どうか独りで逝かないで

「――火球プリンセス!」
「よく、ご無事で…!」
「私達、この時をどれ程待ち望んでいた事か……!」
「……火球、ちゃ」
「…心配をかけましたね、スターライツ。そして…美華」

 スターライツの各々が喜々とした表情を浮かべ、自身のプリンセスとの再会を喜んでいる中、美華は大きく瞳を見開かせた。柘榴ざくろを思い起こす火球の赤い髪が、風に揺られて靡く。遠く、掠れてしまった記憶と何ら変わりのない火球の姿に、美華は思わずその名を呟いた。その瞬間、交じり合う事になった濁りと輝かしい双眸に死にたくなる。――そんなわたしの気持ちなんかは一生知る事もなく、火球ちゃんはわたしを抱き締めた。


「無事で、良かった……」

 美華の衣服と火球の衣服が擦れ合う度に、火球から漂う金木犀の香りが鼻孔を擽る。耳元で微かに響く衣服の音に、ぴくり、と肩を震わせた。ぽつり、と囁かれる一言に、絞り出される様な声音に、美華は羞恥さえ覚えたのである。――きたない、汚いわたし。わたし、また、前世と同じ事をしようとした。誰かを守る為に自分の身体を犠牲にして、悲しさを、置いて行かれる辛さを、また。もうしない、って決めてたのに。わたしはこんな方法でしか誰かを守れない。


「…スターライツ、私には大切な使命があったのです。この地に降り立ったのも、希望の光を見つける為だったのです」
「っ…そんなもの、必要ありません!あなたさえご無事なら、あたし達の星を取り戻すなど容易い事です!」
「戻りましょう、私達の星へ」

 美華の身体を離した火球はスターライツを視界に映すも、ヒーラーの言葉を耳にしてはきゅう、と切なげに瞳を細めてみせた。それに唯一気付いてしまった美華は、無意識ながらにも火球の服裾を掴んでしまっていたらしい。灯火の様な温かさを持つ火球の手の平に包まれては、美華はそっと目を伏せる。ヒーラーの表情は、見る事は叶わなかった。今見てしまえば、きっと泣いてしまうだろうから。


「…希望の光が見つからない限り、混沌を封じ込める事は出来ません。お願いします。どうか、力を貸して下さい」
「――随分と勝手な事を言うじゃないか」

 再び紡がれた火球の言葉はスターライツと太陽系戦士の共闘を望むもので、そして、それを阻んだのは切望された筈の太陽系戦士の言葉だった。思わずその声が響く方へ顔を向ければ、そこにはウラヌスとネプチューン、そして、プルートが居た。ふと、ウラヌスとの視線が絡み合ったかと思えばそれはきゅう、と細められる。――火球ちゃんとそっくり、なんて言ったら笑っちゃうくらい蔑まれそうだなあ。


「強いエナジーを感じて来てみれば…」
「よくもそんな事が言えたものね」
「あたし達のプリンセスを侮辱するつもり?」
「――お止めなさい」

 あの夜の一件の様に、外部戦士とスターライツの間には目には見えない、バチバチ、としたものが行き交っている様に見えた。口を挟む事を躊躇うこの空間は酷く胸を締め付けられそうで、どちらを見れば良いのかも不明である。しかし、この居心地の悪い空間を断ち切ったのは他でもない、火球だった。そして、僅かに潤ませた双眸にうさぎを映したのである。――その後、この空間には言いようのない空気が流れる事になった。それを遮ったのが雑草を掠る足音と、ヒーラーの声音だったのである。


「…美華、身体は大丈夫なの」
「う、うん。平気」
「……あんた、あの女の側にいる限りこんなこと、続けるの?」
「こんな事って――」

 ヒーラーの手は美華の腕を握り締めており、エナメル素材越しからはヒーラーの温もりがじんわり、と伝わって来る。先刻の鋭い緊張感は何処へやら、ヒーラーの双眸には縋り付く様なか弱さが孕んでいた。そんなヒーラーは恐る恐る、しかし、明確なうさぎへの敵意を抱きながら再び言葉を紡ぐ。そして、美華の腕を握り締める手を力ませた。ぎゅう、と響く布擦れの音を無視して、ヒーラーは「ねえ」と美華を呼び付ける。


