「⋯⋯聞いてこい言われたんやけど、すまんかった。邪魔してもうたな。出直すわ」

 何を察したのか、侑さんは早口でそう言うと勢い良く開けられたドアからまたしても勢い良く外に出ようとする。

「ち、違います! 誤解です! 邪魔じゃないです!」

 侑さんの登場に冷静を取り戻した私はそれを慌てて止めた。治さんから距離をとって、ついでにコンロの火を止めて無罪を主張するように両手を頭の上にあげると治さんが深いため息を吐いたのがわかった。

「タイミングを考えろや⋯⋯」
「俺が悪いんか!」
「どう考えたってそうやろ。ほんま昔からノックもせんと部屋に入ってくるわなんやでいい迷惑やで」

 遅れてやってくる心拍数の上昇と治さんの言葉。今、侑さんが来なかったら私達絶対キスしてた。冷静を取り戻せば取り戻すほど、あの瞬間の自分が恥ずかしくなる。

「はあ? そもそもこんなところでいちゃつくなや」
「今日は休みでここは俺の店や」
「そんなん関係あらへん。俺来る言うとったし!」
「⋯⋯せやったっけ?」
「忘れとんのかい!」

 治さんはなんでそんなに平然としているんだろうか。平然っていうか堂々たるっていうか、恥ずかしさの微塵もないっていうか。

「あ、あの」
「すまん。だし巻き途中やったな」

 意を決して声をかける。羞恥と緊張の滲む私の声に、治さんはだし巻きの心配をした。いや、確かにそうだけど。侑さんの手前、今のなんなんですか? と素直に聞くわけにもいかない。いや、侑さんがいなかったとして私にそれが聞けただろうか。

「コンロの火は、止めておきました」

 言えば「そうか」と短く言って治さんは自身でだし巻きを作り始めた。珍しく、と言うか初めて治さんとちゃんと目を合わせて会話をしていない気がする。

「名前ちゃん、作るの手伝っとったん?」
「あ、はい」
「ふうん」

 何かを含むような言い方をして侑さんは返事をした。気まずい。治さんに対しても侑さんに対しても気まずすぎる。午前中はあんなに和気藹々とおせちを作っていたのに、あの瞬間が変えた。受け入れようとした私が言える事でもないけれど。
 私とは違って手際よくだし巻きをつくる治さんを見つめる。

「あの、私そろそろ準備があるので帰ります」
「準備?」
「この後新幹線で実家に帰省するんです」
「大晦日の移動大変やな」
「まあ東京までなので」

 居心地が悪いからと退散するのはこれが初めてだ。悪いことをしたわけじゃない。私も治さんもいい大人で、告白しないとキスしてはダメですなんて律儀なもの、この世にはほとんどないとわかっている。
 流されたのは私だったのか、それとも治さんだったのか。
 実際、着替えや荷物もあるしそろそろ部屋に戻らないといけない時間ではあった。私が治さんから借りていたおにぎり宮のエプロンを返すと、それと引き換えのようにタッパーにつめられたおせちを手渡された。

「作ってくれたお礼。食べたい言うてたやろ。持ってきや言うてたし」
「いいんですか?」
「その分多めに作っとったんや」

 ほんの少しだけいつもの調子とは違う治さんが、もう一度私と視線を合わせるようにして会話をしてくれる。
 今、私と治さんの間にあるものはなんだろう。お客と店主。知り合い。友達。好きな人。どれが正解なのか。

「帰るんやったらコンビニまで一緒に行こうや」
「あ、はい」

 コートを来たままの侑さんが言う。何か言葉を探して、でも言うべき言葉を見つけることも出来なくて私は結局当たり障りのない年末の挨拶だけを残しておにぎり宮を後にすることとなった。
 お店を出てすぐに侑さんが口を開く。

「付き合っとるん?」
「いえ! さっきのは、その、なんていうか」
「妙な流れ?」
「まあ⋯⋯みたいな⋯⋯いや、未遂ですけど!」
「未遂かあ。そうかあ⋯⋯」

 侑さんは言いながら空を仰ぐ。首にぐるぐるとマフラーを巻いて私よりも温かそうだ。

「⋯⋯治さんて」
「ん?」
「その、女の人とよく付き合ってたり、とか、手が早い? とか、どうなんですか」
「なんちゅー質問や」
「だって!」

 私の問いかけに侑さんはゆっくりと長い息を吐き出した。

「⋯⋯まあ、そんなんやないと思うけど」
「え?」
「名前ちゃんが想像したような酷い男やないと思うけど。なんせ俺の片割れやし」
「侑さんの片割れ⋯⋯」
「意味もなくせんやろ。知らんけど」
「最後急に無責任出してきましたね」
「想像したら気持ち悪なったんや」

 じゃあ治さんは意味を持って私とキスしようとしたんだろうか。妙な流れでも雰囲気でもなくて治さんなりの理由があったんだろうか。その理由は誰でも想像つくような、単純明快なものでいいんだろうか。
 だとしたら私は。
 こんなにも外気は寒いというのに、私の身体だけは火照っていた。それは治さんが与えた熱だった。

(20.10.27)
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