thirty



 北くんと直接会えたのは3月の頭、卒業式を数日後に控えた穏やかな日のことだった。

「改めて合格おめでとう」
「北くんもおめでとう! あと、部活もお疲れ様でした」

 駅前にある有名チェーンのコーヒーショップは、相変わらず人が多くて私たちの会話なんてすぐに喧騒に消えていく。
 二人で座れそうな場所は窓に面した横長のテーブルしかなくて、他と比べると背の高い椅子や隣り合って会話することがいつもと違って新鮮だ。

「全部終わって、後は卒業式だけだね」
「終わってみるとあっちゅう間やったな」
「北くん」

 名を呼んで、少し身体を傾ける。

「一緒に出掛けてくれたり、花火見てくれたり、バレー教えてくれたり、クリスマスプレゼントくれたり、他にもたくさんあるけど本当にありがとう」
「⋯⋯急やな」
「ううん。いつも思ってた。北くんと知り合わなかったら私、こんな素敵な1年を過ごせてなかったと思う」

 こんな苦しい気持ちを知ることもなかった。誰かのことを考える胸の痛みも。それは時として幸せとは遠いところにある感情にもなるけれど、それを知らなかった頃の自分にはもう戻れない。北くんと出会わない幸せも多分どこかにあるんだろう。けれどそんな自分はもう考えられない。誰に何と言われようと、私は北くんに恋した今の自分の人生が愛しい。

「俺もおんなじに思っとるよ」

 北くんは表情を和ませて言った。きっと気持ちを伝えるなら今だ。幸い、私たちの両隣は誰も座っていない。いや周りは自分達のことに集中しているから私たちの会話なんて耳には届かないか。

「⋯⋯それでね私、北くんと過ごしてきた時間があまりにも楽しくてね、気がついたときには北くんのこと、その⋯⋯ただの友達とは思えなくなってて。ええっと、だからつまり⋯⋯」
「名字さん、ちょお待ってや」

 肝心の言葉が紡げなくてしどろもどろになる私に制止の声をかけた。

「すまん。俺もただの友達やとは思ってへんで」
「え?」
「クリスマス当日にプレゼント渡したり、急に声聞きたなって電話したり、何度も連絡しあったり、そんなんただの友達にはやらへんよ」
「そ⋯⋯そう、なの?」
「当たり前や」
「だって北くん優しいし親切心からかなってちょっと思ってた⋯⋯」
「勉強してるやろなってわかってんのに自分がしたくて名字さんに連絡しとってたんやで。狡いやろ」

 北くんは珍しく少し困ったように笑いながら言った。
 私は自分の温くなったドリンクを両手で持ちながら頭を左右に振る。記憶をなぞるように一つ一つを思い出す。北くんがしてくれたことで嫌なことなんて何一つない。

「でも私、嬉しかったよ。最初からずっと北くんには嬉しくなることしかしてもらってない。……だからどんどん北くんのこと好きになってた」
「ほんまに?」
「うん」

 北くんともっと一緒にいたいな。一緒に素敵な景色を見て綺麗だねって言い合ったり、美味しいご飯を食べてお腹一杯だねって笑いあったり、冬になったら寒いねって触れ合ったり、そんな風に北くんと一緒に生きていけたらいいのに。

「せやったら、これからもどんどん好きになってや」

 優しさが滲む真剣な眼差しで北くんが言う。無理だよ、こんなの好きにならないほうがどうかしてる。

「⋯⋯北くん、狡い」
「なんでや」
「かっこよすぎて狡い⋯⋯」
「なんなんそれ。それやったら名字さんやて可愛すぎて狡いになるやろ」

 昼間のカフェで私達は何を言い合ってるんだろう。そう思うのに今はなんだかそんなのどうでもいいと思える。

「北くんが私と同じ気持ちだったらいいなって何回も願ってたんだよ」
「気になる子おるって言ったやろ?」
「え、あれ私のことなの!?」
「名字さん以外おらんし」
「うそだぁ……」

 クラスで1番可愛い女の子でも、よく話している女バレの子でも、ミスコンに選ばれた女の子でもない。たくさんいる、北くんを取り巻く女の子たちの中で北くんはずっと私をその視界にちゃんと入れてくれていたのだ。
 私から目をそらすことなく、丁寧な声色で北くんの言葉は私に届いた。

「俺もずっと好きやったんやで」

 それはやはり、休日の昼の込み合う喧騒に消されるように溶けていった。


◇   ◆   ◇


 そして4月。私たちは大学生となった。
 もう着ない制服。違う登校路。学校ですれ違うことだってない。時折そんな日々を思い出しては懐かしさに微睡むこともある。
 北くんも私も新しく始まった日々に忙しくも充実した毎日を過ごしていた。私は時間を調整してまたカフェの手伝いをするようになって、北くんもまた前のようによく遊びに来てくれている。

「北くん、私が考案した新しいメニューがあるんだけど、試食してもらってもいい?」
「ええよ」

 北くんは時間があればここで夜ご飯を食べたり休みの日にレポートを書き上げたりしながら過ごしてくれていて、その後ろ姿を見つめながら、ここが北くんにとって居心地のよい場所になっているなら嬉しいなと思ったりする。こんな日常がどうしようもなく愛しい。

「名字さん今日何時に終わるん?」
「今日は16時までの予定だよ」
「せやったらその後うち来いひん?」
「北くんの家?」
「おん。ばあちゃん名字さんに会いたがってんねん」
「えっ嬉しい。私も久しぶりにお話したいからぜひ遊びに行きたいです」
「なら終わるまでここでレポートしとるわ」
「うん。待っててね」

 宣言通り16時に仕事を切り上げ、お兄ちゃんに伝えてから北くんと共に北くんの家へ向かう。青々とした緑が生い茂る季節。花の香りが溢れるのを感じながら、私は北くんと手を繋いで歩いていた。
 
「ばあちゃんな、名字さんと付き合うてる言うたらめっちゃ喜んどんねん」
「照れるけど嬉しいね」
「そういや侑もめっちゃびっくりしとったわ」
「宮くんこの前たまたま来店しててその時に聞かれたから答えちゃったんだ」
「すまん。お店教えた俺や」
「そうだったんだ」
 
 ふわりと背中を押すような風が吹く。北くんを見上げると返ってくる微笑みに私はいつも幸せになれる。

「北くん北くん」
「ん?」
「ふふ。なんでもない。呼んでみただけ」
「なんやねん、それ」

 願わくはずっと、優しく暖かいこの人といつまでも穏やかに歩めますように。一緒にたくさんの喜びを分かち合えますように。

(20.04.28 / 完)
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