「素敵な方がいらっしゃるの」
「あら新任の先生ではなくて?」
「御存知ない?王子様」
「麻布にある菓子屋でよくお見掛けするわ」
「先日お店に伺いましたら笑いながら椅子を引いて下さったわ」
「目が合った時に微笑んで下さいました」
「以前通り掛かった時は海軍さんと話してらしたわ」
「背が高くて変わった髪色で、お召し物はいつも洋服。きっと海外の方よ。どこのお国の方かしら」
「本当に異国の王子様みたいですものね」
麗らかな昼下がりの教室、鈴の様に声を弾ませる級友たちに千鶴は目をぱちぱちとさせた。
何の話かしらと口を閉ざしたまま耳を傾けていると、目が合った仲の良い級友がにっこりと笑う。
「清流庵ですわ。千鶴様も宜しければご一緒致しません?私今日はお使いであちらに参りますので」
「え、ええ」
お誘いを受けて流されるように頷いて放課後に連れて行かれたのは一軒の和菓子屋。
引き戸を引けば正面に見える菓子の陳列台、店内には客が飲食ができるよう机が置かれていて、既に何組かの客が腰を下ろしていた。
級友曰くここは上生菓子が美味しくそこそこ名がある店らしい。
ただ随分と庶民の店然としていて、ここが?と言うのが千鶴の率直な感想だった。
それが表情に出ていたのか、
「私の家では茶会のお菓子をこちらにお願いしています」
「えっ」
口を突いて出た驚きに級友が微笑った。
と、そこに、
「母ちゃんただいまー!」
店の裏口から表まで砲弾のように勢いのある声が突き抜ける。
あんたうるっさいよ!ぺちーんと軽く頭を叩く音、いってえ!と少年と母親とのやりとりが聞こえた途端、客たちが笑い声を上げて千鶴の体を跳ねさせた。
品がない。粗野に過ぎる。
古びた木製の机は所々傷や削れがあるし、椅子も同じ調子で、直接座って汚れはしないかハンケチを敷くべきかと始めは腰掛ける事さえ躊躇ったのだ。
そしてこの騒々しさ。
周囲と一緒になってくすくすと口元を押さえて笑っている級友の手前何も言わなかったけれど、眉も顰めたくなる。
(付いて来るのではなかった)
くらくらしながら後悔し始めた千鶴は、とある実業家の箱入り娘だった。
「おーおかえり颯太くん。今日は何悪い事したの」
「俺何もしてない!見てただろ!」
聞こえてきた笑い声に店の奥、陳列台の向こうに注目すれば背の高いすらりとした洋服に長く明るい色の髪。
「千鶴様、あの方ですわ」
(変わった出で立ち。海外の方かしら)
袖を引かれての耳打ちに小さく頷いて視線を留めていれば、男の子の後ろには三つか四つ程の女の子がいて何か言いたげにもじもじしている。
「今日はひとりできたの?お兄ちゃんは?」
「俺を見掛けて一緒に店に行くって聞かなかった。後で送ってく」
「そっかそっか。じゃあ何か用事があったのかな」
片膝を突くようにしゃがんで幼女の顔を覗き込めば、あげる!と花を数輪差し出されていた。
路傍の花だ。幼いとはいえあんなものを人に渡すなんてと千鶴が眉を顰めた時。
「くれるの?」
「あのね、あのね、きれいにさいてたのみつけたから」
「うん」
「あげたかったの、おうじさまに」
「ふふ、ありがとう」
彼の人が柔らかく笑ってお礼を言った。
照れて俯く女の子、その様子に更に笑みを深くするその人に視線が釘付けになる。
伸ばされた手が幼女の頭を軽く撫でつけ片方の耳に髪を掛ける。渡された内一輪の茎を短く摘むと、それを幼女の小さな耳上に飾るように挿し込んだ。
「こっちを向いてお姫様」
中々顔を上げようとしない女の子の顎を右の人差し指で掬うと、顔を少し傾けて猫のように目を細めて口を開いた。
「かわいいな」
ぼんっと音が出そうな勢いで真っ赤になった子は目の前の人に抱き着いて何やらこしょこしょと訴えている。
笑顔でぽんぽんと小さな背中を叩きながら頷くと、その人はそのまま女の子を抱えて立ち上がった。
「八重さん、颯太くんと一緒に家まで送ってきます」
