ゆっくりと体の中の酸素を入れ替える。視線はまっすぐ射抜くように。非なんて一切無いと思わせるくらい堂々と。何より、力を貸してくれる神様に恥じないように。波由流は改めてしゃんと背筋を伸ばした。ここからが第二の山場である。波由流にとっての、真なる分水嶺だ。

「今更ですが、千鳥さん。カミツキと交友関係があるというのは本当ですか?」
「うん。カンナガラに入る前からの知り合いがカミツキだったんだ」

 以前詰め寄られた時とは打って変わって素直に首肯して見せたからか、一乃紀が胡乱な目を向ける。今更隠したってしょうがないだけだ。むしろ変に誤魔化すほうが、いよいよ彼等との縁を断ち切ってしまいそうで嫌だった。

「だからカンナガラとカミツキ、どっちかなんて選べなくて……結局、仕事とプライベートは完全に切り分けて接するのが暗黙の了解になってたよ」
「成程、あくまで款を通じていた訳では無いと。しかし無意識的にでも、情報の漏洩をしていた可能性は考えませんでしたか?」
「してたらとっくにバレてるよ。無意識なら尚更ね。仮に相手が一般人だったとしても、家族だったとしても、関係者以外に喋っちゃいけないのは同じなんだから」

 例えば、カンナガラの業務と学業の都合で融通を利かせるために、教職などと兼業する形でカンナガラの職員が学校に勤めているケースがある。これは未成年を守るのと同時に、社会を舐めているちゃらんぽらんな学生共が何かやらかしていないかの監視も兼ねているのだろうな、と波由流は推測していた。
 人手が足りないので四六時中とはいかなくとも、見られていると知らせるだけでもある程度の牽制は見込める。波汲のような広範囲の情報収集に長けた神が他に居るのであれば、そういった方面での活躍も期待されているに違いない。

「貴様が何も話さずとも、カミツキ側から情報を得て協力することは可能だろう」
「それも無いよ、100パーセント。今回の襲撃も含めて、仕事に関することは何も知らされてない。ね、百日紅さん」

 波由流の言葉を受け取った百日紅は、そこに含まれた確信を正しく読み取ると、可愛らしく微笑んで頷いた。証明のしようがないものは、認識上だけでも嘘が無いことを示す他無い。その為の彼女でもあるのだろう。与えられた手段は有効に活用するべきだ。

 とはいえ、此処まで来れば波由流が何を言おうとも、一乃紀のように信じない人は信じないのだろうと察しが付いている。波由流はおもむろに首を傾げた。

「ねえ、網代さん。結局網代さんがおれを疑ってるのって、おれがカミツキと仲良くしてるのが原因なんだよね」

 一乃紀は小さなほつれを見逃せない性分だった。百人中九九人がその出来栄えを称えても、彼女一人だけは絶対に疑念の目を向ける。中々出来る事ではない。組織というコミュニティにおいて、彼女の肩書において、それはきっと素晴らしい美徳なのだ。疑われている身としては面倒な事この上無い。

 だから、あえて切り口を変えてみることにした。

「思うんだけど、何でカミツキと仲良くしてたら駄目なの?」

 弁明も何も無い。
 あっけらかんと、波由流は開き直ってみせた。

「……は?」
「前にも言ったけどさ、仕事とプライベートは関係無いじゃん。だったら文句言われる筋合い無くない?私的領域を不当に詮索する行為を個の侵害って言うんだよ。パワハラ・モラハラはんたーい。っていうか、網代さんにされたことって普通に強要罪だよね。あーあ、従業員相談窓口に電話しちゃおっかなー」
「ふ、ふふ。今更何を言い出すかと思えば。最早関係無いなどと言っていられるレベルではないだろうに。犯人隠避罪というのを知らないのか?」
「相手を匿うために積極的に虚偽の報告を流したり、スパイの真似事みたいに明らかな妨害工作をしてれば罪に問えるけど、おれがしたのはあくまでただの黙秘だよ。今のおれの立場を鑑みても供述の義務は無いからね。そっちこそ証人等威迫罪って知ってる?」
「わ――!!ちょっと待ってください着いていけません!!この場の人間だけで判断出来る範疇を超えてますよ!!」
「……ふうん、そうなの?」

