twentytwo



 夏休みに突入した私に待ち構えていたのは終わらない講習だった。少し離れた場所でやっている夏期講習に参加することになったのは、私の希望ではなくて兄の希望だった。
 私は別にそんなレベルの高い大学に入りたいわけではないのにお兄ちゃんは私が将来困らないようにと、私が学ぶことを幸せとしている。ずっとあのカフェを手伝っていくことになってもいいのに。
 だけどそんなこと言えるわけもなく、私は勉強に追われる日々を過ごしていた。それこそ、北くんのことを考える余裕などないくらいに。そんな日が夏休み中ずっと続いていたものだから、私は油断していたのだ。

「⋯⋯は?」

 体重が増えていた。

「え、嘘だ。もう一回」

 そう。それは恋する乙女にはあるまじき失態だった。

「待って待って待って。嘘でしょ。いや確かに思い当たる節はあるけどだからってこんなに?」

 思わず口元に手をあててしまう。まずは間食と夜食をやめよう。勉強漬けで出不精になっていたけれど日中は気分転換を兼ねて少し散歩をする。夏休み明けに北くんに太ったなんて思われたくないし、勉強をサボって北くんにこいつこんなにアホだったのかとも思われたくない。これは勝負だ。言うなれば自分との戦い。受験、恋愛、ダイエット。まったく女子高生は忙しいったらありはしない。

「やってみせる。私は自分に勝つ!」

 その意気込みは誰に聞かれるでもなく、脱衣所に響き渡るだけだった。


◇   ◆   ◇


 決意の翌日、私は夕方になると早速スニーカーを履いて外へと繰り出した。それでも受験生、ただ歩いているだけではダメだと散歩をしながらでも勉強出来るようにリスニング対策の英語をイヤホンから流す。
 気分は上々とは行かないけれど、夕方のちょうど良い気候に足取りは軽やかだった。3、40分ほど歩いてそろそろ家へ戻ろうかと思ったとき、私は前から歩いてくる人に見覚えを感じた。

「⋯⋯北くんのおばあさん?」

 イヤホンを外してポケットに入れる。小走りで駆け寄って、私の頭一つ分背の低い北くんのおばあさんに声をかけた。

「あの、こんにちは。北くんのおばあさんですよね? 私、以前にご注文いただいたケーキを届けたんですけど、覚えてますか? その後お礼も頂いて。直接お礼言えなかったんですけど、ありがとうございました」
「あら、まあまあ。信ちゃんのお友達やろ。覚えてはるよ。こないなとこで会うなんて奇遇やねえ」

 相も変わらず優しそうな笑顔で、おばあさんは私を覚えていると言ってくれた。
 
「散歩しててここを通ってたんですけど、本当に奇遇ですね。あっ迷惑じゃなかったらその荷物お家まで持ちましょうか?」
「ええよええよ、そんなんしたら帰るの遅なってしまうやろ」
「まだ日が長いんで大丈夫ですよ。それに暗くなったら走って帰りますから!」

 おばあさんは少し迷う様子を見せて「そやったらお願いしようかねえ」と私に荷物を差し出した。少しだけ重たいそれを受け取り隣を歩く。

「名前、なんやったけね」
「名字です。名字名前です」
「ああ、そやったね。信ちゃんと仲良くしてくれてありがとおね」
「えっ。いえいえ私のほうがいつもありがとうって感じなんです。最近は夏休みに入って話す機会がないんですけど、北くん⋯⋯ああ、えっと、信介くんにはいつも何て言うか、元気もらえてて」

 北くんのおばあさんの足取りはとてもゆっくりで、それは私の歩調の半分ほどで、セミの声が聞こえる夏の夕方には少しゆっくり過ぎるくらいだと思えたけれど、きっと北くんもおばあさんの隣を歩くときはこうやって、ゆっくりと歩調を合わせて丁寧に丁寧に一歩を踏み出しているんだろう。優しさを携えて。

「北くんは元気ですか?」
「毎日バレーボールしに元気に学校行ってはるよ。昔はばあちゃん子で転んで泣くような子やったけど気付いたらあんな大きなって」
「ふふ。泣き虫の北くん、想像出来ないです」
「ちっちゃい頃はほんまに可愛かったんよ。なんするんでもばあちゃんの後ついてきとってな。今でも可愛くてしゃあないんやけどねえ」

 北くんの事がたまらく大切なんだと言うことが伝わってくる。泣き虫な北くんは想像できないけれど、小さい頃からおばあちゃん子なのはなんとなく想像できるな。

「小さい頃の北くん、ちょっと気になります」
「ほな今度写真見せようね」
「北くんの小さい頃の写真⋯⋯」

 それは見たい。見た過ぎる。
 想像すると、ちょっと心がふわっと浮くように温かくなってつい口角があがってしまう。あんなに丁寧に物事を行う北くんが泣いたり、わがままを言ったり、周りから大切に抱き締められたり。

「北くん本人が嫌じゃなければ、ぜひ見させてください」

 言うと、おばあさんは皺のある顔に、さらに皺を寄せるように微笑んだ。少し遠くに見える北くんの家の屋根。先程と変わらないゆっくりとしたペースで歩き続け、そのドアの前に立つ頃にはおばあさんに言われた通り夜の色が顔を見せる頃になっていた。

「遅なってごめんなさいね。なんやったらお夕飯食べていく? そろそろ信ちゃんも帰ってくるころやと思うんやけど」
「気にしないでください! 勉強もしなくちゃいけないので、大通りからバスで帰ります。北くんにバレーお疲れ様ですってお伝えください」

 低い位置にいるおばあさんに頭を下げる。その事に少し不思議な感情を抱きながら、私は北くんの家を後にしたのだった。

(20.02.08)
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