はいよーと間延びした答えと共に裏の勝手口から出て行く音が聞こえる。
「……」
「……」
千鶴と級友は咄嗟に顔を見合わせた。
お互い指を揃えた両手で口元を覆っていて幼女に負けず劣らず顔が赤い。
ちらちらと周りを見ればその場に居合わせた女性は殆ど同じ反応をしていた。
「あれは俺たちがしてもサマになんねーなあ」
誰かの呟きに他の男性客が弾けるように笑い出す。
「近所の女の子の初恋軒並み攫ってる子のマネがあんた達にできる訳ないでしょうが」
そうあしらいながら客に茶を出しに来た女将が級友を見つけて、あらと眉を上げた。
「今日はお嬢様がお使い?準備できているので干菓子はすぐにお渡しできるけど、」
「はい、ここでお菓子を頂いてからで……今日は学校のお友達も一緒で、その、」
「あ、ふふ、分かった。すぐに帰ってくるから」
ちょっと待っててと、と注文したお菓子を運んできてくれてから暫く。
戻ってきたお目当ての人は女将さんに何かを言われたのか、すぐにふたりが座っている机にやって来てくれた。
「君たちも英語?」
椅子を引きながらどこが分からない?と気さくに聞かれて千鶴たちは戸惑った。
来店の目的は王子様の見物だったからそんなつもりは無かったので。
しかし促されてつい教科書を開き、ふたりして適当な個所を指で差した。
王子様はそれに目を滑らせると書いていいかなと一言置いて、鉛筆で薄く斜線と鉤括弧を入れていく。
「これで読んでみて」
軽く説明された後、言われた通りに読んでみれば文章の骨組みがとても分かり易くなっていた。
思わず顔を上げれば、目の前の人がふっと笑う。
「ちょっとしたコツがあるだけ」
そしてその人の隣に座った颯太という子の宿題を見ながら読解の練習に付き合ってくれて、一時間経つか経たないかの辺りでお開きになったのだけれど……
そこで困ってしまった。
ふたりにはこの時間の対価として渡せる持ち合わせが無かった。
それを言い出せば「謝礼?」とぽかんとされた挙句、
「ありがとう、その気持ちだけで充分。これでお礼もらってたら颯太くんも他の子も大変なことになるね」
この世の終わりみたいな顔でぽろっと短い鉛筆を落とした男の子に周囲の客が話一斉に笑い出す。
今度は自分たちがぽかんとする番だった。
その日の夜、千鶴はこの出来事を母にこっそりと打ち明けた。
送り迎えをしてくれる緑郎を先に返してまでして男性に会いに行くのは褒められた事ではない。
怒られるかなとは思ったけれど、級友もいたしその馴染みの店、周囲には沢山の目があったし、何より勉強を教えてもらった。それが一番の免罪符になった。
だから多分大丈夫だと思って。
正直な所は今日の興奮を、帰りの俥で級友ときゃあきゃあ言いながら反芻した出来事を、どうしても誰かに聞いて欲しかっただけ。
そして母は咎め立てする気配もなく「あら」とか「まあ」とか言いながら聞いてくれたから、千鶴は気付かなかったのだ。
(一人娘を誑かしたのはどこの男……)
たおやかな微笑の裏で真顔の母が青筋を立てていた事に。
♢
恋の芽はときめきや憧れである間に摘まなければ碌な事にならない。
世の中には知らないままでいた方が幸せである事は確かにある。
母はそう思う。
嫁ぎ先が決まったばかりの娘なのだから尚更だった。
翌日、母は店の大体の場所、腕の良い和菓子職人と日本語が達者な外国人がいるといった特徴を緑郎に伝えて麻布まで調べに行かせた。
そうしたら、だ。
「女です」
数日経って報告に来た青年の答えは予想外のものだった。
え、と聞き返せば「男ではありません」と重ねて言われ、「出で立ちから男だと思い込んでいる人間が多数いる」、そうで。
しかも緑郎が持ち帰った評判も予想に反して悪くなく、母は面食らってしまった。
その女は午後を少し回ってから夕方まで、忙しい時は店の手伝いをして、学校が引けた子供たちの宿題を見て、時々奥で何かの話を聞かせてやっている。
