13:dearly love to.






うるさい。
桐野がそう感じるのは間断なく打ち込まれる敵方の砲弾のせいでも、人間が密集している故の雑然さからでもなかった。
うるさいと言うよりも、”煩い”という方が近い。
それはここにきて出てきた…いや、出るべくして出てきた西郷大将の助命嘆願の為だった。
周囲が気の置けない人間のみになると、桐野の口からは知らず小さな溜息が落ちる。
ここまで来て、事ここに至っての嘆願は言い替えれば体のいい命乞いだ。

西郷を殺したくない。

その気持ちは分かる。
だがその感情と助命嘆願は全く次元の違う、別の話になる。
己の身を西郷の位置に置き換えてみれば、どれ程鈍い人間でも分かる筈だ。
配下の人間に歎願され、それでひとり生き延びられるのか?
生き延びられたとしても、その後は…?
想像するのは容易だ。
とても生きてはいられまい。
その後は単に息を吸って吐くという、本当にただ”生きている”だけになるのではないか。

(…………)

その恥辱 ――……
己の生命を鴻毛の如く(たなごころ)に乗せて激動を生き抜いてきた男に、これ以上の恥辱があるのだろうか。

西郷の助命を願う人間が、それだけのことに何故思い至らないのか。
そう思うと言い知れない不快感が桐野の身を包む。
先ほどから纏わりつく”煩さ”の原因はそこにあった。

どんっと、放たれた砲弾で空が震える。
ぱらぱらと落ちた洞の土が手にしていた湯呑に落ちたのを見て、桐野は白湯を飲む気を失った。
「幸吉、見回りにでん行っか」
そう言って徐ろに立ち上がる。

今日も一日が始まる。


日課として続けている哨戒線の見廻りも、もう何度目か分からない。
(これが隼人か…)
歩きながら、希望と若干の失望が複雑に入り混じるのを桐野は禁じえなかった。

ここにいる人間にはまだ闘志がある。そう思う気持ちと。
半年前の陣容と今現在の陣容の在り様とを見比べて、少しく暗然とする気持ちと。

桐野自身としては形勢は不利だと思えど、まだ決して諦めてはいない。
まだ戦える。
どうなろうと、最期まで力尽きるまで戦う。

しかし他の人間は今の状況に対し、どういった思いを抱いているのか。
桐野がどう思おうが確かな現実は、自軍の将来の選択肢が酷く限られてきているということ。

それを考えた時、西郷だけは助けたいと多数の心が動くのも理解できる。
助命の動きが出てくる心情を、桐野は否定しない。
何故ならば西郷は城山ここにいる誰にとっても、― 桐野にとっても、愛してやまぬ大徳なのだ。

愛しているからこそ、生を望む。
生きて国のために何事かを為して欲しいと。

愛しているからこそ、生を棄てることを望む。
生を棄てて後世に何事かを示して欲しいと。

そこには言葉では到底表現できそうもない敬愛が流れている。
だが同じ感情でありながら、見ている方向が違うのだ。
桐野にとっては西郷の助命を乞うという一義が愚かしく、理解し難い上、許せない。
それ故数日前の助命嘆願の発議で、西郷が、
「この戦でどれだけの人間が死んだのか」
一言漏らしたという言葉を聞いて、桐野は酷く安心したのだ。
それだけで西郷の心が奈辺にあるかが判る。

ただ…――
(……面倒だ)

助命嘆願の動きの底にあるものも、理屈ではない。
西郷隆盛は助けたいという『感情』だ。
(だからこそ、面倒だ)
感情から事が発しているだけに、同じ動きが出てくる可能性がある。

「先生大丈夫でっか、ちょい顔色が」
悪おす、と周囲に聞こえないよう気を遣いながら、幸吉が袖を引いた。
「平気じゃ」
「でも、」
「構うな」
「…はい」
とはいうものの、体の芯に気だるさがあるのが分かる。時々だが少しだけ意識が朦朧とする。
(慣れん事ばあれこれ考えちょるからか)
似合わない気疲れの中にいるせいで知恵熱でも出たかと笑ったが、

「腸カタルでごわんど」
熱が出るのでせめて今日明日位は大人しくしていてくだされ。

その医者の言葉に、むっつりと怒り顔をした幸吉が無言で寝床の用意をした。



(…疲れた…)

布団に身を横たえて、四肢を伸ばす。
ぱきん、と関節が鳴る。ぐっと身をよじると、ぽきぼきと背骨が鳴った。気持ちいい。
今全てから解放されて眠ってしまえば、もっと気持ちいいだろう。
そう思いながら体を伸ばしついでに、天井に左手を伸ばした。
「……」
そう言えば何時のことだったか、前にも中指の無い手を眺めた事があった。

(ああ、この戦が始まる直前だ)

あの時の手は、開墾作業で爪の中迄土が入った泥だらけの農人の手だった。
今は治りきらない怪我が盛り上がり、或いは抉れた、傷だらけで血まみれで、何ともいびつな手だ。

しかし桐野はそんな今の手にも昔の手にも、厭わしさを感じた事は一度も無かった。
泥だらけでも、傷だらけでも、血まみれでも、桐野にとってこの手は誇りだ。

(生きている)

そうだ。
この手は、生きているという証だと思う。

突き詰めて考えると生命そのもの、…というのは、大袈裟かもしれない。
真面目に考える己が可笑しくて、つい笑ってしまう。
生きている、などと、改めてそんな事を意識するのはどれ程久しぶりなのだろう。
従弟から話を聞き、要之助に手を握られた時から、ふとそんな事を思うようになった。



