44:special & not special




広瀬さんの顔に困惑が浮かんだ。

「ど」
うしたのと音が続く前に「ちょっと来て」と手首を掴まれ、居間を出て連れて行かれたのは秋山さんの部屋の前。
「秋山、入るぞ」
返事も待たずにからりと音を立てて開けられた襖、机に向かう秋山さんの手元には本が広がっている。
振り向いた姿勢のまま私に焦点を合わせると秋山さんは緩く首を傾げた。
多分広瀬さんの雰囲気がいつもとちょっと違うからだ。

「もしもが現実になった」
(もしも?)

部屋の主に放たれた広瀬さんの声がいつもより硬い。
どうしたんだろうと少し高い位置にある後頭部を見つめていると、秋山さんの眉根が寄った。
一体何なの。
広瀬さんに手を引かれたまま部屋に入って座った途端、さて、と向けられたふたりの視線に、反射的に肩が跳ねる。
い、居心地悪ぅ……

「さつきさん、もう一度同じ話してもらえるか」
「え、さっきの話?今日千鶴ちゃんからピアノの先生の御主人が瓜生っていう海軍の人だって聞いて、広瀬さんその人知ってる?って」
「……さつき……お前よりにもよってそこを引くのかさつき……」
「えぇ……何の話してるの……私何かした?」

戸惑う私に「さつきさんが何かしたわけじゃないよ」と広瀬さんがフォローしてくれたけれど、ふたりの様子に何か悪い事でも起きたのかと心臓が変な音を立てている。

「どういう状況でそんな話になったんだ」
「状況も何も」
気を取り直して落ち着いた空気で尋ねてきた秋山さんに、いつも通り、いつもと一緒だよと私は答えた。
清流庵でいつものようにあの子の話を聞いていて、何かの話の流れでピアノが上手に弾けるのっていいよねとなって。
「うん」
「それで」

私の先生凄い先生なんです、そうなの、アメリカに長くおられたから英語も堪能で、アメリカに長く?へえ、海軍の御主人様とはアメリカで知り合われてそれがご縁で想い想われてご結婚されたんです、え……えーそれは素敵!、ええそうなんです憧れます、……

「上流階級でも恋愛結婚あったんだなって……あ、もしかしてそのピアノの先生がまずい……?」

ふたりの頭が縦に揺れて、私は指を何本か口元に当てると視線を宙に上げた。
「ちょ、ちょっと待って、えーと、」
何聞いたっけ。何話したっけ。
記憶を掘り起こす。

ピアノは頻繁に習っているのか聞けば、習っているに毛が生えたような感じ、しかも先生が子育てに家事に忙しく今はそれも絶えてしまっているらしい。随分会っていなくて寂しいと言っていた。
千鶴ちゃんがピアノを弾いて欲しいと言い出したのはそれがあったからみたい。
その先生の御主人がふたりの同業者と聞いてビビったけれど、そこは流石にお口をチャック。
ただ海軍という単語に私が少し引っ掛かった事に気が付いて、以前の話を気にしていたのか、如月さんの事は先生にも話していません、会っていませんし話さないというお約束の事もありますし、とわざわざ言葉を添えてくれた。

ううん違うの、御主人が海軍さんかひゃあかっこよと思っただけで、分かります以前お式のお写真見せて頂いたんですけど儀礼服とドレスでとても素敵で、儀礼服!分かる!かっこいいよね、ですよね!……

「そ、そうか」
「はーっ……そうか」

話途中なんだけど。
前にふたりが予想してた通り、千鶴ちゃんも嫁入りが決まったんだってさ……
ふたりの解き放たれた感が凄くて、これ続けなくて良さそうだな。
てゆーか、よ。

「私の事がその先生に伝わるのがダメだった?」
「そうだ」
「さつきさん、そのピアノの先生はね、……」

ふたりがし始めた先生の話に私は冷や汗が止まらくなった。

(聞いてて大分セレブな先生だとは思ったけど……)
岩倉使節団の女子留学生のひとり?親友の旦那が大山巌?兄が三井物産創業者で井上馨や山縣有朋と親しい?
何それ歴史の教科書じゃん。

