースがあしらわれているワンピースが揺らいでいた。そんな彼女の頬を軽く掴み、遊んでやれば、呆れた大気の声音がその場に響く。それにも構わずむにい、と両頬を引っ張ると、夜天の指先には餅の様な柔らかな感触が広がった。――その感覚に満足すれば、夜天は既に見えているうさぎの自宅へと歩を進めたのである。
 辿り着いたうさぎの家のインターホンを押し、門を開ければ、家内からはぱたぱた、と言った軽快な足音が微かに聞こえる。その玄関の扉からちらり、と顔を覗かせたのはちびちびである。――こんな小さな子供に接待を任せて、うさぎは一体何をしてるんだか。そんな思いを溜め息に乗せてちびちびを抱き上げては、くるんと煌めく瞳をそちらに向けたのだ。


「……おや、こんにちは」
「星野はお邪魔してる?」
「…お邪魔してる?」

 こてん、とあざとくも首を傾げる姿は酷く愛らしい。両腕でちびちびの小さな身体を支え、玄関を覗いてみる。すると、台所らしき所から大きな音が響き渡ったのだ。なにか事故でも起こったのか、とでも言いたくなる様な衝撃音に、美華らは思わず目を瞑る。――出て来たうさぎは野菜の皮や、水などの液体やらでぐちゃぐちゃになっており、その光景に、美華は無言で今までの経緯を察する事となったのだ。


「…何事です?」




 リビングのテーブルには、トランプが規則性を持って並べられている。美華らは今、七並べに興じているのだ。年頃の10代男女が集まってする事がそれと言うのは、余りにもつまらないと思うだろう。しかし、本人らは至って真剣であるようで、真っ直ぐな視線を持ち、それに打ち込んでいた。――まさか馴染みのあるうさぎの家にまで来て、七並べをする事になろうとは思ってもいなかった。ご飯を食べるんじゃなかったの。


「――大気さん、ここ、止めてらっしゃるでしょう?」
「…敵わないな、水野君には。でも、水野君も止めてるでしょ?クラブの5」
「さあ?何の事かしら?」
「大気、ムキになんなよ」
「そうそう。ゲームなんだから」

 机上にトランプカードを置く音が微かに響き、美華はそろり、と亜美と大気の方角に視線を向けた。その二人の間には確かな敵対心が生まれており、美華は苦笑する他に術は無い。どうやら、そんな二人に呆れ果てるのは美華だけではない様で、向かい側に座るうさぎと星野、レイも困った様に笑みを浮かべていた。しかし、うさぎとレイも同じ様に言い合いを始めてしまったため、あまり大差は無いのかもしれない。


「――パース!」
「わたしもパスで。はい、次」
「…お前は何回連続でパスを出せば気が済むの?」
「ん?」
「ん?じゃないんだけど。四回だよ?四回連続!馬鹿なの?」
「ちょっとしたいたずらでしょ?いつもそんなにピリピリしてたら禿げるよ?」
「禿げねえよ」

 まことに続いて順番が回って来た美華だったが、自身の持ち札を視界に入れずに手札の順番を夜天に回した。しかし、彼もそろそろ我慢の限界なのだ。――パス四回ってどんな神経をしてるんだ、このポンコツ女は。それだけでも苛立つのに、きょとん、とした様子で首を傾げる姿が妙に癇に障る。ほんっと白々しいんだよ、こいつは。――この様に、何時もと同様始まってしまった言い合いの間にうさぎが何処かに行ってしまったり、周りの奴らが呆れているのが分かる。そしてそれは、大気が仲介に入り、再び鳴らされたインターホンの正体を視界に入れるまで続いたのである。




 先程のインターホンで、うさぎが迎えた来客ははるかとみちるだった。どうやらドライブの真っ最中だった様で、アシが捕まるまでうさぎの家で時間を潰そう、と言う事になったらしい。唐突に増えた来客のため、お茶などを用意している間にデリバリーを済ませ、各々好きな所に腰を落ち着かせる。――しかし、落ち着いた空気には程遠い。寧ろ何処かピリピリとした緊張感のある空間に、誰も口を開こうとはしなかった。そんな勇気を持つ者は、きっとはるかくらいである。


