思わず伸ばしかけた腕は途中で静止する。無意識のうちに私は治さんに触れようとした。その事に気が付いた瞬間、私はもう戻れないことを悟った。
「私も⋯⋯私ももう少し一緒にいられたら嬉しいです」
多分私達の心はそう遠く離れていないはずだ。
だからなのか私は一緒にいる時間の先にあるものを探そうとしていた。あやふやな言葉はあやふやだから良いのか、それとも口にしないといけないものがあるのか。
「あー⋯⋯せやったらどないしよ。ご飯やなくても行きたいとことか」
「じゃあ、やっぱり2人で一緒にご飯でもつくりますか。パパッと」
「それでええの?」
「はい」
ある意味で、望むものは何もない。朝も昼も夜も永遠に続いていけば良いと思う。
お店の前までやってくると、治さんは鞄から鍵を取り出してドアを開けた。暗い店内。明かりのついていないお店に足を踏み入れるのは初めてだと思っていたら電気はすぐにつく。
「冷蔵庫ん中、なんがあるやろ」
勝手知ったるなんとやらとは言うけれど、治さんがいるおにぎり宮は驚くほど私の中でしっくりくる。きっと治さんは次に戸棚からお皿を取り出して、私に飲み物を出して、それで多分包丁とまな板をシンク台に置く。
いつの間にかそんなことを容易に想像できるくらい、ここは私の日常の場所になった。
「あの、治さん」
コップにお茶を注ぐ行為を止め治さんは私の事を見つめた。カウンター越しに目を見て話してくれる人。私にとっての始まりは全てここだ。
「私、治さんが好きです」
躊躇いもなく言えたのは、どうしてだったんだろう。なんの突っ掛かりもなく、戸惑いも迷いも不安も、そこには恥じらいさえもなかった。ただ好きだと言う純然たる事実がそこにあって、私はその事実を想いのままに口に出来た。
「治さんが作るおにぎりも、このお店の雰囲気も、その優しさも。私、治さんが、このお店が大好きです」
全ての作業を止めた治さんはカウンターの向こうからこちら側へやってきた。私の眼前に立って私を見下ろす。多分、180センチ以上ある治さんの身長は見上げるには高すぎるけれど、これくらいがちょうどいいと思えた。
優しさ戸惑い喜びそれに驚き。そんな感情が混ざったような、少し複雑そうな表情で治さんは私を見つめる。
「⋯⋯正直、両思いやったらええな思っとったけど」
「はい」
「実際そうやと、嬉しくて言葉出えへんもんやな」
躊躇いがちに腕が伸びてきて私を緩く抱き締める。ニット越しでも感じる胸板の形に今度は私の言葉が出てこなくなりそうだ。
あやふやはあやふやのまま始められる恋もあったのだろう。それでも私は口にした。あやふやには出来なかった。私に言える言葉はあれだけだった。
「多分、最初からずっと好きだったんだと思います」
「あの泣いとった時から?」
「はい。だって美味しくて優しくて暖かくて、好きにならないほうが無理です」
「⋯⋯なんや名前ちゃんが好きなんは俺やなくてこの店みたいやん」
「⋯⋯治さんが1番好きですよ」
私を抱き締める腕に少し力がこもる。
「まあ、俺も泣きながら幸せそうに飯食ったり、いつも旨い旨い言うて喜んでる名前ちゃんの姿見られるん好きなんやけどな」
「両思いじゃないですか」
「せやねん。俺ら両思いやねん。凄ない?」
「凄いです」
少し間を開けてお互いに見合って笑いあう。優しい雰囲気に包まれた店内は私が好きな場所。治さんがいるここが、私の好きな場所。
「今度こそ、ちゃんとキスしたいねんけど」
「あ、やっぱりあの時しようとしてたんですね」
「やって可愛かってん。我慢出来へんかった」
「なっ⋯⋯何言って」
「あんときは狡かったけど、今ならええやろ? 好き同士やねんから」
「それは⋯⋯確かにそうですね」
「なあ」
「はい」
「目ぇつむってや」
素直に目蓋を下ろす。両方の肩に治さんの手が添えられたのがわかった。触れられるであろうその場所を意識して胸は高鳴る。
その瞬間、私のスマホが愉快な音を出した。
「⋯⋯おい、嘘やろ」
「す、すみません」
テーブルの上に置いていたスマホに目を向けて誰からの連絡だったのかを確認すると、「宮侑」の名前が通知にあった。
「あ⋯⋯侑さんですね⋯⋯試合どうだったみたいな感じのことが書かれてそうな出だしが見えました⋯⋯」
「アイツ⋯⋯ほんまアイツ⋯⋯!」
治さんは深いため息を吐き出す。見計らったようなタイミングに私も今回ばかりは同意せざるを得ない。バイブにしていなかった私も良くなかったんだけど。でも、まあ。
「私と治さんの時間はこれからも続いていくので」
「そうやけど⋯⋯ツムめ⋯⋯雰囲気ぶち壊しよってからに。絶対に次来た時は激辛おにぎり出したるわ」
それは一体どんなおにぎりになってしまうのか。多分私が唯一食べたくないと思うおにぎりになるかもしれない。
「なんか気が抜けたらお腹すいてきちゃいました」
「せやな」
「夜ご飯一緒に作りましょう! 何からお手伝いすれば良いですか?」
2人で一緒にカウンターの中へ入る。冷蔵庫を覗いて、あれが食べたいと言って。
お客さんのいないおにぎり宮は今日も変わらず幸せに満ちていた。結ばれた縁はどこまでも果てなく続く。私と治さんが結んだ縁がまた次の縁を結びますように。延々と、延々と。
そして夜は優しく続いていく。
(20.10.29 / fin)