 白々しく首を傾げてみせる。大仰な裁判ではないのだから、ここらでストップを掛けられるのは想定内だ。波由流の処遇は何故だか斎竹に一任されているらしいし、今の発言でその信憑性も増した。それだけ解れば充分である。

「じゃあシンプルに、カミツキと仲良くしても良いって第三者から認めてもらえれば、とりあえずこの場は丸く収まるんだよね?」
「えっ」

 斎竹はぴしりと固まった。そんな爆弾案件を此方に回されても困る。
 正直上層部に泣きつきたいが、その上層部は全ての判断を斎竹に丸投げしている。それで何かあったら全部てめえの責任だからなと圧力を掛けられているのだ。四面楚歌だ。斎竹は絶望した。

「そんなに難しい話でもないよ。おれだって、何もしないでカンナガラに戻れるだなんて甘い考えは持ってないから」

 斎竹が見るからに狼狽えているのを確認して、波由流は困った風に眉を下げた。如何にも相手に寄り添うような、柔和な雰囲気をまとってみせる。

 ――――さて、これは波由流が培ってきた処世術のひとつだが。
 総じて弁論とは、徹底的に論破して相手を言い負かす者ではなく、巧妙に言いくるめて味方に付ける者こそが、優位に立つものなのである。

「網代さん、前におれに要求した内容、覚えてる?」
「……カミツキの情報、千鳥小百合の身柄、それから観世海遥が連れ去った八十神について。内二つに関しては、青藍様が既に此方にいらっしゃるし、千鳥小百合にも手を出さないと明言している」
「うん、だから残るはカミツキの情報だよね。でもさ、よく考えてみてよ。情報を抜くだけ抜いてはいおしまい、ってちょっと勿体無くない?」

 一乃紀が口を噤んで、此方の出方を探るように腕を組む。よし、食い付いた。

「網代さんは、おれに絆されてカミツキに寝返る奴が居るんじゃないかとか色々言ってたけどさ。逆に言えば、網代さんがそんな風に疑えるくらいには、カミツキだっておれに絆されて・・・・るんだよ」

 兵は神速を尊ぶ。思うに、それが一乃紀の言動の主軸だ。カミツキを危険視するが故に、少しでも迅速に多くの情報を集め、優位に立ち回ろうと考えている。
 だが、それだけという訳でもない。襲撃が実際に起こるまで、波由流を本格的に問い詰めるまでに、可能な限りその身辺を洗い出した程度の自制心と周到さも持ち合わせている。彼女本来の性質と、抱えている責任や立場におけるバランスがそうさせているのだろう。

 ならば、情報の速度以上のメリットを提示すれば良い。利用しない手は無いのだと、急いては事を仕損じるのだと、そう思い込ませるのだ。
 そのための詭弁を弄するのは、波由流の得意技である。

「――――おれ、友達に一回殺されかけてるんだ」

 たまたま仕事先で会っちゃって、腹を一突き。そう言いながら自分の腹を刺すジェスチャーをしてみせる。今でもうっすらと傷跡が残っている其処は、先程話題に挙げたのとはまた別の友達に刺された場所だ。

「でも、殺されなかった。致命傷を与えた時点で、そのまま止めを刺すなんて簡単なことだったのに。でもしなかったんだ。おれを殺したくないって、精一杯頑張ってくれてた。……おれが急所を差し出しても、わざと避けようとするくらい」

 殺人衝動なんて厄介なものまで抱えてるくせに。
 適当に行動不能にして見逃したとか、そんなレベルの話じゃない。腹を刺された程度で済んだのは、間違いなく彼女の自制心の賜物だった。そのくらい、彼女は波由流との友情を、大切に思ってくれていた。

