12:インパーフェクト






ばたばたと風に布が遊ばれる音。
それに紛れて話し声や大きな笑声が聞こえ始めると、桐野が病院の傍に来ているのだと分かる。
そこから伝わる空気が、離れていても明らかに変わるのが分かるから。

そして暫くすると見事な筆跡で書かれた一旗が垣の向こうでゆらゆらと移動するのが見えるのだ。
桐野は幸吉に旗を掲げさせて日に二度三度、城山を歩く。
朝その様子を目にすると、ああ今日も一日が始まったな、と思う。



要之助は病院で日々を過ごしていたが、桐野には毎日会った。
特別な事がない限りは必ず桐野に挨拶に行け、共に過ごす時間を作れと、夜になると半ば強制的に解放されたからだ。

「汝が此処に来た目的は、病院の手伝い(かせ)か?違うじゃろ。…ふん、気になる?ほんなら傍におる別府どんの様子ば見て俺に報告しやい」

さも当然かのように、そう言い渡してくる医者の存在はありがたかった。
しかし桐野と顔を合わせてはいても、特別な話をしたり聞いたりする訳では無かった。
本当に吉田にいた頃と変わらない。
ただ以前とは違い物理的に付かず離れずの位置にいる事、桐野と同等の位置にいる人間と接触する機会に恵まれた事は、要之助が持つ桐野の印象を少しだけ変えた。

(万華鏡…)

そうだ。
まるで万華鏡か何かの様だと思う。
光の通し具合によって浮かぶ色が変わり、動かすほどに浮かぶ模様が変わる。印象が変わる。
見る角度によって知らない姿が見えてくる。
今、目の前で息づいている桐野には正しくそうした形容が当て嵌まる様な気がした。

一年と少し前、桐野に触れる事で彼の存在は「頭の中の憧れ」から、「手の触れられる憧れ」に切り替わった。
手を触れて感じた桐野は、カッコ良くて強い。優しくて、強い。
そんな存在だった。
だが最近ではその「憧れ」がまた少しだけ切り替わったのだった。



桐野さあでも怒るんですね、と別府晋介の包帯を換えながら話した事がある。
すると別府はびっくりした顔で、

「汝なぁ…そりゃ何か勘違いしちょりゃせんか」
「え?」
「…(あにょ)も”人間”ぞ」
「そ、そうでごわんすか」
要之助は何を言われているか分からず、咄嗟にそう答えた。
すると別府は暫くその顔を見つめた後、
「そうじゃろ」
何を言っているのか、と呆れた様子で返してきたのだった。

というのも、要之助は城山に入って初めて怒気を帯びた桐野の姿を見たのだった。
驚いた。
大きな声で笑う姿は見ても、大声を上げて怒る姿は今まで見たことが無かったのだから。
近付けばビリッと電流が流れそうな雰囲気に戸惑い、その上接し方が分からず、

「こ、幸吉どん…」
どうすれば…と尋ねると、
「あー…あれは近年稀に見る機嫌の悪さやねぇ」
幸吉は慣れているのか特に気にするでもなく、「いつも通りでええよ」と言葉を継いだ。

桐野不機嫌の原因は、何日か前に浮上した西郷大将の助命嘆願の話だった。
時が時、事が事、内容が内容だっただけに、中々腹立ちが収まらないのか、暫時桐野の機嫌は恐ろしく悪かったのだった。

桐野にも喜怒哀楽はある。
それは要之助も頭の中では分かっているのだ。
だが実際にそうした姿、感情の大きな振幅を見せる桐野に、意外な思いがしたのも確かだ。
「兄も人間だ」と言う別府の言葉は考えてみれば当たり前のことなのだが…

ふっとある思考が頭をよぎった。
父や兄と同じ人間だと思いながら、心のどこかで、桐野はそうした負の感情とは別の所にいると思っている自分がいる。
これだけ近くで顔を見ながら過ごしているにも関わらず、だ。
(何故だろう)
考え込んでしまった要之助に、別府は話し掛けた。