「瓜生夫人は女子教育に関わりがある。さつきの事を知ったら会いたがるのではと思ったんだ」
「うわ……」
で、そこから繋がるのが教科書の人々。
「それに瓜生さんは俺たちの大先輩だしなあ」
妻が夫に報連相するのは当然と言っちゃ当然だろう。

「こ、こわ……こっっわ〜……」

言い方がツボったのかふたりは笑ったけど、はははじゃないよ。
襟首から背中に氷を落とされたような気分だ。私だけでなくふたりの立場だってある。それを思うと身が竦む。
あの時千鶴ちゃんに人に言わないという約束を取り付けていて良かった。
そうは思うけど所詮は口約束で本当に口止めできているかどうかまでは分からないし、それに……

「清流庵、どうしよう」

その一言は思った以上に大きく車座の中で響いた。
時間をずらすか、もしかしたらもう行かない方がいいのかな。
神隠しの事もあるし、八重さんたちや子供たちの事もあるから行けなくなると違う問題が起こりそうだけど、私の最優先は秋山さんと広瀬さんだ。
このふたりに迷惑が掛かる事を思うと二の足を踏んでしまう。

「そこまではしなくていいよ」
「でも」
広瀬さんがそう言ってくれた傍らで、少し考える素振りを見せていた秋山さんが口を開いた。

「女学生の親はさつきの事を知っている」
「え」
「清流庵で頻繁に、男と見間違える人間と隠す様子もなく会っている。お付きはいるが、口は出さずに近くで控えているだけ」
その通り。私は頷いた。
「そこから考えるにその女学生、親の許可を得て清流庵に通っている」
「……それ、は、まずくない?」
ぎゅうと眉間に皺が寄った。親御さんに知られているというのは流石に……
「問題ない。相手は既に俺たちの事も神隠しの噂も調べて知っているだろう。その上で男を目付けにしてお前と会うのを許している」
ま、まじかー。

「その子、いや付き添いの人かもしれないな、さつきさんから受けた注意をきっと親に話している」
「注意?」
私のあまりピンとこない様子に広瀬さんが軽い調子で笑った。
「君にとっては取るに足りないような事なのかもしれないが」
「はあ」
「一番はクッキーと金の話、あと清流庵通いを周囲に話さないよう約束させた事だな。口止めは俺たち三人の事もあるが、千鶴ちゃん?の心配もしたんだろう?」

広瀬さんの問いに私は首を縦に振った。
広瀬さんの言う通り、私がまず第一に考えたのは自分たちの事。
でも同時に千鶴ちゃんの事だって考えた。
会う頻度の高さからあの子に何か問題は起こらないかと気になって……
性別さえ判然としない正体不明の不審者と回を重ねて会う事はきっとあの子の外聞を傷つける。
用心しないと。そう思った。
良からぬ噂は社会的にも物理的にも簡単に人を殺してしまうから。

「それ、ちゃんとあちらに伝わっていると思う。少なくともお目付け役は分かっている」

そう言われてオニーサンの会釈を思い出した。
あんな態度珍しいと思ったんだ。目が合ってもそっと逸らされるばかりだったのに。
そっか。あれはそういう意味だったのか。

「それで颯太たちと出会った経緯も先方が承知しているなら……そういう事だ」
「どーゆー事よ」
秋山さんの言い方に大丈夫そうなニオイを嗅ぎ取って少し気持ちが緩んだ。小さく唇の端が上がる。
「会った事もない人間から信用される気分はどうだ?」
「信用ねえ……」
秋山さんは笑いながらそう口にしたけれど、『放っておいても害はない』程度の評価じゃないかな。
そう答えればふたりの視線がじとりとしたものになる。

