濃紺の空には一番星が浮かんでいた。商店街を軽快な足取りで進んで路地に入ると、私の大好きな場所がある。

「こんばん⋯⋯」
「おー! 名前ちゃんええとこに来たな!」
「えっ」

 仕事が早く終わった平日の夜、私はいつものようにおにぎり宮の暖簾をくぐった。扉から漏れる光。開ける前から賑やかな声が外にも届いていて私は微笑ましい気持ちで入店する。
 まだ早い時間だからきっと何人か知った顔がいるはずだと店内を見渡す前に私の名前が呼ばれ、驚いて声のしたほうを見るといつものおじさんが手招きをして私を呼んだ。

「仕事おつかれやな」
「おじさんも」

 わざわざ手招くなんて一体なにがあったんだと隣に腰を下ろして首を傾げると、おじさんは得意気に手に持っていたタブレットを私に見せてくれた。

「見てや。今日娘に付き合うてもろてな、タブレットデビューしたねん」
「おお! おめでとうございます!」

 あれ、これっておめでとうございますであっているんだけ? と衝動のままに口にした自分の言葉に一瞬疑問を感じたけれどおじさんは誇らしげだったから良しとする。

「そんで今治ちゃんにいろいろ教えてもろて、見とったんよ」
「何をですか?」
「治ちゃんが高校生ん時のバレーの試合」
「治さんが高校生の時のバレーの試合⋯⋯」

 おじさんの言葉をおうむ返ししてゆっくりと理解する。数年間の私の知らない治さん。私と出会う前の、おにぎり宮を始める前の治さん。
 その動画、私も見たいんですけど。食い気味におじさんに「く、詳しく⋯⋯!」と言う私に治さんは笑ってお茶を差し出した。

「そんなええもんちゃうで」
「いや、ええもんですよ。絶対かっこいいじゃないですか」
「なんや期待されると恥ずいな」

 治さんからは言葉ほど恥ずかしがっている様子を見受けられない。念のために「見てもいいですか?」と治さんに許可をとってからおじさんにお願いして件の動画を見させてもらう。
 有名な動画サイトには2012年度春高バレー稲荷崎高校対烏野高校の文字が並んでいた。「これはほんま名勝負やで」とおじさんは言う。黒いユニフォームに今よりほんの少しだけ幼い容姿、私の知らない人たちに囲まれて、解説に混ざる盛大な応援。
 私が東京で制服を着て友達と原宿を歩いているとき治さんはこうやってバレーをしていた。私が試験勉強に明け暮れているとき治さんは誰かと戦っていた。私の知らない治さんはかっこよくて、でもちょっと遠い人って感じだ。

「侑ちゃんと2人でプロになるもんやとばかり思っとったわ」

 懐かしむように動画を見るおじさんがそうこぼす。そっか。そうだよね。これだけうまいんだからプロを目指したっておかしくはないよね。

「プロになる気はなかったで。はじめっから、飯に関わる仕事やりたかったからな」

 私がいつも頼む季節のおにぎり定食を目の前に優しく置いて治さんはそう言った。お米の香りが届けば一気に空腹を感じて、手を合わせてから握られたばかりのおにぎりを口に運ぶ。
 もしもプロになっていたら私はこのおにぎりを食べることはなかった。それどころかおにぎり宮の存在はなかったし、治さんに恋をすることもなかった。仕事が嫌で辞めていた可能性は大きいし、そうなっていたらきっと兵庫にもいないだろう。

「治さんがおにぎり宮の店主で良かったです」

 そう言った私の顔を治さんは見つめる。

「プロとして活躍している治さんも見てみたいとは思いますけど、私はやっぱりおにぎり宮の治さんがいいです。このお店に出会えて、治さんに恋したことは私にとっての宝物なので。この日々がない人生はもう想像出来ないなって」

 はにかんでそう言えば治さんは穏やかで暖かな笑みを返してくれる。巡り巡って全てが今に繋がるのなら、私はそれを結ばれた縁と思いたい。

「あー⋯⋯いや、でも、うーん」

 思いたいけれど、もしもを考えないわけでもなくて。

「なに悩んでんねん。いま名前むっちゃええこと言ってくれとったで」
「でも高校生の時に出会ってたら治さんのこと応援しに行けたのになーって! この試合を生で見られたのにって! だからちょっと悔しいなって。だってやっぱり動画の治さんめちゃくちゃかっこいいですし⋯⋯」
「それやと今の俺がかっこよくないみたいやん」
「えっあ違います! 今も凄くかっこいいです! とっても、すごく、私には勿体ないくらいに」

 治さんと私のやりとりを、おじさんをはじめ常連さんの方たちは温かく見守ってくれる。

「せやったら次は名前の高校の時の写真か動画鑑賞会せんとな」
「えっだめです。それは誰も面白くないです。良いものじゃないです!」
「いや、ええもんやろ。絶対にかわええやろ」

 ちょっと意地悪な笑みで治さんは私の言葉を模倣した。返す言葉に迷いながら困る私を治さんは楽しそうに見つめるだけだ。

「うう、どうかご勘弁を⋯⋯」

 もしもはもしものまま、昔になんて戻れない。おにぎり宮はこれからも私の大好きな場所。治さんがいて。常連さんがいて。出会うべくして出会った、大切な場所。

(20.12.2 / 60万打企画リクエスト)

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