「要するに、よっぽどのことが無い限り、その子はもう、おれを殺せないんだよ。ねえ斎竹さん、もしこのままおれたちの関係が上手く維持出来れば、どうなると思う?」
「……そうですね。運が良ければ他の仲間を紹介してもらえるだけでなく、そのご友人のように、千鳥さんと戦うのを躊躇する人も増えていくかもしれません。あくまで希望的観測ではありますし、真実を知ったら逆上する可能性もありますが」
「友達はおれがカンナガラだって知ってるから、気難しそうな人はそれとなく遠ざけてくれると思うよ。でも、おれが情報を渡した瞬間、互いの信頼だけで成り立ってるこの関係は一気に氷解する。だったらこのまま仲良くさせておいた方が、結果的にカンナガラにとっては有益になると思うんだけど。どう?」

 勤務中に彼等を捕らえろと言われれば従うだろう。それが仕事なのだし、ここまで言ってきた以上、波由流が責任を持って、率先して行うべきことだ。これまでも、これからも、波由流がやることは変わらない。
 ただ、友達を売るような真似だけは絶対にしたくないから、これが今の波由流に考えられる最良の落とし所だった。

 一乃紀は眉根を寄せて黙り込んだまま。それを確認した斎竹も思案するように目を伏せる。反応は上々。

「毒を食らわば、ですね。検討する価値はあるでしょう。しかし……」
「面倒だから手っ取り早く記憶を消して解決しちゃいたい?」
「うっ……」
「気持ちは解るけど、あんまりおすすめしないよ。さっきも言ったけど、友達とは以前からの知り合いだから。絶対何処かしらに齟齬が生じるよ」
「……といいますか、その手があることを、青藍様に聞かれちゃいましたしねえ。貴方の言葉を借りれば、それを実行した瞬間、我々はもれなくトルソー加工されちゃいますね」

 はたしてこの神様が、記憶を消された程度で波由流のために動いてくれるかは解らないが、違和感に気付いた母が何も言わないとも思わない。
 それに少なくとも、此処で共に話を聞いた焔ならば、危害を加えられそうになったとしても守ってくれる。焔さんは、今こうして戦っているおれの強さに期待してくれているから。そう信じている。

「いいや。まずその友人とやらに甘言を吐かれて……あるいは追い詰められた際の命乞いとして、カミツキに寝返るかもしれないだろう。そんなリスクを抱えてまで得るほどのメリットには感じられないな」
「それを言うなら、あんたに追い詰められて逃げ切った時点でカミツキに寝返ってるよ。お母さんのことだって、友達に協力してもらえば良いんだし」

 現に波由流は、既に何度かカミツキに勧誘されている。ちょっぴり揺らいだことすらある。だってきっと、この友情は大多数には理解されない。何時かぼろが出て、否定されて、次第に居場所が無くなっていくのが目に見えている。
 波由流は、そんな誰かを恨まずにいられる自信がない。嫌われるのは恐ろしいけれど、それ以上に、好きだった人を嫌いになってしまうことの方が、この世の何より恐ろしいのだ。

 それでも、波由流は此処に戻ってきた。果たすべき約束があるから。帰りを待ってくれている人が居るから。どれだけ傷付いたって構わないほどの決意が、内側で熱を帯び始めたから。