「――連れ去ってもいい?」

 そう言って、ヒーラーは顔を近づけさせた。ふんわり香る金木犀にどきり、と心臓が脈打つ。「連れ去る」なんてそんなこと、出来る訳ないって分かってるくせに。どうしてそんなで、欲しい、って訴えて来るの。わたしだって分かってるくせに。どうして期待するみたいに、そのぬくもりに縋りつきたくなってるんだろう。前世も、使命も、戦士も星の加護もなかったらわたし達、すべてをかなぐり捨ててお互いだけを選ぶのに。それをさせないのがウラヌスの、はるかの声だった。


「――だめに決まってるだろ」
「は、はるか…」
「…あんたには聞いてないわよ。口挟まないでくれる?」
「こいつに話があるんでね、さっさとその手を離せ」
「……はあ?」

 ――なんともまあ恐ろしい空間…!――それが、この場に集った者たちの心の声である。太陽系戦士とキンモク星の戦士の間に、その差は存在していない。後ろに倒れ込む様に支えられた美華は、ぱちくり、と何度も瞬きを繰り返し、ヒーラーとウラヌスの言葉の応酬を眺めるばかりである。それが進む度にそろり、と肌を伝う冷や汗は、美華の肩を竦ませた。そんな美華は怒気の孕んだヒーラーの声に、漸く我に返る。そして、驚く程に俊敏な動きでウラヌスの腕を掴んだのである。


「は、はるか、話なら聞くから、ね」
「……ここじゃ話しにくい」
「……ヒーラー、また連絡するから。今は火球ちゃんを――」

 そう言いながら、美華は最後にヒーラーの方を振り返る。その瞬間、器用にも指を掬われてはぎゅう、とそれらを絡め取られた。どうやら、美華の話を聞く気は無いらしい。――前世から、ヒーラーのきらきらとしたが苦手だった。とても綺麗で、美しくて、わたしがすきですきで堪らないものだから、どうやったって逆らえない。今だってそう、この人はずっと追い求めていた主じゃなくて、恋焦がれるようになぜかわたしから目を離さない。


「……あとで山ほど、お小言聞かせてやるんだからね」

 拗ねたようにそう言ったヒーラーの表情かおは見た事のない、初めて目にするものだった。




「――なんであいつと一緒にいたんだ」

 裏の茂みで変身を解いたはるかは、そう言って連れて来た美華を見下ろした。その隣には同じく、変身を解いたみちるがその光景を見届けている。プルートはどうやらあの場に留まり、うさぎらの相手をしているらしい。はるかの背後に見え隠れするオーラは、きっと幻覚であるに違いない。ずもも、と言いたげなその雰囲気に思わず目を逸らし、美華は唇を尖らせる。拗ねた子どもの様なその姿は、中学の頃を思い出させた。


「…だって、まこちゃんが殴られそうだったんだもん……」
「お前は丸腰で敵の前に出るのか……?」
「敵じゃないもん!」
「あのな――」

 ぼそり、と呟かれた言葉に、はるかは思わず眉を顰めた。しかし、その後に紡がれたそれは美華の地雷であったらしい。そんな美華の反応に溜め息を吐く一方で、みちるは呆れた様に、しかし何処か楽しげに笑みを溢してみせた。だが、その真意が分からない美華はただただ首を傾げるばかりである。――二人とも、呆れてはいたけど怒ってはいないみたいだった。うさぎのように、すべての自由を奪う真似をする訳ではないみたい。そんな考えに陥っていたわたしに、みちるちゃんは口を開いた。


「あの子と美華が恋人同士だって聞いたものだから、はるか、じっとしてられないのよ」
「おい、みちる」
「こいびと……」

 ――「こいびと」――その四文字がまるで知らない言語の様に思えて、美華は一度だけそれを反芻した。しかしそれも一瞬のこと、彼女の顔は熟れた苺の様に赤く燃え上がったのである。そんなあからさまな反応に、夜天に対して分かりやすい苛立ちを見せるはるかは、きっと美華の事が好きで、大切で堪らないのだろう。そんなはるかに気付かない美華はもご、と口篭り、しかし再び言葉を紡ぐ為に口を開いた。


