お店の前で立ち止まるのは何度目だろうか。
 今日こそはちゃんと中に入ろうと決意してもう何日も過ぎ去っていった。磨りガラスから漏れる光は今日も暖かい色味を帯びていて、中からは談笑する声が聞こえる。
 ちゃんとお礼をしよう。あの日の翌日の朝、起きて真っ先に思ったことはそれだったのに泣いてしまった不甲斐ない自分を思い出すと、羞恥心からいつもこの扉を開けるのを戸惑ってしまう。そんな風に先伸ばしにしてしまう自分が情けない。
 今日こそは。
 ここに立てばいつも思うことを今日もまた思う。

(普通に入れば良いだけだし⋯⋯。私が気にしすぎてるだけだし⋯⋯)

 暗示をかけるように深呼吸をする。それにまたあのおにぎりを食べたい。だから。
 そう決意をして扉に手をかけようとした時、扉が開いた。

「ほな、ありがとうございました。またお待ちしてます」
「おん。また来るで」

 恰幅の良い年配のおじさんが出てきて、慌てて横にずれる。常連さんだろうか。駅の方に消えていくお客さんの背中を見つめながら、私は慌ててお店の入り口に視線を戻す。

「あ、あの」

 声をかければお兄さんが私の方を向いてくれる。

「あ、この間の」

 一瞬、店員であることを忘れたような表情に、私は自分の事を覚えていてくれたことに安堵した。同時に緊張に似た感覚が込み上げて、私は冷静を装う事に努めた。

「えっと、その節はお世話になりました⋯⋯」

 深々と頭を下げる。

「仕事帰りですか?」
「はい。今日はその、またご飯食べたいなって思って」
「ほなら、案内しますね」

 暖簾を上げエスコートするように私を中に通してくれる。前回よりも早い時間に来たからか店内には数人のお客さんの姿があった。
 ああ、そうだ。ここはこんな風に柔らかい雰囲気だったと、中に入ればすぐに美味しい香りが漂って私の空腹スイッチを押す。

「今日は何にします?」
「えっと⋯⋯じゃあ、おにぎり定食をお願いします」

 この人は気にしていないかもしれないけれど私は早くこの間の件についてお礼をしたかった。けれど私の注文したおにぎり定食を作っているし他に人がいる手前、声をかけるのが憚られる。
 私の心中とは反対に、その人はテキパキと仕事をこなしながらも他のお客さんと談笑していて、その顔は楽しそうな顔に私は少しだけ見惚れた。
 狭い店内で飛び交う会話には多分、プライベートなんてものは存在しない。

「治ちゃん、新作のおにぎりこういうのどうや?」
「どんなん? あー、おっちゃんこれやと儲けが一切でんわ」
「ほなアカンな! 儲けてなんぼやねんから」
「せやけどおもろそうやし検討してみるわ。出来たら食べにきてな」
「当たり前やん。オレはなぁわ治ちゃんとこのおにぎり食べてから死ぬ決めとんねん」
「どんだけや。愛が重いわ」

 治。このお兄さんの名前はそれだ。おじさんが何度も繰り返し言う「治ちゃん」を私は耳に焼き付ける。

「お姉ちゃんは初めて見る顔やねえ」

 そう私に話しかけてきたのは真後ろに座っていた優しそうな顔つきのお婆さんだった。

「2回目の訪問なんです」
「そやったらこんなんうるさいやろ?」

 お婆さんは人の良さそうな笑みのまま、治さんとおじさんのやりとりを聞きながら言う。

「や、そんなことないです。アットホームで素敵だなって」
「治ちゃんいい子やからねえ、皆集まってしまうんよ。今日も一生懸命やっとるかねえ言うて」
「皆さん長いことお知り合いなんですか?」
「そうやで。治ちゃんがこぉんな小さい頃から知っとるよ」

 お婆さんは懐かしむようにしみじみと言う。「こぉんな」と言いながら膝の辺りで手のひらを平行に置くお婆さんはどこか幸せそうだ。
 こぉんな小さい治さんを想像しながらカウンターにいる治さんを見ると目が合う。

「なんやバァちゃん、俺がイケメンやって話ししとるん?」

 微笑みながら軽い口調で冗談を言い、私の前におにぎり定食が乗ったお盆をおいた。その香りは私の食欲を後押しする。

「おまたせしました」
「ありがとうございます」
「せやで、治ちゃんはかっこええねえって話しとったんやで」
「せやったらサービスせんとアカンなあ」

 笑いながら言う治さんとお婆さんの楽しそうな表情は、どれだけこのお店が、引いては治さん自身が愛されているかを物語っているようだった。
 私はまだ2回目の訪問だけどそれもなんだか分かるような気がすると思いながらおにぎりを口に運ぶ。

「おいしー⋯⋯」

 言葉は無意識にこぼれる。
 張りのある音を立てて海苔が割れるとお米から湯気が立つ。熱いって分かっているのに口に運ばずにはいられない香り。中の具材の紅鮭がこぼれてしまわないようにしながら程よい塩味を味わう。

「美味い?」
「美味い、です。やっぱり元気になれます」
「ほな良かった」

 お味噌汁、香物、卵焼き、からあげ、ポテトサラダ。絶対全部美味しいに決まってる。
 確実に私の中の最強ご飯ランキング1位に君臨している。

「ほなそろそろ帰ろうかねえ」

 そう言ったお婆さんは私に「ゆっくりたくさん食べるんやで」と言うと会計を済ませてお店を出ていった。それから何人かのお客さんも治さんに声をかけてお店を後にした。

(20.10.17)
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