 だから、ここまでお膳立てされておいて、押し負ける訳にはいかない。
 失ったまま、何も成せないまま、始める前から終わる訳にはいかないのだ。

「だとしても、貴様が回廊でカミツキに荷担していた事実は確かだ。異心を挟んでいたからこそ、明星様の御心を誘導して手負いの敵を見逃し、今回の襲撃に繋がった……そう考えるには充分だろう」
「まだそれ引きずるの?あの時は怪我人が近くに沢山居たんだよ。人命より優先すべきことじゃないし、明星さんこそそれを放っておかないでしょ。それに、百戦百勝は善の善なる者に非ずって言うじゃん。倒すことばかりが最善とは限らない。そうは思わない訳?」
「生憎と、無血で事を済ませられる段階はとうに過ぎているのでな。我々はこれまでに多くの深手を負った。それが解っていながら、我々の平穏を脅かす悪に心を許し、神にあだなす蛮族の言葉に耳を貸すなど、馬鹿げているにも程がある」
「そんな事言って対話の可能性を放棄してたら、いよいよ戦争が始まるよ。闇雲に武力で解決するばかりじゃ、それこそ悪だとか蛮族だとか思われたって仕方ないんじゃない?あんたの言うカミツキと何ら変わんないね」
「神を貶めて好き勝手に振る舞う無法者共と同列に語るな。我々の力は、国から認められた、神から与えられた、秩序を守るための力だ。それを然るべき時に行使するのが我々の義務なのだから」
「いたずらに力を振りかざして守れる秩序って何?ねえ、網代さん。あんたは所属だけで人をラベル付けして、要らない傷を増やして、半分にも満たない、ぼろきれみたいな束の間の平穏を毟り取ろうとしてるんだよ。それが本当に正しいことだって、国や神様に胸を張って言えるの?」
「ふ。貴様は夢想家か?中途半端な慈悲を与えれば付け入る隙を生むだけだと何故解らない?それこそ貴様の甘さで、過ちだ。国に、神に、カンナガラに、そして傷付いた民衆に誠意を示すならば、揺るぎなき粛清こそが、それに応えうる唯一の正答と成り得るのだ」
「そんな事言ったらおれたちだって――――」

「そこまで!!!」

 パンッッ、と乾いた音が部屋中に鳴り響いた。
 振り向けば、半ば疲れた顔で斎竹が両手を合わせている。

「そのあたりはもう、個人の裁量によるところです。どちらの思想にも一長一短が有り、この場に居る人間だけで判断出来る話ではないですよ。繰り返しになってしまいましたが」

 は、と波由流は小さく息を吐いた。ヒートアップするあまり、すっかり話が脱線しているのに気付いていなかったのだ。

 実のところ、襲撃の日に掛けられた術は解けた訳ではない。感情を増幅させる術に対して、感情を沈静化させる薬を飲んで打ち消しているだけの、一時しのぎに過ぎなかった。
 効き目が薄くなってきたのか、疲労が溜まって思考が鈍くなっているのか。どちらとも解らないが、このままでは一向に話が進まずスタミナ切れを起こすかもしれない。じわりと逸りだす心臓を誤魔化すように、かすかに視線を彷徨わせて、そして百日紅と目が合った。

「千鳥さん。お話を聞いていて、ひとつ気になったのですが……それほどまでにカミツキを気に掛けるのは、貴方のご友人がカミツキだからでしょうか?」

 百日紅の手を握りながら、斎竹は波由流の顔色を窺った。その瞳に責めるような色は無い。此方の真意を静かに推し量るような、凪いだ両の目を見つめていると、ほんの僅かにでも頭が冷えていく気がした。

「……切っ掛けではあるけど、それそのものが理由の全てって訳じゃないよ。友達だからってだけで他のカミツキと対応を変えるのは、立場的な意味では正しくないでしょ?」
「ええ、それはそうですね。では、カンナガラとしての正当な理由もあるとお考えで?」
「うん。さっき止められた話の続きでもあるんだけど……」
「構いませんよ」

 少しばかりためらうものの、斎竹は笑顔で促した。また流れが脱線しそうになれば、すぐさま軌道修正をしてくれるのだろう。それを受け取った波由流は、一乃紀の様子をちらりと伺い、ひとつ頷いて口を開いた。