「……前世で、だよ」
「前世…?」
「今はそんなんじゃない。……わたしはすきだ、けど」
「美華、そのくらいにしてあげて。はるかが怒りで我を忘れそうだわ」
「エッ、何で!?」

 ――そうだ、この女はこう言う奴だった。自分の影響力をまるで把握せず、自分がどれだけ愛されているか、どれだけの気持ちを寄せられているか、まるで理解していない。だから僕の目の前で、他の男を「すき」だなんて言えるんだ。鈍く、自己肯定感の低い美華は、思えば自分から進んで前世の話をしようとはしなかった。その真意は未だ分からないけれど、進んで話されても、多分僕は見もしない銀髪に敵対心を燃やしていただろうな。妹を、身内を知らない男に横取りされたような感覚になっていたはずだ。
 ちらり、と美華は戸惑いがちな視線をはるかに向ける。先程の怒りのみの表情とは異なり、僅かな呆れも混じっている様に感じた。――はるかはわたしの事が好きだ。自惚れではなく、すごく、すごく大切に思ってくれている。でも言えなかったのは「わたし」が曖昧だから、だと思う。その中で言える事は、一つだけしかなかった。


「…わたし、うさぎを庇ってスターシード、取られちゃったの」
「な、……ッに、馬鹿な事をしてるんだお前は!だからお前、あの時倒れて――」
「取り敢えず話を聞いて!――でも火球ちゃん、…キンモク星のプリンセス、が助けてくれたの」
「…スターライツの主ね」
「……前世からの友だちなの、悪く言わないで……」

 今の美華には、現在いまの事しか言えないのだ。はるかとみちる、せつなが何時からあの場を観察していたのかは分からないが、きっと、美華の輝きが消えた事には気付いていたのだろう。それを案じて、これだけの激情を表している事も分かっている。しかし、美華にも譲れないものがあった。スターライツと上手く関われなかった頃、美華の居場所は火球の隣だったのだから。――ぺしゃんこに押し潰したような美華の声は初めて聞いた。でも、美華をこんなにも弱くしてしまうあの男は、どう譲歩しても腹立たしい。


「……美華の言い分は分かった。でも理解は出来ない」
「はる――」
「…縁を切れ、って言ってる訳じゃない。ただ、丸腰で前に出るな」
「……え」
「デス・バスターズの時も、デッド・ムーンの時も今だって、…お前はいつだって自分を犠牲にする」

 「頼むから止めてくれ」と言いながら、はるかは美華の身体を抱き締めた。逃がさぬ様に、消えない様に強く、強く抱き締めた。「はるか」の三文字さえ紡がせる事はせず、美華の首筋に鼻先をうずめる。――どれだけ心配しているか知らないくせに。戦いの場にお前の、そのセーラー服を見かける度に、自分が死んでしまうような感覚になるのを知らないくせに。なんの為に修業をつけてると思ってるんだ、美華じゃなかったら了承さえしていない。


「――僕の知らないところで、勝手に逝かないでくれ」

 どう足掻いてもこの手からすり抜けるお前を縛りつける方法があるなら、さっさと教えてくれよクソ野郎。




 初めて「頼むから独りで死ぬな」と懇願された。あんな、泣き言にも似た事を口にするはるかを見るのは初めてだった。あの後、家まで送ってくれた事に加えて「取り乱して悪かった。ゆっくり休め」と言う労わりのメッセージまでもらってしまった。珍しい事もあるものだなあ、と失礼極まりない事を思ってしまったのは一生言わないでおこうと思う。――前世では、あまり関わりは無かった。わたしは、と言うかスカイは宇宙のそこかしこを飛び回っていたから。「宇宙を監視する者」として生まれ落ちたスカイは、そもそも戦士じゃない。一戦を引いて関わっていた記憶はある、朧気だけど。はるかに修業をつけて欲しい、と頭を下げたのだって、その時に一番強かったのがあの人だったから。前世は関係なかった、はるかもそれは分かってると思う。けど、どこであれだけの執着心が芽生えたのかは、わたしは知らない。
 今日は平日だ。よって学校を終わらせた美華は一人、帰路へと着く。本日はバイトもなく、食料品も昨日のうちに買っておいたので真っ直ぐ帰るだけである。夕暮れに染まるアスファルトをローファーで踏み締める行為を繰り返していると、視界の端に丸みを帯びた銀糸が映り込んだ。