あの界隈での付き合いは和菓子屋の子供を助けたのが発端で、それが子供たちと当時の様子を見ていた大人たちからの信頼を得る切っ掛けになったようだった。子供たちの面倒を見始めてからは言わずもがな。
「客には若い女性が多いようですが」
「それは単に親切が喜ばれているだけです」
「親切」
はいと肯定した青年に暗にそれだけかと促せば、客の年齢や美醜に関係なく西洋の男がするように対応している様子。
本人は男の洋服姿、背は平均的な男よりも高く、明色の茶髪は下されていたり纏められていたり。
それに遠目から見ても小綺麗にしていて清潔感があったし、美貌とは言わないが容姿も決して悪くない。化粧っ気が全くといっていいほどなかったから、それが余計に性別への誤解を加速させている。
そして振る舞いが嫌味なく板についていて、上流階級をそこそこ見慣れた緑郎から見ても垢抜けしていた。
そんな人間が店に来る客に何の下心も持たず親切にしている。本当にそれだけだ。ただ親切なだけ。
だが女は嬉しいだろう。
あんな”男”にあんな風に平等に優しくされたら。
しかし近所の子供たち、特に女児たちは猫可愛がりしており、その些か現実離れした雰囲気を愛でたくてやって来る女性客も結構いるようだった。
その中に千鶴の同級生がいて、級友にそれを話し、話された級友が店に行って更にそれを級友に話し、……
「がいこくのおうじさまみたいね」
とある女児の言葉を耳にした女学生がそれを話して、ついに彼女たちの間で王子様と呼ばれる事になり、最終的に千鶴の所まで話が回って来ての先日だ。
流石に男を見に行くという行為を親に話しているお嬢様は、他にはいないようだったが。
「……はあ……それでは『誑かされた』は間違いですね。こちらの早とちりですか」
「はい、あちらはただ親切なだけです。お嬢様方が勝手に竹本綾之助のように思っているだけで」
「では千鶴たちは」
「…………品のあるドースル連ですね」
言い辛そうに、しかしはっきり言い切った緑郎に母は笑ってしまった。
演目の興が乗り切った時に「どうする!どうする!」と合いの手を入れ、時には太夫が乗った人力車を追いかけ回す青年たちに比べると、恐々近付いて教室できゃあきゃあ騒ぐ位。かわいいものだ。確かにまだ品はあるし、害がない。
「その方、身元は?どちらの国の方かしら」
「それが……」
それだけはいくら周辺を調べても判然とせず結局出てきたのは神隠しという言葉で、現在は海軍士官ふたりと暮らしているとの事。
「そうなの。その海軍さんに縁故ある方なのでしょうね」
首を傾げる所はあるけれど、海外渡航が多い職業なら外国人との出会いも多い。しかも海軍軍人が後ろ盾だというのならそこまで怪しむこともないのではないか。
日本名まで名乗って、随分日本に馴染んでいるようだし。
しかし若い男女の三人暮らし……風紀的にどうなのか。
「そこは恐らく問題ありません」
一番親しい清流庵の夫婦は彼らに嫌悪感なく寧ろ好意的、協力的で、忙しい時はひとり息子の世話まで頼んでいるし、あの界隈の親たちも彼女と子供たちの関係を喜んで受け入れていた。
子供を預けても大丈夫だと思われている辺り、彼らに性的ないかがわしさがないのが想像できる。
「つまり三人とも人としての信用がそれなりにあります」
ほうと安堵の息を吐くと、それなら大丈夫そうねと母は誰に聞かせるともなく呟いた。
「次に伺う時はお礼を持って行かせてちょうだい。勉強を見て頂いて無償というのはいけません。金銭は断られたそうですから、そうね……海外の方なら洋菓子か何か」
しかしその洋菓子すら断られるとは流石に思わなかったのだ。
ただ子供たちの圧に負けて彼女は渋々受け取りはしたものの、そのほぼ全てを子供に与えたと。
その上、だ。
千鶴が彼女に金銭感覚を窘められたと聞かされ、これは、と思った。
