twelve



「無事に手渡せたし、帰るわ」
「えっ」

 目の前に置かれてあるアイスティーを飲み干すと、北くんは席から立ち上がった。私は慌てて北くんを引き留める何かを探した。まだ、ちゃんとお礼とか言えてないし、状況も理解しきれてないし。それに。

「明日も朝から部活やし、帰ってやることもあるしな」
「じゃ、じゃあ、送るよ」
「やから、なんでやねんって。それやったらまたここまで戻らなならんやん。それに通り道やし気にせんでええよ」

 それに。違うんだ。そうじゃない。気にしてるのもあるけど、一番は私がもう少し北くんと話がしたいと思ったからなんだよ。と、そんなことを言えるはずもなく、レジで私のプレゼントしたドリンク券を出す北くんの背中を見つめるしかできなかった。
 こんな時間だし引き留めてはダメだって分かっているけれど、どうしても私は北くんと話がしたかったのだ。

「北くん、あの」
「ん?」
「少しだけで良いから話せる時間あるかな? ほんのちょっとで良いんだけど⋯⋯」

 何をどう話せば良いのか自分でも分かっていないくせに、それでもやはり、私は北くんを引き留めてしまった。北くんは少し考えて「ええよ」と静かな口調で言う。私はほっと胸を撫で下ろした。

「ごめんね、忙しいのに引き留めて」
「ええけど、名字さんは大丈夫なん?」
「私はマンションもすぐ側だし。心配かけたし、いろいろ気にもかけてもらったし、北くんには話したいなって思って」
「なん?」

 北くんの瞳が真っ直ぐに私をとらえる。ずっと思っていたけれど北くんの瞳は嘘や本当を見抜いてしまうような力がありそう。この人の前で言う嘘はきっと、成り立たないんだろうなと。

「具合、悪いわけじゃないの。ただ、お母さんの命日がもうすぐで。凄く暑い日にお母さん死んじゃって、それで、夏になるとどうしても思い出すんだ。北くんにどうしてほしいとかじゃなくて、紛らわしくしててごめんねって言うか、気遣いは凄く嬉しいと思ってるんだけど⋯⋯。ごめん、明日からはちゃんとするね。そういう理由で周りの人困惑させちゃうのも嫌だし」

 北くんの瞳はそのままだ。夏の夜は涼しいとは言えず、襟足を撫でるのは生ぬるい風だった。そう言えば、北くんが汗をかいているところを見たことないなと突然、そんな関係のないことを思った。

「それは名字さんが気にすることやないやろ。周りがどうするか、や。名字さんの事情を知っても、どうでもええやつはどうでもええままやし、気にする奴はどうやったって気にする。具合悪いん思て勝手に色々したんも俺がしたかったからや。謝る必要あらへんし、明日からちゃんとする必要もあらへんのちゃう」

 北くんの言葉に、いかに私が独りよがりの考えをしているかということを知らしめられる。それを人は正論と言うのだろうか。本当、確かにそうだよね。と思わず言ってしまいたくなるくらいに北くんの言葉は揺るぎなかった。

「⋯⋯すまん」
「え、どうして北くんが謝るの?」
「キツい言い方やったかもしれん」
「そんなことないよ。って言うか、北くんの言葉はきっと事実だし」
「無理して笑う必要ないで」
「え?」
「悲しい時は悲しい、嬉しいときは嬉しい、辛いときは辛い、楽しいときは楽しい、泣きたいときは泣く。笑いたくないときは笑わんでええんよ。誰かのための人生やないんやからな」

 ああ、そうか。北くんは北くんなりに、北くんの言葉で私を支えようとしてくれているのか。

「⋯⋯夏は、あんまり好きじゃない。お母さんのこと気にかけたり手伝ったり、もっと良い娘だったらって後悔もたくさんある。だから余計、お兄ちゃんのこと気にかけたくなるんだよね。受験生だってわかってるけど、カフェ手伝ったり。どうしたってもうお母さんは戻ってこないのにね」

 北くん、困っているかな。こんな話をされて。
 引き留めてごめんね、と言う言葉を言えなかったのは北くんの手のひらが私の頭の上に乗ったからだ。ほんの少しだけその手のひらが優しく動いたかと思うと、それはゆっくりと私の頭から離れていった。

「名字さんはよう頑張ってるで、ほんまに」

 優しく北くんの眼差しは、いつかのお母さんに似ているとさえ思った。その言葉が慰めでも、嘘でも、幻でも良い。ああ、もう。ここにあるのは北くんと私と月明かりだけで良いのに。

「⋯⋯北くんだってそうなのに」
「俺のは普通や。当たり前」
「そんなの言ったら私だって」

 いま、私、この人の優しさを独り占めしたいと思ってる。だけどその事には気が付かないフリをした。ねえ、お母さん。人はこの気持ちになんて名前をつけるのかな。この気持ちに名前はあるのかな。お母さん、あなたのいない世界で娘は優しさに包まれてます。その事がどうか、天国のお母さんに伝わりますように。

(18.07.12)
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