大晦日の午前中、暖簾がかからずにclosedの看板がかかるおにぎり宮の店内で私と治さんはクリスマスの約束を果たそうとしていた。
「大晦日定めなき世のさだめかな」
「なんなん、それ」
「知りませんか? 井原西鶴の俳句です。昔おばあちゃんが大晦日になるとよく言ってて今でも思い出すんですよね」
治さんに監修してもらいながら、鍋に出汁をとっていく。
「博識やな」
「治さんは勉強苦手だったんですか?」
「苦手やった」
「即答じゃないですか」
大晦日のおにぎり宮は世間の忙しなさとはかけ離れるくらいのゆとりを孕んでいた。あと15時間もすれば除夜の鐘が響き渡ると言うのに、まるでこの箱の中は時間の概念が違うかのようだ。
ゆったりする。そうだ、それ。治さんといるとゆったりするから、忙しさとか時々忘れそうになるんだ。
「出汁は沸騰させんように気をつけてな」
「はい」
料理教室よろしく治さんに指導を受けながら私にも出来ることを手伝う。もしかして私センスあるんじゃない? と錯覚してしまうくらいに治さんの教え方は丁寧だった。多分私がうまく出来る工程をチョイスして頼んでくれている。
だからこそ余計に失敗はしないと気合いを入れて、私よりも何倍も忙しそうに動き回る治さんを見つめた。
「間に合いますか? 私、邪魔じゃないですか?」
「邪魔になると思っとったら最初から誘わへんて。余裕やから安心してや。それより俺は名前ちゃんが夜の新幹線に間に合うかが心配やで」
先に作れるものは作っているらしいし、今日作るものは実はそんなに多いわけではない。
治さんはそう心配してくれているけれど、実家に帰るのだって犬に会いたいから帰るようなものだし、3日には帰ってくるしと思うと私にとっては治さんとおせちを作る事のほうが大事なイベントだった。
「なんとかなります」
実際私がいてもいなくてもきっと治さんとしてはそんなに変わらないだろうし。まあ、雑用してくれる人がいなくて困るくらいだろう。
「実家は東京やったっけ?」
「そうです」
「大晦日の新幹線て空いとんの?」
「チケットは意外とすんなり取れました。みんな仕事納めの次の日辺りに帰ったりするんじゃないですかね」
「せやったら帰りが大変やん」
「そうなんですよ⋯⋯実は指定席とれなくて。立つの覚悟してます」
そんな当たり障りのない会話を続けながらおせちを作り続ける。途中治さんが作ったお昼ご飯を食べながら休憩をして、高校生の時は春高があったからお正月は全然ゆっくり過ごさなかったなんていう話を聞いたりして。
いつもはカウンターの外で料理を作るこの人を見つめていたけれど、今日初めてカウンターの内側に入った。決して広いとはいえないこの中で治さんは人を幸せにするおにぎりを握っているなんだよなあなんてしみじみ考えたりして。
そうして着々と増えていくおせち料理の品数を前に治さんは言った。
「だし巻き作ってみる?」
「えっそれ初心者にはハードル高いやつなのでは?」
栗きんとんを作っている最中のことである。
それでも言われたからにはと承諾し、出汁でゆるゆるになった溶き卵を見つめた。巻ける気がしない。せっかく栗きんとんが上手に作れたと鼻高々だったのに、これはちょっと上手くいく予感が一切ない。
だけど治さんが隣にいるし。と私はフライパンを熱する。心なしか隣に立つ治さんが近い気もするけれど、今はそれが有難いとも思えた。
「では、いきます」
「よっしゃ、いったれ」
卵焼きを作る感覚で始めれば一向に固まらない液体に焦る。無理無理巻けない。こんなのスクランブルエッグにすらならない。失敗してしまうと不安になる私の手を後ろから握ったのは治さんだった。
「手首をな、こうやって、こう、あと箸でな、ここを、こんな風にな」
抱き締めるような形で私の両手は治さんに包まれる。分かってる。これに他意はなくて治さんは私にレクチャーするためにこうしてるんだって。声が耳へダイレクトに伝わって息が首筋にかかってゾクゾクと身体の奥から沸き上がる感覚を覚えた。
こんなの集中して料理出来るわけない。自分の息の吸い方もわすれてしまうくらいだ。心臓の音に気づかないで。それでもどうか短く息を吸って、か細く吐き出すように私は口を開いた。
「あ、あの⋯⋯」
「ん?」
近いです! そう叫ぶように言いたかった言葉は結局、言葉にはならなかった。
少しだけ治さんのほうに顔を向けると同時に眼前にいる治さんの顔が視界いっぱいに広がる。近いなんてものじゃない。こんなのキスする一歩手前の距離だ。息を呑んだ。
私と同じように一瞬だけ目を見開いて驚いた表情をした治さんは、すぐに冷静を取り戻したようだった。それでも離れていかないのはどうして、と私は誰に尋ねるでもなく心の中で問うた。
だし巻き卵の香りと、フライパンの音。今は調理中でこんなことに動揺している場合じゃないって分かってる。なのに。
世界は一瞬にして色を変えた。
私の手を握っていた治さんの手のひらが滑るように私の頬に触れた。少しだけ力を添えられて、より一層私の顔は治さんのほうへ向く。いや、待って。なにこれ。なんなの、これ。
「⋯⋯なあ」
吐き出すように治さんが言う。
息がかかる。ダメでしょ、付き合ってもいないのにキスしようとするなんて。近づく唇を前にそう思っても身体は動かない。
呼吸を忘れて息を止めた。強く目蓋を閉じて、私は考えることを放棄してしまった。
その時だった。
「すまん! 遅くなった! オカンが何時に来るて⋯⋯」
勢い良くドアが開いて、勢い良く侑さんが店内に入ってきたのだった。
(20.10.27)