「汝は自分の兄を完璧じゃち思うか?」
「え?…思いもはん」
「ないごてな」
「何故って」
「俺には汝の兄さあは完璧に見えっど」
「兄には、ヨカ所は沢山ありもすが…完璧ではなかち思いもす」
悪い所も沢山…と、もごもご口籠った少年に、別府は頷いた。
「桐野の兄は俺にとっては本当の兄みたいなもんじゃ。知っちょるな」
「ハイ」
「…俺も桐野の兄を完璧じゃとは思うちょらんが……分かっか?」
「あ」

(そういえば…)

父や年の離れた兄。
幼い頃の自分にとって、ふたりは”完全無欠”の存在だった。
自分から見ると、ふたりには出来ない事がないのだろうと思う程に何でも出来たし、尋ねる事は何でも知っていた。
その背中は大きくて、圧倒的な力量の差があったように思う。

だがそれは長じるに従い間違っていること、完全無欠では無い事、が分かってきたのだった。
自分が少しずつ成長することで、父と兄を理解できる距離にまで近付いていったからだろう。
距離が近付く事で、良くも悪くも本当の姿が見えてくるからだろう。

別府にとっての桐野の存在も、
「同じでごわすか」
「んー…同じじゃが、ちょっと違うな」
それでも別府は頷いてくれた。

「汝からすっと桐野の兄は高い所におるんじゃろう? 手も届かん所におるから姿がよく見えん、目を凝らして見ちょっても仔細が分からん。そう勝手に思うちょる。そいでな、汝の場合は…汝と”実際の桐野利秋”との間に、汝が思う”完璧な桐野利秋” が挟まっちょるように思う」

「…吉田で普段の兄の美点(よかところ)ばかり見てきたからじゃな、きっと」
完璧な桐野像以外を持つ機会が無かったのだろう。


そう言って別府は目を細めて微笑ったが、
「けんど戦じゃそうはいかん。怒る事もある、間違う事もあれば、泣く事も、後悔する事も山ほどある。 …いや、こいは戦だけの話でんなかな。泣いたり笑ったり怒ったり、皆その繰り返しの中で生きちょる。 俺も、汝も、」

桐野の兄も、その中で生きているひとりの人間だとは思わないか?

ぼろり。
目の鱗が落ちる音が聞こえた。

(人間…)

別府の言う通りかもしれない。
自分の中には「こうあるべきだ」、「こうあって欲しい」という桐野像がまずある気がする。
だから赫怒する桐野に戸惑う。
新たに”見えてくる桐野利秋”に戸惑うのは、別府のいう“完璧な桐野利秋像“のせいかもしれなかった。
桐野利秋を近くで見ていながら、もっと近付きたいと思う。
それなのに近付きたいと思えば思うほど、却って桐野から遠ざかっていた気がする。

「…そっか…」

(近付きすぎて、余計に分からんくなったかな)
ぽろり、とまた何かが落ちる音。
気持ちが落ち着くべき所に落ちた、そんな音だった。



別府と言葉を交わしたのはほんの四半時程であったのに、引っかかるものが分かってしまえば納得するのは一瞬だった。
桐野に会いたい。
会って桐野という男の、もう少しだけ奥底に触れてみたい。
そう思ってここまで来た。
その答えが目の前に見えた気がする。
(桐野さあの奥にあるんは、自分を偽らずに懸命に生きちょるひとりの人間の姿じゃ)
今まで感じていた何かしらの思いがすっと軽くなったような気がした。




「おはよう、…どしたん?気分でも悪い?」

突然頭上から掛けられた幸吉の言葉にはっと顔を上げる。
ぼんやりとしている間に、桐野らは既に病院にまでやって来ていた。

「うんにゃ〜なんでんありもはん!」
え〜何や気持ち悪いな〜等と言いながら笑うふたりに、
「楽しそうじゃな」

他部屋に顔を見せ終わったのか、そこにひょっこり桐野が顔を出した。
日に焼けた顔から白い歯がこぼれる。
それを見た幸吉が「あ、お茶入れてきます」とすっと席を立った。