「さつきさんはその子の名字を聞いてない」
「向こうが言わないし、清流庵でしか会わないし。別に知る必要ないよ」
「しかし資産家の娘だとは分かっている」
そりゃまあ分かりますよね。
「分かった上で媚びたり諂ったりは?」
「何言ってんの?」
「金や物をせびったりは?」
いやいやいやホント何言ってんの広瀬さん。
顔の前で手をブンブン振りながら思わず真顔で否定する。
「子供相手にそんな事する訳ないじゃん」
なんなら私の方が上から目線での物言いだし、第一そんなみっともない真似大人相手でもしない。
……って、……

「え、まさかそこ?そこなの?」
「そこもある」
「金持ちやっべえな」
「ふ、ふは」
「ははは!」
資産家には庶民には無関係の警戒がいるのはいつの時代も同じなんだな。

ふーん、とひとつ息を抜いて崩していた足の方向を変える。
まあ、それなら……
「私は一応合格でしょうね」

あの子の事、単に女学生としか思ってないし、何なら清流庵でゴチになるのも遠慮している。
てゆーか私が清流庵で頂く和菓子は子供たちの面倒を見ている報酬って事でチャラになってるっていうのもあるけど。
知らない間にオニーサンが支払いをしていた時は、慌てて追いかけて自分の分を押し付けるようにして返したのだ。
十歳程も下の子に奢られるなんてカッコ悪い事したくない。
それに何より今の関係で僅かでも金銭面の貸し借りが発生するのはまずい気がしてる。

「私の所だと男女とも十八歳頃までは実質義務教育だし、ピアノ習ってる子だって山程いる。クッキーは一銭二銭で買えるおやつだよ。あの子の持ってる”特別”は私には普通と言うか、当たり前なんだよね」
「普通」
「当たり前、か」
「うん。当たり前過ぎて話題にもならない」

凄く嫌な言い方になってしまうけど事実だ。

「だから私にとってあの子はお嬢様で我が儘なところがある十七歳の子ってだけ」
そりゃあ仲良くしたいオーラ全開でやって来るからかわいいと思うけど……だからと言って特に贔屓もしていない。
年下の子供に対する当たり前の態度だと思うけど、それがあの子にとっては良かったのかな。

「じゃあどうしたらいいかな。今まで通り、何も変えなくていい?」
「寧ろ変えない方がいい。ここまで先方が何も言ってこないのは、女学生が変わらず来ているのは、今の状態で問題なし、利があると見ているからだ」
「利があるってそんな大袈裟な」
「向こうには向こうの事情があるんだろう」
「いきなり適当じゃん」

笑ってしまった。
いい加減な推測だな。

「それに向こうも年頃の娘の醜聞は避けたい筈だ。だからさつきが嫌がる事や無理強いはしない。お前の機嫌を損ねて騒がれたくないからな」
本当だ、確かにそうかも。現にあの子家に行く話はあっさり引いてくれたもんね。
もしかしたら千鶴ちゃん、そういう事を親御さんに言われていたのかもしれない。
「聞いている限りしつこさもない。女学生もそれなりに気を遣ってる様だしね」
「まあ……だから今のままで構わない」
「俺たちの事もあまり気にしないでいいよ。それに君が清流庵に行かなくなると子供たちがかわいそうだ。話の続きを待っているんだろう?もう少しで終わるとこの前颯太から聞いたよ」

広瀬さんの言葉に秋山さんが同意した。

「確かにそうだな。ひとりの我が儘の為にさつきから清流庵を取り上げるのも、子供からさつきを取り上げるのも間違っている」
「それにあそこはさつきさんが自分で作った居場所なんだ。大事にしよう」

ね、と背中に手を添えてきた広瀬さんに小さく頷く。
大きな掌からは優しさの籠った温度が伝わってきて、こちらを覗き込む柔らかい笑みを直視できず私の視線は少し泳いで畳へと着地した。
大丈夫だと言っても、何か起きる可能性が完全に消える訳じゃないのに。

(優しいな…)
本当に優しい。
こんなの絶対に厄介事だ。
次から次へと面倒に巻き込んで、やらなくていい事をふたりにさせている自覚はある。
それなのに嫌な顔もせず状況を考えてくれて、その上で私の気持ちを尊重してくれる。
その思い遣りに心が温かくなる。
こんな風にふたりが気に掛けてくれる事、これまでにも何度もあった。今だけの話じゃない。
そう思うと何とも言えない心持ちになってしまう。