「――夜天くん」
「…学校帰り?」
「うん。夜天くんは、…仕事終わり?」
「うん」

 雨に濡れた蜘蛛の糸のようだ、と思った。太腿辺りまで伸びた襟足をふわり、と靡かせて、キラキラ、と煌めく翡翠色の瞳を美華に向ける。ぽつり、と響いた声音は抑揚のない、文化祭の時とは打って変わって淡々としたものだった。しかし彼女の隣を奪う滑らかさ、空気に溶ける様な柔らかなそれは彼女のみに向けられるものだ。テレビショーで見るより幾分かラフな服装は私服である事が分かる。しかし、片耳を見せる様に付けられたエメラルドグリーンのアメピンは衣装だろう。外すのを忘れてしまったのか、かわいい、と心の中で少し笑った。


「撮影か何かだった?」
「え、何で?」
「――黄緑のピン、かわいいと思って」

 美華がそう言うと、夜天は何の事だ、と言いたげにぱちくり、と瞬きを繰り返す。しかし、唐突に片耳を隠せばぶわわ、と一気に顔を熟れさせたのだ。おそらく、彼女の「ちょっと伸びたよね」と言う言葉は届いていない。ぎっ、とこちらを睨み付ける様子に思わず瞳を丸くするが、赤く染まった顔のせいで全く怖くない。寧ろかわいい、とまで思ってしまう始末だ。しかし、彼を拗ねさせてしまっては意味がない。ぷい、と顔を逸らしてしまった彼の服裾を掴み、控えめながらも己の存在を示してやる。すると、目の前の男は観念した、と言いたげに再び歩幅を合わせて来たのである。


「……身体、変化は無いの」
「うん、何ともないよ。元気」
「…あの時、殴ろうとしてごめん」
「え――」
「焦ってた、……余裕がなかった」

 控えめに服裾を掴む美華の小さく、柔い手を握り締める。そして、その力を強めた。僅かにこうべを垂れたその姿はどうにも弱々しくて、糸の様な銀髪が頬を隠す。その姿を眺めながら、ぎゅう、と夜天の手を握り返した。僅かに硬くなった、戦いに慣れた、愛しい愛しい大きな掌。思わず立ち止まり、きゅう、と目元を細めつつ夜天を見つめた。僅かに潤んだ濁った双眸がすきだと言うのだから、やはり彼の嗜好は変わっている。


「……良いよ。と言うかわたし、何も怒ってないもん」
「…………いや、僕殴ろうとしたんだけど?美華のこと、すきだとか言ったくせに」
「…まこちゃんとちびちびちゃんを庇いたかったのもある、んだけど、……笑わない?」
「僕が美華の言葉を笑った事なんてあったっけ?」
「な、……ない、です」

 文化祭のあの時の事を怒っていない理由は一つだけだ。焦る理由も、余裕をなくしてしまう理由も分かっているから。ただそれだけである。穏やかな感情よりも怒りや苛立ちに近い激情の方が、人は覆われてしまいがちなのだ。しかし、夜天にも譲れないものくらいはある。それを口にして、ゆるり、と双眸は弧を描く。綺麗な笑みで、美しい表情でこちらを圧するのは些か狡くはないだろうか。


「――あえる、と思って。夜天くん、に」

 しかし、煽る様な言葉を選んでいるとは露ほどにも思わない美華の方がずるい、と夜天は心の中でごちた。


「……僕に会う為ならスターシードもいらない、って?」
「そ、んなこと言ってない!」
「でも僕が見る美華の姿はいつだって消えて行くものなんだよ!」

 美華はずるいし、自分の価値をあまりに低く見過ぎてる。僕を守る為に、月野を守る為に、丸腰で敵の攻撃を受ける事を物ともしない。この女は遊ぶ時も、学校帰りも、ギャラクシアと対峙する時もいつだって、あたしを、僕を、隣にいさせてはくれないのだから。――濁りがちな美華の双眸が戸惑いがちに揺れる。言いたくて言いたくて堪らなくて、それでも言えなかった言葉。ぎゅう、と指同士を絡め合わせると、びく、と彼女の指先が跳ねた気がした。


