five



「あ、教科書忘れた⋯⋯」

 曇天の空から今にも雨が降り注ぎそうな午後、私は英語の教科書を忘れたことに気が付いた。他のクラスから借りてくるしかないかと、話していた友達に断りを入れてから席を立つ。

「確か7組、今日午前中英語しよったで」
「7組かぁ。友達いないから借りるの無理そう。他のクラス当たってみる」
「おるやん。と、も、だ、ち」
「え? 7組でしょ? いないよ、友達」
「北くん」
「北くん?」
「7組やで。北くん」
「そうなの?」
「北くんから借りたらええやん。せっかく仲良うなったんやからこれを機に交流を深めてみぃや」

 面白がってる。絶対に面白がってる。本当に北くんとはそう言うんじゃないってば、と念を押してから教室を出た。
 とは言え、次の授業が始まるまで時間がたっぷりあるわけでもなく、実際少し遠いけど7組まで行って北くんに借りるのが1番確実で手っ取り早い方法なのかもしれない。貸してくれれば、だけど。
 学校で初めて話す会話が教科書貸してくださいなんて情けないけれど、そうも言ってられない。私は7組の扉の前に立って一つ深呼吸をしてから扉を開けた。

「⋯⋯あの、北くんいます?」

 1番近くの席に座る、名も顔も知らぬ同級生に声をかけると、彼は私の前に北くんを連れてきてくれた。

「驚いたわ。わざわざ呼び出されるん思わへんかった。クラス知っとったんやな」
「ご、ごめんね突然。友達からクラス聞いて。それで7組今日英語の授業あったって聞いて」
「英語の授業?」
「実は教科書忘れちゃって、次が英語なんだけど、7組に友達いなくて、北くんが困らなかったら教科書貸してほしくて⋯⋯。突然来てせっかく学校で話せたのにこんな頼み事で申し訳んだけど⋯⋯」
「ええよ。ちょっと待っとってな」

 北くんは嫌な顔ひとつせず、すんなりと私のお願いを聞き入れてくれた。戻ってきた北くんに手渡された教科書は意外にも、所謂使い込まれた感が出ていて、私はちょっと驚いた。北くんは全部が綺麗そう。教科書にシワひとつない感じ。

「ボロボロやけどええ?」
「あ、うん。全部大丈夫! 本当にありがとう!」

 だけどそれは多分、北くんが普段から勉強をしっかりやっているという証拠で、思い返してみたらカフェにいるときに広げている教科書も確かに綺麗とは言い難かった。

「終わったらすぐに返すね!」
「急がんでええよ。今日はもう英語終わっとるし。なんなら今日部活終わりにカフェ行くつもりやったからそんときでも構わへんし」
「今日、来るの?」
「そんつもりやったけど」
「あー⋯⋯私今日手伝い出ないから、やっぱり終わったらすぐに返すね」
「名字さんおらんの?」
「うん」
「なんや残念やなぁ」
「え?」
「せっかくゆっくり話でも出来る思っとったのに」
「⋯⋯あの、それは、えっと」

 これ以上はいけません、とでも言うように予鈴が鳴る。7組から1組までは距離があるからもう戻らなくちゃいけない。

「また、後で」

 それだけ言って談笑で埋まる廊下の波を抜ける。自分の教室に戻る頃には、私はすっかり北くんの言葉に捕えられていたのだ。

「どうやった? 北くんから教科書借りれた?」
「う、うん。それはばっちり」
「よかったなぁ。これで次の授業も安心や」

 多分、北くんに他意はない。社交辞令か、知り合いとしてそういう言葉を選んだだけだろう。
 だけど私は。言われた私は、気にしちゃう。今までカフェで話しかけてたことウザいって思われてなかったんだ、とか。私と話するの嫌じゃなかったんだ、とか。ゆっくり話しても良いって思ってくれてるんだ、とか。恋とか好きとかそう言うのを抜きにしても単純に嬉しいし、その嬉しいが溜まれれば好意に発展するかもしれないと言うことを私はわかっている。
 だけど自分が北くんと付き合うとかそういうのは全然、想像がつかない。だって彼は同級生だけど常連のお客様で、私はそのお店の店員だ。
 それに、兵庫にやってきて初めて友達と呼べるかもしれない男の子に出会えたのだ。恋愛なんかに発展したら友達のままではいられなくなってしまう。

「⋯⋯私やっぱり北くんはないと思う」
「どうしたんいきなり」
「私が北くんに恋する可能性ってやつ」
「そうなん?」
「北くんとは友達になりたいなって」
「あちゃー恋人やなくて友達やったかぁ」
「北くんの物静かなとこ結構落ち着くし」

 まあただ、まずは北くんが私のこと友達と思ってくれるようにならないといけないんだけど。
 本鈴が鳴る。先生が教室にやってきて、私は北くんから借りた皺のある教科書を開いた。書き込まれていた北くんの字は想像通り、丁寧な形だった。

(18.06.28)
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