「――――おれたちだって、傷付けてきた側だから」

 友達だけじゃない。色んなカミツキを目にしてきて、波由流はずっと、ずっと考えてきた。

 そもそもカミツキは、何故咬術なんてものを編み出して、革命なんて起こすまでに至ったんだろう。純粋な悪意だけで攻撃しようとした?それとも何かに傷付けられて、恨みを晴らしたかった?
 何が始まりだったとか、どっちがどのくらい悪かったなんて、当事者でもなければ解りっこない。けれど一乃紀のような思想の人間が、必要以上に彼等を追い詰めたことだって無いとは言い切れないのだ。カミツキだって皆が皆、好き好んで傷付けてきた訳ではないのと同じように。

 カンナガラが守りきれなかった、歩み寄れずに傷付けてきた、社会に淘汰された人達の中に、少なからず彼等は存在するのだと波由流は思う。秩序と誠意を謳うなら、その事情をこそ慮ってやらねば、それは力を行使する側の怠慢だ。あんまりに無責任だ。
 どちらにしろ、傲慢なことに変わりはないけれど。

「贖罪って訳でもないけど……せめてそれ相応の責任は、カンナガラとして果たさなきゃいけない。誠意を示すって、そういうことだとおれは思うよ」
「は?……貴様は、何を言っている?修羅の巷と化した街を忘れたか?此処に辿り着くまでに、被害の跡を、嘆く人々を、一欠片も見てこなかったのか?傷を受けてきたのは、一方的に蹂躙されてきたのは、事実我々の方だろう」
「言いたいことは解るよ。でも、違うんだよ。そうじゃなくて……そうじゃないっていうか、それだけじゃなくて。おれたちだって……おれ、だって」

 はく、と空気を噛んだ。

 ――――これを。この痛みを、どう言葉にしたものだろう。言葉にしたとて、それは本当に、この状況を打開しうる、正しい選択なのだろうか。

 感情論は、苦手だ。
 心を曝け出すことからずっと避けてきたから。
 無理矢理に暴かれて、掻き乱されて、苦しい思いを沢山したから。

 それでも、心のままに打ち明けることが、悲惨な結果を生み出すばかりでもないのだと、波由流はちゃんと覚えている。背中に自分を対等だと認めてくれた神様の熱を感じているから。

 理屈一辺倒では、きっともう勝てない。

 それなら。

 ゆっくりと一呼吸置いて、波由流は一乃紀を見つめた。
 何時も薄っぺらい理屈を詰め込んでいた肺の中に、新しいものを注ぎ込む。

 波由流の中の、本当に、本当の部分。

「……おれ、友達に、二度と会わないって言われちゃったんだ。ほら、これだけの騒ぎになっちゃったから」

 あれだけ口論を続けて交友関係を留めようとしていたのに、そんな事を口走ったからか、一乃紀が微かに動揺した。
 気付けば、とめどなく言葉が溢れていた。最早伏せる意味も無くなってしまったから。

「連絡はもう取れないだろうな。あんな状況でも、おれのこと、ずっと守ろうとしてくれてたから。何時かこの襲撃の傷跡が治って、学校が再開しても、そこだけずっと空席のまま、段々誰も話題に出さなくなって……みんな、忘れていくんだ」

 贅沢は言わないからさ、せめて、せめてひとつだけ。


「一緒に卒業したかったなあ……」


 きっともう、どれだけ頑張ったとしても、それだけは叶わないのだろうけれど。


 耐えられないといった風に百日紅が泣き声を上げた。
 心臓を引き絞るような悲しみと怒りと、後悔の波が押し寄せて、溺れそうでたまらない。

「ねえ、解る?あんたが。……っおれが。一人の人間の明日を奪ったんだ」

 襲撃が発生した時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。それでも、そんなのは関係無しに、責められずにはいられないのだ。
 目の前の女が許せなかった。豊やユナに優しくない世界が許せなかった。一番許せないのは、豊にわざと傷付けるようなことをさせてしまった自分自身だ。