(……普通……普通か)
このふたりと暮らす日常が今は当たり前になっていると思うと離れるのが少し怖くなる。
仕方のない事だとは分かっていても、もっと一緒にいたいと思ってしまう。
考えない方がいいって分かっていても、こういう場面になるとやっぱり強くそう思う。
(もうあまり優しくしないで欲しい)
優しくされて嬉しい筈なのに、本当に忘れられなくなってしまいそうで怖い。

「……さつき」
「あ、うん」
「さつきさん、そんなに心配しなくていい。大丈夫大丈夫」
「改めて言っておくが迷惑ではないからな」
「……うん」
「お前がいると退屈しなくていいよ」
「……まさかの暇潰し……」
小さく呟けばふたりがぶふっと吹き出した。

「く、はは、うん、それ位で考えるのが丁度いいな」
「とりあえずは様子見しよう。ただ何かあったらいつでも言って」
「はあい」
ふたりの雰囲気に釣られて気の抜けた返事をすると一瞬沈黙が落ち、伸びてきた秋山さんの手が髪をくゃくしゃとかき混ぜる。
意外と込められていた力に頭がぐらぐらと揺れ、む、と睨み付けたけれど、彼は口元を緩めて笑うばかりだった。

「もう、何すんの」
「これで清流庵では”信用される大人”で”格好いい王子様”をしてるんだから驚きだな」

ぺしっと無言で手を叩き落すと広瀬さんが一際大きな笑い声を上げた。





(本当に、ふたりが留学してしまう前に何かしてあげたい)

そうは思えどこの時代で餞別として何を渡せばいいのか、私には分からなかった。
それに何かを買うとなるとその費用はふたりからの給金から捻出される訳で。
(それもねえ)
買った物品を渡すという選択肢には躊躇いが出てしまう。
じゃあ何ができるんだと思いはしても何も思い浮かばない。
結局ご飯を豪華にする位しかできなくて、そのまま日が過ぎて。

「さつき」
「さつきさん」

夕方、帰ってくるなりちょっと来てと居間に呼ばれ、見てとふたりが差し出してきた紙を受け取った。
三つ折りのそれは艶があってぽってりと厚く見るからに上等で、所々軽く墨が滲んでいる。
内容は確認しなくても分かった。

これ、辞令だ。

座卓に置いてゆるゆると開けば目に飛び込んできたのはたった数行。
その中に露国、米国、留学という文字を認めて、はあっと息が落ちる。
気持ちのつかえになっていた不安と心配が全部押し出されたような溜息だった。
丁寧にたたみ直した辞令を胸に押し当てると目の前が滲みそうで、ふたりの視線を避けるように俯いた。

「よかった」

良かった。ふたりともちゃんと留学できる。
良かった。ふたりの足を引っ張らずにすんで。
本当に良かった。

「さつきさん泣かないで」
「泣いてないぃ……汗ですぅ」
「ふふ、そうか」
「汗拭ってやるからこっち向け」

柔らかな笑いを纏って距離を詰めた秋山さんに顔を上げると親指の腹で目元を拭われる。

「……おめでとう……」
「ああ」
「頑張って。でも体を壊すまで根詰めたらダメだよ。外国じゃ誰も助けてくれない。外国にいたら助けたくても助けられない」
「分かった」
「さつきさん、俺には何も言ってくれないの?」

机に頬杖をつく広瀬さんは言葉と裏腹ににこにこしながらこちらの遣り取りを見ていた。

「秋山さん……」
「ん?」
「……より先に広瀬さんにおめでとうって言いたかったのにいぃぃぃ」

言った途端にぼろぼろと雫が落ちる。

「は?」
「ばかあぁぁ」
「何でだよ!」
「ぶっ、げほ、あっはっはっは!」


それが六月二十六日の事。


special & not special:特別と特別じゃない事
memo&res;(20220624)で瓜生繁子についてちょっと書いてます。興味のある方はどうぞ。20220623

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