call my name


「馴染んどったからそのままやったけど、そろそろ俺ら名前で呼びあってもええんちゃう?」

 遠出の約束をしたのは1ヶ月前で、私はその日から楽しみで楽しみで夜も寝られないくらいだったけれどその日は案外あっさりとやってきた。日帰りとはいえ、北くんと電車に乗って遠くまで行くなんて初めてだ! と浮かれていた私に、北くんは思い出したかのように言った。
 忘れ物を取りに戻るとかコンビニに行ってくるとか、それくらい軽い口調に私は反射的に「わかった、いいよ」と簡単に言ってしまいそうになる。
 もちろん、提案の内容自体に問題はないから私の答えは「いいよ」しかないんだけど。

「えっ、あ! そう言えばそうだね」
「ええやろ?」
「うん。確かになんか馴染んでたけど、もう付き合ってから半年以上は経ってるもんね」

 別に長さは関係ないんだけど、私はついそんなことを言う。電車に揺られながら、これまでの時間を思い出す。今日に至るまでの時間が短いのか長いのが分からないけれど少なくとも私にとっては濃密な時間だったと思う。
 知らないことを知って、新しい気持ちを覚えて、時々、それまでの自分が嘘のようにも思えて。全部が意味のある時間だと思える日々だった。

「早いもんやな」
「ね。でもなんで急に?」

 北くん。北くん。何度も呼んできたその名前が馴染んでいるせいか、信介くんと呼ぶのはまだどこかしっくりこないなと密かに思う。
 北くん、あ、違う。信介くんは、そういう提案をわりとしっかりしてくれるけれど、時々「この前、侑に言われたんやけど」なんて前置きをしてくる。
 今回のそれは何がきっかけだったんだろうか。それを聞くよりも前に、信介くんは発端者の名前を教えてくれた。

「この前、後輩たちの試合観に行ったら治にまだ名字で呼びあってること驚かれてん」
「今回は治くんかあ」
「別にええやんなあ思ったんやけど、いつまでも名字で呼ぶわけにはいかんやん? やからここらで呼び方変えてみよう思て」
「うんうん」
「今日から名前て呼ぶわ」
「名前⋯⋯」
「名前ちゃんのほうがええ?」
「いや、名前で!」

 確かに付き合って時間も経つし、いつまでもお互い名字呼びはよそよそしい。あ、それに名前じゃなくて、あだ名で呼び合うカップルも多いよねと考えていたときに呼ばれる自分の名前。
 新鮮と言うか、より親密さが増した気がする。信介くんはおばあちゃんから信ちゃんって呼ばれているし、私もそう呼ぶか、あとは信くんとか、介くん⋯⋯は違うな。北くん。北くんって響き結構好きではあるんだけど。

「私、北くんって呼ぶのも実は結構気に入ってたんだよね」
「それがええんやったらそのままでもええけど」
「ううん。信介くんって呼ぶ。だってなんかそのほうが仲良しって感じするし」
「仲良し⋯⋯仲良しかあ⋯⋯。ええなあ、それ」

 信介くんは笑う。私の好きな笑顔。きゅーんて音がついてしまうような感覚で私の心臓は高鳴る。

「じゃあ、信介くん」
「名前」
「信介くん」
「名前ちゃん」
「あはは。信ちゃん?」
「それは新鮮やな」

 こんな、何て言うか、恥ずかしくなってしまうような、オチもないような会話、無駄なはずなのに信介くんと一緒だと途端に楽しいと思ってしまう。
 平日の日中、郊外へ向かう在来線は人も少ないし比較的小さな声で話をしているし、これくらい浮かれてもいいでしょ、と自分を納得させる。

「名前と話すん楽しいわ」
「私もそうだよ」

 信介くん。私はもう1度、心の中でその名前を呼んだ。大切に、慈しむように、愛でるように。

「今日、楽しみにしててん。やからなんや浮かれとるわ」
「だったら一緒だね。私も楽しみすぎて昨日全然寝られなかった!」
「なんや。それやったら電話でもするんやった」
「信介くんの声聞いたら逆に眠れない気がする」
「ほんまに? まあわからんでもないわ」

 電車は揺れて、目的地まで滞りなく私たちを運んでくれる。今日と言う日はまだ始まったばかりだ。

(20.11.1)
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