桐野の兄は自分が求める「完全」であろうとして必死なのだと思う。分かりにくいけれど。

あの時、別府は諭すような口ぶりで少年にそう言った。
飄々としているように見えて、しかし必死に、桐野も何かに向かって手を伸ばしているのだと。

(…触れられる)
 …所に桐野が、いる。

そう思った。

手を伸ばす。
胡座をかいた上に置かれていた桐野の拳に触れた。

「……」
「……」

ぶつかった桐野の瞳には少し驚きがあった。
しかしその奥を探るように見つめてくる要之助に対し、桐野は咎めも茶化しもしなかった。
桐野は眼を逸らさない。
覗きこんでいると、その瞳の色が次第に深さを増していくようだった。

不思議だ。
別府に皆と同じ様に生きている人間だと諭されても、自分でそれを納得してもなお、この人はまだ大きな憧れのままでいる。
どう認識しても、そこだけは変わりようがなかった。

完全でもなく、完璧でもない。
ただ自分が思う到達点に届く様に手を伸ばしている。
ただ自分が思う生き方に沿って生きようとしている。
恐らく要之助が今まで見てきた大人よりも数段力強く。

きらきらと…
どんな境遇に身を置いても、桐野が錆びない理由はきっとそこにある。
そこに憧れる。
その姿がたまらなく好きだ。

重ねた手に少し力を入れると、桐野はそれに応えるようにもう片方の手を重ねてきた。
ぎゅっと。

「な、…」
「はい」
「…俺に稚児趣味はナカぞ」
「…っなッ!」

瞬間、ぼっと顔が朱に染まった。バッと手を引き抜く。

(ぎゃー!ぎゃーー!!ぎゃーーー!!!)

我に返りわたわたと慌てる要之助を見て、桐野は「冗談だ」とひとしきり笑った。
「まあ…あんまり深く考えん事じゃ」

笑いながら、言葉を繋げる。

「ここにおる人間が汝に教えてやれる事は僅かじゃろう。第一そげな時間も余裕もなかな。じゃっどんしっかり見ちょけ、今、ここにおる人間の姿を。こいだけは学問からは得られんもんじゃ。頭で考え過ぎるな。目に見えちょるもんをそのまま感じた方がヨカ時もあっど」

それは城山にいる隼人全体の事を指しているようでもあり、桐野自身の事を指しているようでもあった。
(…両方のこと、かな)
正座した膝の上に置かれた、固く握りこまれた要之助の手を、桐野は拾い上げて広げた。
その手を自身の左胸に押し当てる。

「心の臓、動いちょるか?」
「え?はぁ…」
「そりゃ良かった」
「…あ、の」
「汝と同じように、普通に生きちょる人間じゃろ?」

初めから何もかもができていた訳ではない。
今でも何かに向かって手を伸ばし、努力を続けている、要之助と同じような”普通”の人間だろうと。
何も特別に思う事はないし、自ら遠ざかることもない。

要之助は小さく頷くことしかできなかった。
桐野は別府から話を聞いていたのだろう。
「な?」
柔らかな笑いを含んだ桐野の声に、鼻の奥がツーンとする。
「…はい…」
手を引いてくれる周囲の温かさと何かの終末を予感させるやるせなさに、なぜだか無性に泣きたくなった。



「ちょっとええ…どないしはりましたん…」

幸吉が戻ってくるなり驚いたように言うと、桐野が笑った。

「男の事情じゃ」
「なんですかソレ。なんや私が男やないみたいですやん」
「ははは」
「ははは、やないですよ」
「あっは…、あは、あははは」
要之助も笑った。

笑う桐野と不貞腐れて茶の用意をする幸吉と。
差し込む日差しの中に共に身を置いて、桐野に感じ続けてきた”きらきら”の理由が分かった気がした。



20201121改訂再掲/080628(3/15-6/09)
インパーフェクト。不完全。四半時は30分です。◆
色々と突っ込み所満載ですが、桐野は努力の人だと思います。すごく書きたい話でした。書いては消し書いては消しで。…書き切れてるかどうか…♪B'z”パーフェクトライフ”。



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