「プリンセスがいなかったら美華、死んでたんだよ……?分かってるの、お前」
「…やてん、くん」
「……僕を庇って勝手に逝かないでよ」

 「頼むから守られていてくれよ」と言葉を加えて、一度だけ美華の唇を塞いだ。彼女の存在を消させない様に、誰にも奪われない様に腰へと腕を回し、彼女の後頭部を掻き抱く。潤んだ双眸が翡翠色のそれと絡まり、文字通り、夜天からは逃げられない。それどころか、彼女の内側から笑いが込み上げて来たのだ。こんな状態になってもまだ考えが変わらないところが、彼女の残酷さと言うべきなのだろうが。


「お前は何を笑ってるのかなあ……!」
「い、いひゃい、ごめ、ごめんなはい」

 先刻までの重苦しくも甘ったるい雰囲気とは打って変わり、曝け出されたのは、学校で良く見せていたクラスメイトのそれである。怒りの色を見せつつも本気ではない夜天は、美華の両頬を軽く摘まみ、ぐにい、と引っ張ってみせた。そのせいで大いに崩れる彼女の言葉は妙に舌っ足らずである。それさえかわいい、と思ってしまうのだから惚れた弱みとやらは厄介だ。
 一度キスをしたこと、美華の頬を苛めた事でスッキリしたのか、夜天は仕事を終わらせた直後よりも幾分か清々しい顔付きに変化していた。それのお詫び(と言えるのかは不明だが)として、彼女を自宅まで送り届ける事にしたのである。「はるかと似てる」と言われた事は既に許している。周囲から隠れる様に、互いの手をパーカーのポケットに突っ込む。その中では、互いを求める様に指先同士を絡め合わせていた。どうかバレませんように、と願っていれば、知らず知らずのうちに自身のマンションに着いてしまったらしい。部屋番号は531、両親はそれぞれ単身赴任で不在だ。――部屋の前まで送ってくれた夜天は、そこで漸く美華の手を手離した。この温もりで暫くは生きて行けるのではないだろうか。


 「じゃあね」と言いたくはなかった。腰辺りで切れるセーラー服の裾を掴み、そっと瞳を伏せる。色素の薄い灰色の髪が垂れるけれども、どんな表情を浮かべているか、きっと夜天にはバレていた。そんな事実から隠れる様にスクールバッグから鍵を取り出し、僅かに湿った手でドアノブを掴む。それに覆い被さる温もりは、彼以外有り得ない。思わず後ろを振り返った瞬間、彼は開放的となった玄関に美華を押し込んでは再び唇に噛み付いた。何度か舌先を触れ合わせると、生々しい温もりとは別に、僅かな感覚に襲われる。
 ――けど、嫌悪感は無かった。寧ろしあわせだった。今度は深く、深く重ね合わせて、少しだけ舌の先っぽを吸われる。慣れた様子でわたしの歯列をなぞる夜天くんにはむかついたけど、満たされた気がした。けれど、こちらから動こうとしたところで漸く唇が解放される。絶対わざとだ。


「…嫌じゃない?」
「……いやじゃない」
「もう少し、してもいい?」
「もう少し、って――」
「……だめ?」

 身体の自由も、呼吸も想いも全て奪っておいて、この男は最後の選択をわたしに委ねる。夜天くんはわたしの事をずるい、ずるい、と言うけれども、わたしに言わせれば夜天くんの方がずっとずるい。欲しいって、さっさと奪わせろ、って強請るみたいに見つめるくせに、絶対言葉にはしないんだもん。少し弱々しくお伺いを立てるのもだめ。だめ、って言えないんだもん。全部を委ねたくなるから、出来ないくせにすべてを預けたくなるから。――しちゃだめだって、二の舞になるのはだめだ、って分かってるから。


「――だめ、じゃない」

 このままシーツの波に呑まれてしまえば、わたし達はきっともう一度不幸になると、分かってるの。