「――まだ帰らなくて良いのか?芸能人って案外暇なんだな」
「今日はたまたまキャンセルがあっただけだよ!それに俺、ボディーガードだから」
「ふうん?最近のボディーガードは仲間を連れ込んで大騒ぎするのか」
「んだと!?」
「――お前らみたいなのがいたら、かえって危ない」

 内ポケットに仕舞っていた文庫本を手に取り、それに目を通しながら淡々と星野に言葉を投げ付ける。はるかの喧嘩を売る様なそれに、血の気の多い星野が突っ掛かるのは当然の事の様に思えた。――ああ、また始まってしまうのか。――そんな美華の呆れた視線も、今のはるかには届かないのだろう。そして、予想外の動きが一つある。はるかの発言に引っ掛かりを覚えた夜天が、喧嘩を売る様に身を乗り出してしまった事だ。


「『お前ら』って…僕達まで一緒にしないでよ」
「夜天、放って置きなさい」
「ちょっとうさぎ、あの二人って仲悪いの?」
「はるかさんってさ、ほら、男は嫌いらしいよ」
「…そう言うわけ」

 ――ああ、苛々するなあ。皆が皆、月野が好きだとか思わないでよ。月野に執着してるのは星野だけなんだから。本当、馬鹿みたい。――そんな思いを胸に再びソファに腰を下ろした所で、ふとうさぎの呟きが耳に入る。それと同時に、夜天の視界の端には困った様に笑みを浮かべる美華の姿が映り込んだ。しかしそれも一瞬の事で、美華は楽しげに後ろからはるかに抱き着いたのである。


「っ……本気にするな」
「間違ってはないでしょ。エンストしちゃってイライラしてるの?」
「ちがう、うるさい」
「美華がバイトを優先するから、はるか、拗ねちゃったのよ」
「みちる!」
「なになに、超かわいいじゃん。さみしかったの?」
「……さみしくない」

 みちるの「モテる男が嫌い」発言に思わず眉を顰めたはるかだったが、美華の言葉につん、と顔を背ける。そして始まる言い合いとも言えぬ会話は、みちるが最も楽しみな瞬間だ。初めて見る光景に、星野と大気は目をぱちくりとさせていた。――つんつん、とはるかの頬を指先でつつく。ひく、と時折震える彼女の眉は、何かを我慢している様に見えた。「さみしくない」のその一言がたどたどしいこと、はるかは気付いてないんだろうなあ。


「今度、新大久保でデートしようね」
「……ドタキャンするなよ」
「こいつら付き合ってんの?」
「いつものじゃれ合いよ」

 すり、と頬を擦り寄せては、楽しげに双眸を細める。みちるは「じゃれ合い」と称すが、美華とはるかの場合、どうやら前者が一枚上手であるらしい。夜天がきゅ、と僅かに眉を顰めれば、それを発見してしまったみちるはふと笑みを浮かべた。その笑みは柔らかなものではあるものの、何処か暗がりが孕んでいるようにも見える。――本当に美華は人たらしね。
 今日のうさぎの家には、訪問者が多い。美華とはるかの茶番によって仄かに和らいだ空間に、鈴の音が響き渡る。机の上に広がるデリバリーピザを含みつつ、美華は音が聞こえた方へ視線を向けた。うさぎがその音に応えてくれたようだが、中々帰って来ない。美華とはるかが廊下に顔を出すと、酷く焦った様子のうさぎとスリーライツがそこには居た。

 ――ああ、何だか大変な事になりそうな気がする。




 どうしてわたしは今、かの大人気アイドルの夜天光と浴室に隠れているのだろうか。


「…勢いで来ちゃったけどさ、わたし隠れる必要あった?」
「ないね」
「……狭いよね、出る?」
「別に良い」

 うさぎの家の浴槽は、良く見る一般家庭のそれだ。成人に近い人間の全身が入るサイズではない。美華と夜天に関しても身長は数cmの差だが、やはり筋肉の量が違うのだ。僅かに開いている浴槽の蓋から漏れる光で仄かに照らされる彼の表情は、少しだけ苦しそうである。そして、そんな彼から断りの言葉を告げられては、美華はもう何も出来ないのだ。