千鶴はかなり裕福な家庭で育ちそれなりに我儘が許されてきたし、周りもそれを許してきた。
悪い子では勿論ないが、……
いざ嫁ぎ先が決まると、良縁を喜ぶと同時に今になって我が儘に、世間知らずに育て過ぎたのではとか、このまま嫁がせて大丈夫なのかという不安が首を擡げて来たのだった。
相手もこちらと釣り合う家柄だから価値観に大差はないだろうが、世間と自分の位置を知っておくに越したことはないのも確か。
「叱られて千鶴はどうでした」
聞けば反感を表す事もなく素直に耳を傾けていたというから、これは益々当たりだと思った。
清流庵に行ってもいい。
但し人の目もあるから週に一度か二度決められた時間だけ、そして口外厳禁という条件を付けて母は放課後の寄り道を許した。
娘は訪問の中でその人の性別を知り、世間話をしたり周囲に対する態度を指摘されたりもしていたようだし、親の目から見てもはっきりと悪くない影響を受けていて。
「屋敷に来てもらえないかしら」
母がそう言い出すまでに時間はかからず、すぐ父にまで話が行って、それまでの経緯と母の意見、緑郎が目の当たりにした事や耳にした事を総合した上で、ついに父までが週に何度かでも家庭教師として迎えられないかと言い出したのだった。
しかし。
「如月さんを家にお誘いしたのですが、断られてしまいました」
夕食後、洋間での団欒で肩を落とす千鶴に父が何があったかを質せば、我が家への来訪をきっぱりと断られたそうで。
どう話されたのかを聞く程に彼女にとっては同居している海軍士官が第一である事が分かるばかりで。
千鶴の希望はおろか、まだ言い出してもいない両親の希望も叶えられそうにはなかった。
♢
「如月さんは良い人だね」
父の言葉が意外であったのか、千鶴は眉をハの字に下げ不機嫌な顔で視線を逸らす。
思い通りにならない事に拗ねているのが丸分かりだったが、そんなものはどこ吹く風で父は機嫌良く笑った。
ビロード張りの椅子の肘掛けに軽く凭れて紫煙を燻らせると「千鶴」と呼び掛ける。
「彼女がお前の話を断ったのは一緒に住む男が大事だからだ。彼らが第一」
「……はい」
「しかしお前の心配もしてくれているよ」
え、と零しながら上げた顔、きょとんとした瞳に父の顔が映る。
「母様と同じだ。頻繁にやって来る嫁入り前の娘に変な噂が立たないかと心配もしている。今までの話を聞いていると如月さんはそれ位の配慮は出来る人だ」
口止めだって同じ理由だろう。
まずは同居人の事だが、千鶴自身が不用意に自分に不利になる話の種を蒔かないように。
つまり彼女の行動は同居人と千鶴、両方向に向いている。
「………」
「そこまでは分からなかったか」
こくんと頷いた娘に笑い掛けると、
「良い人だね」
父は机を挟んで向かいに座る千鶴にぐっと上体を傾けた。
「千鶴、如月さんから相手の立場を考えて気遣う優しさと思慮深さを学びなさい。それはこれからきっとお前を助けてくれる」
屋敷ではお嬢様として傅かれる立場なので、そういった事は中々学べない。
「千鶴も如月さんの事を考えてごらん。彼女はお前と会わない方が良いと思っているのにお前に付き合ってくれている。そんな如月さんに千鶴はどうすればいいと思う」
「……今以上のお願いを強要しない……?」
「うん、そうだね。これからも会いたいのなら彼女の希望に沿う事が大事だ。彼女が本当に困る事をすると、もう二度と会ってくれなくなるよ」
父の言葉が嘘ではないと千鶴にはよく分かる。なぜならもう既にそう言われているので。
両手で包んでいたカップを机上のソーサーに置いて神妙に頷いた千鶴に父も目を細めて頷いた。
「緑郎から聞いたが、菓子代も突っ返されたって?」
僅かであっても貸し借りはしない。
それは対等に付き合い、何かあれば簡単に関係を切れるようにという相手方の意思表示。
そして現状ではこちらの借りしかない。
これは愉快だ。そう思って父は身体を揺すって笑った。