辺見からの連絡で、あれの兄が蒲生で雷撃隊を離れた事を知った。
耳にした道之進の怪我の状態は心配ではあったが、実方の実家に向かったということにはやはり安心した。
あの友人なら、まず間違いなく辿り着けるだろう。
生き延びる人間を次世代の為に増やしておきたいというのと、要之助の元に兄を返してやれる、という思いと。

控え目なくせに、不躾な程真っ直ぐに視線をぶつけてきた少年。
不安定と危なっかしさで包んだ好奇心を着て歩いているような要之助を、桐野は好きだった。
あんな風に懐に飛び込んでくる十代が今までいたか?
遠慮がちでも、桐野利秋の腹の底まで見せろと体で伝えてくる十代が。
それを思うと桐野の口端は自然と上がる。

初めて引き会わされた時は、年の割には随分と幼い少年だと感じたものだ。
しかし彼の兄がそれを無理に矯めようとせず、何くれとなく手を引き背を押していた理由、今は桐野にもそれが分かる。

純粋な素直さを無理に型に嵌めて矯めれば折れる。
だが上手く手を添えて助けてやれば、この子は伸びると感じるのだ。

接すればそれが分かるから、周囲は皆ほんの少しだけ要之助の手を引く。
とんっと一歩進めるだけの力で、背中を押す。
そこに慈愛と優しさを込めて。

そんな少年にはまだ少なくとも一年か二年、傍で手を添えてやれる人間が必要だと考えた時、道之進の帰郷は桐野個人の感想としては酷く喜ばしいものだったのだ。

だから幸吉に引きずられるように連れてこられた要之助を見た時は、正直言うと驚いた。
どうやってここまで来たのか。…何故、来たのか。
だが幸吉に促され、バツ悪そうに目の前で膝を揃えた要之助を見ると、ただ温暖な微笑しか洩れなかった。
理由は、聞かなくても分かる気がした。
その上渡された友人の手紙に書かれていたのは、

<この子はお前に会いたくて来たのだよ>

「………」
たった一言。
「…あっはははは!そうか、そいで、ここまで来たか」

――― 会いたくて。
会いたくて来た。

一年程前に聞いた言葉、そのままだった。


今思い出しても、やはり口の端が上がる。
そして若干のいらつきや心のざわつきが少し凪ぐのが分かる。

戦場まで飛び込んできておいて、その目的が戦う事ではない少年。
このご時世に人を斬りつけたこともない、斬りつける為の刀を持ったことのない、桐野から見ればまだ年端もいかない子供だ。

だが要之助がその場にいて、少し言葉を交わすだけで殺伐とした戦場の空気が少し和らぐのが分かる。
戦の最中という環境にも、与えられた仕事にも、慣れないからたどたどしく、懸命だから微笑ましい。
それにつられて周囲には笑貌が溢れる。
そして力になってやろう、そう思う。

不思議な話だ。
恐らく多くの人間が同じことを感じている。

(城山まで来れたんはその為か)

だが、手を貸し助けているように見えて…
己が思うよりも、随分と要之助には助けられているのだと思った。
幸吉も、別府も、要之助が働いている病院の人間も、目に見えない所でその存在には随分と助けられている筈だ。

(実方に帰したい)

城山から下ろしたい。
怪我もさせず、もちろん命を損なうこともなく。
ここではないどこかに、加納要之助を必要とする場所が必ずある筈だ。
そしてそれは、薩軍に参加していた伊地知伝次や福田正治といった少年達に対しても抱いている思いであった。


桐野はまだ、溌溂と戦う事を止めない。
それは戦機を窺うとか戦況云々の問題ではなく、桐野利秋個人の問題だと言える。
戦争の行く末。
それは確かに大切なことだ。
ただ、それと同等に一個人の晩節の在り方も大切なことだと思える。
敗色が強く漂っている今だからこそ余計に。

だから桐野は戦う事を止めない。戦場に颯爽と立つ姿を変えない。
笑いながら苦しみながら戦い続ける。
その末に何が待ち受けていたとしても、よく生きた、と笑える。
後悔はしない。
これが桐野利秋だと、桐野利秋の生き方だと声高に叫べるような生の在り方を、桐野は変えない。
今更変えようがない。

だが少年たちは違う。
彼らはまだ十代だ。
望めば違う未来を得られる、次世代を担う大切な郷土の宝だ。
彼らがどう思っていようと、大人が始めた戦で傷つけ、命を捧げさせていいという道理はないと桐野は思う。
機を見て諭すか、それとも他に目的を与えて山から抜け出させるか。
どちらにしろ、今の状況から引き離したい。

(さ、如何(いけん)したもんか、な…)


愛すればこそ、生を望む。
生きてこれが自分だと叫べるような何者かになって欲しいと。


どんっとまたひとつ空が震える。
それを合図に、瞼を落とした。


20201121改訂再掲/080703(6/17-6/20)
ちょっとメモ
「dearly love to〜」で、〜することを心から望む/強く望むとかそういった意味。
◆色々異論が出そうな桐野ですな…しかし愛しているからこそって、改めて書くと凄い言葉ですね。解説がいるのがどうよという感じですが、愛情の形にも色々あるかなと思いまして。少年兵達に対しては個人に対してというより、彼らひと括りにして「慈愛」の目で見てたんじゃないかと。この話の後半♪はTMG ”Signs of life”でした。I'm hoping you will find the signs of life



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