「夢想家だって?笑わせんな、あんたも現実見えてないくせに。おれより小さい子にも武器を取る決意をさせるのが今の世界なんだよ。それで平穏がどうとか誠意がどうとかっ、ぜえええんぶ嘘っぱちじゃんふざけんな!!自覚しろ!!おれたちがっ、誰より加害者なんだ!!」

 激情に駆られるままに殴った机が荒々しく揺れた。部屋全体に響いた甲高い音が、波由流にはどこか遠かった。
 はらはらと両者を交互に見比べる斎竹と、机の上をなすがまま転がっていくひとめが目に入って、慌てて心臓を抑える。何度か息を整えて、それでも思考が喉奥から溢れて止まりそうにないから、あえてそれに逆らわずに口を開いた。いっそこの際、全て吐き出してしまいたいのも本当だったから。

「……正直言うと、おれがあんたらにとって正しい人間かどうかなんて心底どうでも良いんだよ。どれだけ言い繕ったって所詮はおれのエゴだから」

 積み重なってきた敵意がいよいよ形を成して、言葉尻に滲んだそれを余さず読み取った百日紅が、微かに怯えているのにも気付いていた。
 それでも。

「でもさ、でも、もっと違う道を選べたかもしれないのに、きっと救えたかもしれない誰かを、悪だと決めつけて淘汰するのを良しとするなら。それがカンナガラの言う正義だってんなら……そんな薄っぺらいもん、真っ向から否定してやる」

 波由流はずっと、自分の中に生まれる醜い感情が嫌いだった。悪意は簡単に人を傷付けられるから。皆が言うような優しい波由流など何処にも居ないのだと、まざまざと突きつけられるような心地がするのだ。

 でも何時だったか、このドロドロとした怒りが、友愛から生まれるものだとユナは言ってくれたから。
 無責任で生意気な感情だってぶつけて良いのだと、焔は言ってくれたから。

 豊が、覚悟したって言うんなら。
 おれだってもう、ナイフを取ることから逃げてばっかりじゃあいられないのだ。

「それ以上は……駄目ですよ、千鳥さん。反逆行為と捉えられかねません」
「良いよ別に、実際そのくらいのことは言ってるし。だけどおれは、人としても、カンナガラとしても、間違ったことをしてるとは思わない。カンナガラに属する神様が、おれの主義主張を認めてくれてる。証明なら此処にある」

 斎竹は微かに息を呑んだ。結局はそこに帰結するのだ。
 波由流の胸元で、翡翠の小刀が一点の曇りもなく煌めいている。カンナガラの創設時から助力を頂いてきた龍神が、信頼のもとに預けたであろう龍の角。まかり間違ってもカンナガラに害をなそうと考えている人間が持っているようなものではない。百年の歴史を共に歩んできたかの神が、そのような愚行を犯す筈もないのだ。

「――――それでも文句があるってんなら、今此処で、焔降山照大神様のご判断を覆してみせなよ」

 室内を見渡せる特等席に座して、始まりから耳を傾けている業火の神は、何も語るべきことはないと無言を貫いている。カンナガラが数年掛けて必死に口説き落とした、それは厳格な神だ。誰が口答えなど出来よう。これ以上無い止めの一押しだった。
 斎竹は緩やかに目を伏せる。

 ――――己の意志を貫くことを、そうあれかしと、神が示した。なればこそ。

「……貴方もまた、随神、という訳ですか」

 波由流はきょとりと目を瞬かせた。
 だって、そんなに大層なことでもないのだ。波由流が神様を尊重してきたように、神様が波由流の我儘を尊重してくれている。信仰とはそういうものだ。

 大層なことでもないから。

「おれはただ、友達を堂々と友達だって胸張って呼べる世界が欲しいだけだよ。ありふれた明日を諦めなくて良いんだって、認めさせてやりたいだけ」

 何時かは離さなければいけないと解っていた手を。
 離したくないと駄々を捏ねて、それでも互いのためにと、あの日、離してしまった手を。

「それは、他の誰でもない、おれの意志だよ」

 もう一度、掴みに行くだけだ。
箱庭