上流階級にそんな態度が取れる人間は中々貴重だ。
「それで緑郎、士官の名は分かったか」
呼ばれて部屋の隅で控えていた執事の息子に声を掛ける。
同居人が軍人である事は分かっても、氏名を割り出すには思いの外時間が掛かっていた。
借家には表札が無かった上以前何かの騒ぎがあったらしく、彼女に関して聞き回りをするのは怪しまれて中々骨が折れる仕事だった。和菓子屋を始めとする周囲の人間が彼女をそれとなく庇っている。
ただ、ひとりは分かった。
「広瀬武夫海軍大尉です。もう一方はその御同僚かと」
「広瀬大尉?海軍の、……もしかして広瀬くんか」
「御存知でして?」
「嘉納先生のお弟子さんだよ」
驚いて口を挟んだ母に父は頷いた。
教育者・柔道家として上流階級の子弟を多数抱える嘉納治五郎は各界に知人が多く、父もそのひとり。
講道館に立ち寄った時、その嘉納から広瀬を紹介された事がある。数年前だ。
とは言え偶々その場に居合わせ軽い世間話をしたという程度。しかし悪い印象は受けなかった。
小柄な嘉納が大男の背を叩きながら真面目一直線のいい青年だと笑っていたな、と覚えている位で。
えらく元気な、勢いのある若者だったから記憶には残っている。
「緑郎、麻布の家は人の出入りはあるのか」
「近所の子供と、御同僚らしき方がひとりふたり、ちらほら見えるだけです」
「如月さんを知っている同僚はいるんだな」
そこで父は黙り込んだ。
口内で遊ばせていた煙をふーっと天に向かって吐き出し、葉巻を灰皿に預けると指の先程の灰がぽとりと落ちる。
上手く吸えたなときれいに落ちた塊に視点を据えて、暫し沈思。
海軍は士官に玄人と遊ぶ事は推奨しても素人女とは許さない。馘首案件に近いと聞いた覚えがある。
前途ある士官が未婚(だろう)の女を家に引き入れるリスクは大きい。
(それなのに家に入れざるを得なかった……)
そこで聞いた時に思わず吹き出した言葉を思い出した。
―― 神隠し
まさかそんなと千鶴も妻も緑郎も笑っていたのだ。
聞いた時は父も笑ったが、稀に耳にする話でもあるのは事実。
神隠しが本当で彼女に帰る場所が無かったのなら、ふたりの士官は彼女を受け入れるしか仕様が無かったのかもしれない。
(広瀬くん正義感が強そうな男だったしなあ。見て見ぬふりができなかったか)
そして信用できる同僚を何人か巻き込んでいる。
同期だな。
海軍の同期は兄弟よりも仲が良いと言うから、間違ってはいない筈だ。
転勤も家を空ける事も多い軍人ふたりでは心許なかったか。気持ちは分かる。
それに同期に助力を頼んでいる所から、三人が男女関係ではないのも想像がつく。
少なくとも信頼する人間に話せないような関係ではない、疚しい関係ではないという事だ。
(なんだ、随分と大事に守ってるんじゃないか)
くすりと落ちた微笑に全員が首を傾げたので、何でもないと答えたのだけれど。
(そりゃあ如月さんだって同居人が一等大事な筈だ)
我が家への訪問の拒否、娘との面会を躊躇う事、娘への口止め。
そのいずれもが海軍士官ふたりを守る為だ。
至極当然の線引き、正しい判断だ。
実のところ娘への心配は彼らのついでだろうが、それはそれでいい。
当たり前だ。そこは親の領分である。
学校での与太話程度ならいざ知らず、あちこちで自分の話をされ詮索される切欠になるのは、彼女にとっては確かにまずい。
相手がどこと繋がっているか分からない資産階級の娘であるのは、より悪い。
現に娘にピアノを教えていた夫人の夫は海軍士官だ。もしかしたら広瀬たちの上司かもしれない。
……確かにこれは、彼らにとっては大分まずい。
怖い筈だ。
如月さつきは千鶴とあまり関わりたくないだろう。
千鶴の振る舞いひとつで恩人の人生が左右される可能性があるのだから。
(それなのに彼女はまだ娘と会ってくれている。この事をもっと重大に受け止めるべきだ)
