その光景を目にした瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
 予想していなかった事を目の前にすると、人間ってこんな感じになるんだなとゆっくりと冷静を取り戻していく頭で考える。
 休日、街中で見かけたのは治さんだった。普段お店の中で着ている服とは違いフォーマルな服装に身を包んでいた姿に最初こそ気が付かなかったものの、治さんだと分かった私は声をかけようとその方向へ向かおうとした。
 でもその足はすぐに止まる。私よりも先に駆け寄ったのは、小柄で可愛らしい雰囲気をまとった女性だった。治さんは彼女に気がつくとふわりと笑って、楽しそうに話し込んでいる。働いたのは女の勘だ。

(もしかして⋯⋯彼女?)

 人が溢れているとは言え、治さんは私に気がつく様子はない。もちろんそんな中で話しかけるなんて無粋なことは出来ないし、駆け寄ろうとした私の足は反対の方向へ向かっていた。モヤモヤと涌き出てくるこの感情に名前をつけてしまってはいけないような気がして、私は違うことを考えるように努めたのに、さっきの光景が脳裏にこびりついて離れてくれない。
 彼女なのかな。だったとしたら、すごくお似合いだったな。そんなことをいつまでも考えてしまう。所詮、私と治さんは店主とお客という関係性でしかないし、たとえ年齢が近くて常連さんと呼んでもらえて時々メニューにないおにぎりを出してくれたとしても、その関係性が変わるわけではない。知り合いでも友達でもない私達のフィールドはあのお店の中だけ。そもそも休日に治さんがどこの誰と居たって私には関係のないことなのだ。そんなの考えれば当たり前の事なのに、どうして私は今になってこんなにも悲しい気持ちになっているんだろう。

(用事を済ませて帰る⋯⋯用事を済ませて帰る⋯⋯)

 最悪だ、と思う。
 仕事に疲れた日、治さんのおにぎりを食べて幸せな気持ちになって家に帰る。そしてまた仕事に向かって、おにぎり宮に行く日を楽しみにする。そんな風に過ごしていた日々を思い返して、一瞬でも悲しみを持ってしまった自分の感情が最悪だ。いつから私はそれ以上の何かを期待するようになってしまったんだろうか。
 違う。これは決して恋してるわけじゃない。そうやって自分に言い聞かせるのが精一杯だった。知ってると思ってた人の知らない部分を見て勝手に動揺しちゃうみたいな感じ。別に治さんだからってわけじゃない。侑さんが女の人いてもビックリするし、なんなら普通の友達が彼氏と待ち合わせしてても声かけられないし。だから、別に、こんなのは。 
 人混みを掻き分けるように進んで、自分を納得させる。だけどそんなことを考えている時点でと俯瞰している自分が私を惑わせる。だって侑さんに彼女がいても私は多分驚いたりなんてしないし、友達と彼氏の待ち合わせ現場を目撃してもこんな気持ちになったりなんてしない。わかってる。私は、治さんだからこうなったのだとわかっているのに。
 ただそれを認めてしまえばそれまでの幸せや、これからの幸せが崩れていくような気がして認められないだけだった。


△  ▼  ▲  ▽


 それでも、全ての感情を抜きにしても、私は治さんのつくるおにぎりが好きだった。食べてあんなに幸せな気持ちになれることはないし、この世の中で1番美味しいおにぎりだって胸を張って言える。おじさんじゃないけど、死ぬ前にここのおにぎりを出されたら最高の最後の晩餐だと思う。

「名前ちゃん今日は元気ないんやねえ?」

 私の変化に最初に気が付いたのはお婆ちゃんだった。彼女がいる時、大抵私はその隣に座ることが多くて今日も仕事が早く終わったからとおにぎり宮に向かうと店先で会えたお婆ちゃんと共に中に入った。
 椅子に腰かけて注文をするとお婆ちゃんは開口一番にそう言った。

「そっ⋯⋯そうですか?」
「お仕事大変なん?」
「えっと、まあ、ちょっとだけ⋯⋯あはは⋯⋯」

 心配そうにしてくれるお婆ちゃんには申し訳なかったけれど、原因は仕事と言うよりも治さんに対してだった。いつも通りの店内で私だけがいつも通りじゃない。

「なんや名前ちゃん元気ないん?」

 治さんが言う。いつもの調子。いつもの様子。いつもの声色にいつもの優しさ。

「ほんのちょっとだけ、でも、多分すぐに元気になるんで⋯⋯大丈夫です」

 だって考えてもみればこんなに素敵な人なんだから彼女くらいいてもおかしくない。むしろいないほうがおかしいよ。かっこよくて、優しくて、身長も高いし優しいでしょ。ほら、こんなの世の女の子が放っておくわけない。なんなら結婚してる可能性だってあるわけだし。
 その優しさに勝手に浮かれていたのは私の方なんだから、絶対にこの気持ちを表に出してはいけない。

「初めて会ったときからずーっと名前ちゃんは頑張り屋さんやからなあ。この店にいる時くらい甘えてもええんやで。俺、ツムしか兄弟おらんかってん妹に頼られるんちょっと憧れあったんよ」
「あはは⋯⋯」

 たった1年しか違わないのに。この人にとって私は所詮妹みたいなものなんだろう。いや、ただのお客よりは良いのかな。どうかな。まだただのお客のほうが良かったのかな。 
 おにぎり宮でこんな気持ちになったのは、これが初めてのことだった。

(20.010.25)
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