「で、でも…」
「…『はるか』ってやつとはあれだけくっついてたし、別に良いじゃん」
「は、はるかは女の子だもん。夜天くんは、その、ちがうでしょ」
「なに?」
「……お、おとこのこ、だもん」

 さらり、と煌めく銀髪が浴槽の底に垂れる。その動きを気にも留めず、夜天は美華の輪郭を指先でなぞってみせた。――背筋が、震える。どうしよう、擽ったい。今だって、肩に力を入れてこの体勢を保ってるのに、そんな事をされたらどうなるか分からない。そしてその不安は見事に現実となるのである。変な場所に力を入れてしまったのか、がた、と浴槽の蓋が一際大きな音を響かせている。その際に肩を押された美華は今、夜天に組み敷かれる体勢に陥っていた。唐突に近付いた二人の距離は、とてもじゃないが見せれるものではない。――どうしよう、絶対近い。視線が、体温が、ねつ、が、全部が夜天くんのもので、抱き締められてるみたい。


「…近いね」
「っ……あつい、よ。やてんくん」
「仕方ないでしょ」
「で、でも」
「それに、――逃げないお前が悪いよ」

 舌ったらずになる自身の声に、はるかの事を言えない事に漸く気付く。二人分の熱気が小さな空間に留まれば、むわっとした感覚に襲われるのは当然の事だった。そんな時に、手首を掴む夜天の力が強まる。――こんな暗い場所でも、夜天くんの翡翠の瞳は輝いていて、その強い視線を無視する事は出来なかった。この力から、このねつからも逃げられない。そんな思いが、まるで強迫観念の様に美華に纏わり付く。
 僅かに攻める様な口調と近付く距離に、思わず瞳を瞑る。その瞬間、二人の耳には食器やガラスなどの陶器類が割れる音が響く。――リビングで何かあったんだ。その考えは、美華の肝をひやり、とさせた。


「今の音…」
「…空野、ここから絶対出るな。良い?」
「っ…でも、リビングには美奈ちゃんが!」
「…分かってる。あいつも助ける」
「夜天くん…」
「――そうしたら、お前は傷付かないんでしょ」

 恐らく音の発生源には美奈子が居る。その考えのせいで、美華は夜天の言葉に頷けないでいた。しかし、彼はそんな美華の思いでさえ全て抱き締めるのだ。その意図は、最後に告げられた一言に全て込められている。――驚く程に優しくて、儚くて、いとおしかった。学校では絶対に見せないその表情を、きっとわたしは忘れないのだと思う。
 漸く納得をした美華を横目に、夜天は思い切り浴槽の蓋を開けた。そして、ポケットに入っているチェンジスターを確認して、浴室の扉に手を掛けたのである。しかし再び、彼は細々とした声に呼び止められる事になる。


「…なに」
「……行ってらっしゃい」

 その言葉に、夜天は翡翠の瞳を大きく見開かせた。「一緒に行く」と言う言葉を、つん、とする感覚さえも飲み込んで、美華は笑顔を浮かべてそれを言う。――そんな空野の姿に、僕は妙な既視感を覚えた。いつの日か、同じ事を、同じ表情かおをされたような、そんな感覚だ。その表情がひどく辛くて、儚くて、とても嬉しかった。そんな朧気な感情だけが残っている。
 その顔が好きだ。理由なんてないよ、分かってるだろう。僕が「僕」である理由は一つ、探すものがあるからだ。君に惹かれるためじゃない。同じ星に、同じ場所に生まれたら、なんて夢物語は口にしない。それでも、僕は別の何かに逢うためにこの星に引き寄せられた、そんな気持ちになった。星と星の巡り逢いを、信じたくなった。


「――行って来ます」

 それでも僕は、――あたしは、あんたのその表情だけで何でも出来る気がするのよ。