灰皿から視線を上げると父は三人の顔を見渡して口を開いた。
「如月さんの話は口外してはならない。話をする時は家で。この四人の中だけとする」
「え?」
「彼女についての軽口は、彼女とふたりの士官を社会的に殺す事になる。特に千鶴の言動でそうなりかねない」
「ええっ」
千鶴は驚きで顔色を変えた。
まさかそんな大きな話になるとは思っていなかったのだろう。仕方ないと言えば仕方ない。
「海軍は士官の身の回りに厳しい所があってね、どんな事情であれ彼らの同居を良しとしない人はいる。悪くすれば出世に響く。それにあまりに士官の品位を落とす事をすれば辞めさせられる事もある」
だから彼女は彼女の周辺の事をあまり人に知られたくない。
だから付き合いも狭い範囲に絞っている。
近所の人間と仲良くしても、上流階級と深く関わるのは避けたい筈だ。
人脈が恐ろしい。話がどこにどう飛んでいくのか分からない。
「それなのに如月さん自身が今、令嬢たちの半ば見世物になっている」
「……」
「その上で如月さんは千鶴と会ってくれている。それは知っておくべきだ」
「そうね……そう、でしょうね。私も千鶴を優先してあちらのご都合は考えていなかったわ。千鶴は学校で如月さんのお話はするの?」
母に尋ねられ、困惑したまま千鶴は首を左右した。
級友たちの話題には出ても、顔を見て笑ってくれたとかそんな域を出ないもの。
千鶴の状況が知れると話がややこしくなりそうと感じて誰にも告げていなかったらしい。
「王子様の特別扱いはきっと妬みの対象になりますから……」
それにさつきとも母とも関係を口外しないと約束しているから、と。
父母は娘の身を守る為に発揮した口の固さに安堵した。
「なら、そのままでいましょう」
「はい」
「千鶴は今のままでいい。ただ少し気を付けなさい」
「分かりました」
「向こうの事情を知っても尚、私たちの都合に彼女を付き会わせてようとしているのだから、せめて彼女が守ろうとしているものは私たちも守らなければ。それが筋だと父様は思う」
分かるね、と念を押されて千鶴はしっかりと頷いた。
「それに何か困った事がありそうだったら助けてあげよう」
「はい」
「しかし父様も会ってみたいなあ……長身で男装が様になって格好良いって?すごいね。それでピアノも弾くのか」
確かにそれは見てみたい。
会った事はなくても、今まで聞いた話から若い女の子が騒ぐ気持ちは容易に分かる。
「あの、ピアノは断られたのですが……お父様はギターという楽器を御存知ですか?」
「いいや、知らないな」
「如月さんピアノよりギターをされていたそうで、もし小さいものなら、お店に持って行けるのなら、弾いて下さらないかなって」
「探してみようか」
「いいんですか!?」
「ただどんな楽器かも分からないし、持って行けるものであってもまずは如月さんが良いと言ってからだよ」
「分かりました!」
双眸を煌めかせた千鶴に父と母は顔を見合わせて笑った。
これだって娘を甘やかしている事に変わりはない。
しかし自分とは立場が違う相手への思いやりやいたわりを持つ事、関わり方を学ぶよすがになるのなら安いものだ。
本当にこれはきっと婚家で娘を助けるだろう。
娘をやや我が儘に育てた自分たちの躾の悪さのツケを無関係の他人に勝手に委ねるのは申し訳ないけれど。
その代わり何かあったら本当に彼女の力になる積りだ。
(とりあえずはギターか……)
横浜辺りで探せばきっと見つかるだろう。
そう思いながら父はもう一度葉巻に手を伸ばした。
「ん?ここに持ってきた楽器?私が弾けるものだったら別にいいけど……」
ギターという名称を千鶴が入れ忘れて伝えて、いきなり現物を持って清流庵を訪れ滅茶苦茶に驚かれるのはまた後日の話。
selfish:我が儘でごめんなさい 2022070220211209
memo&res;(20220702)に今回のお話について書いてます。興味ある方はどうぞ