「そろそろ帰るわ」

 しばらく会話を楽しんで一区切りつくと侑さんは言った。
 まだそれほど遅い時間ではないけれど兵庫から大阪まで戻るらしい。ムスビィの本拠地は大阪で、それに伴って選手たちの住む場所も近くにあるのだと教えてくれる。

「じゃあ私も帰ります」
「無理にツムに合わさんでもええで」
「食べ終わったので侑さんと一緒に出ます。むしろ兄弟水入らずのところ長居しちゃってすみません」
「ええよええよ。華があってよかったわ」

 いつものように治さんは柔らかい笑みで言った。支払いをしようとバッグから財布を取り出すと「ツムにつけとくからええで」と言われ、侑さんを見る。「しゃあないな」と言うわりには嫌な顔は一切していなかった。

「そんで、名前ちゃんは家どこなん?」
「ここから歩いて15分くらいのところです」
「せやったら送ろうか? 夜やし」
「大丈夫ですよ。いつも1人で帰ってるんで」

 ここから私の住むマンションまではそんなに暗い道ではない。明るい時間帯に帰れる日は近道をするために住宅街を通って行くけれど、遅くなる日は遠回りして大通りから帰っているし。そもそももう何年も通っているのだから今更夜道が怖いなんて不安はもう私にはなかった。

「おいこら。ナンパは禁止言うたやろ」
「どこがや。紳士的な善意の行為や」
「お気持ちはありがたく頂戴します。ここから大阪まで時間もかかるし、侑さんは気にせず帰ってください」
「あ。ほんならサムが送ったれや」
「え?」

 帰宅の準備をしている治さんが手を止めて侑さんを見る。さすがにそうくるとはは思わなかったのだろう、無言のままその瞳は私のほうを向いた。

「や、本当に! 大丈夫なので! これ以上ご迷惑をおかけするわけには!」
「いやまあ、迷惑とはちゃうけど」

 もちろん侑さんのそれは善意からの発言なんだろうけれど、だからと言ってその言葉に甘えたら迷惑どころか図々しい女になってしまうんじゃないだろうか。

「それに私、コンビニに寄って飲み物買おうと思ってたので」
「それやったら公共料金の支払いせなあかんから一緒に行こか」

 だから本当に大丈夫ですと言おうとしたところ、治さんは思い出したように言う。帰宅と閉店の準備が整った治さんはそのままジャケットを羽織ってポケットに財布を入れて、入口の扉に手をかけた。隣に侑さんが並べば、なんと言うか、その存在感に「圧巻」と言う他なくて、迷惑とか図々しいとか考えているのは私だけなんだろうなということを悟った。
 ここで押し問答を続けていても仕方がないと私は続くようにお店を出る。

「ほな駅あっちやから俺はこれで」
「おん」
「ありがとうございました」
「名前ちゃんまたな〜」

 出てすぐ侑さんはそう言って、手を振りながら駅の方へと向かっていった。治さんと2人で道に残されると途端に緊張が身体を巡る。別にお店でふたりきりの時だってあった筈なのに、急にこんな気持ちになってしまうなんてどういうことだろうか。

「ほな俺らも行こうか」
「は、はい」

 そうは言っても近くのコンビニまでだ。手と足が一緒に出ないように意識しながら治さんの隣を歩く。こんな風に隣あって歩くのは初めてで、夜空を背景した治さんはどこかキラキラと輝いているようにも見えた。
 決して長いとは言えないコンビニまでの道のり。むしろあっという間だと思えるくらいの道を一緒に歩いてコンビニに入る。私は飲み物を、治さんは公共料金の支払いを済ませて外に出るとどちらからともなく向かい合って、私は別れを告げる言葉を探していた。

「名前ちゃん薄着やけど寒ないの?」
「この前秋冬の服だしてクリーニングの最中なんです」
「上着貸そうか?」
「だ、大丈夫です! 気合いでなんとか!」
「気合いでなんとかなるもんなん?」
「なる、と思います」

 言い張る私に治さんは笑いながら「ならんやろ」と言う。着ていたジャケットを脱いでそっと私の肩にかけると秋の香りに混ざるように、治さんの匂いが届いた。驚いて、だけど肩から落とさないようにとジャケットを掴む。

「女の子なんやから身体冷やしたらあかんで」

 目の前にいる治さんを見上げた。いつもはおにぎりを握っている治さんを見ることばかりだから、こうやって真正面からまじまじと見るのは初めてかもしれない。

「⋯⋯でもこれだと治さんが寒いですよね」

 大きくて少し重たいジャケットは寒さを凌ぐには十分で、温かさの中に混ざる治さんの面影に私の脈拍速まるばかりだ。

「まあ、気合いでなんとかなるやろ」

 気合いでなんとかならないって言ったのは治さんのほうなのに。
 こんな風に優しくされると。そんな風に笑いかけられると。もっと知りたいと思ってしまう。

「あの、ありがとうございます」
「このまま家まで送ろか?」
「大丈夫です。ジャケットだけでも十分過ぎるくらいです」
「ほんま? ほな、気を付けて帰ってな」
「はい」
「またな」

 ひらひらと治さんが手を振る。それだけ切り取れば侑さんと同じ仕草な筈なのに、どういうわけか私には全然違う行為のようにも思えた。肩にかかるジャケットを握りしめる。遠ざけようとしても近付いてくるこの感情は、私の手にはまだ持て余すような気がしていた。

(20.10.24)
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