16:落日






「明日からまたこき使うから、……」

昨日医者は要之助にそう言った。
「こき使う」と確かに聞いた。
目が回るとはこのことか?


起きてすぐ顔を洗い、身なりを整えて医者に元に向うや否や、要之助は考える暇がない程の用事を言いつけられた。

「コラ、ちんたらしちょっと日が暮れっど」
「えっ」

笑いながら、てきぱきと患者の診療にあたる医者は本当に容赦なかった。
しかし考える暇がない程の、というのは、今の要之助にはいっそありがたい。
昨日は結局、頭に浮かんだ思いを完全には振り切れなかったのか、要之助はどこか浮かない顔をしていたらしい。
それでも医者は特に何も声をかけず、いつも通りに接してくれた。今日もだ。
ありがたかった。
だから自分の(おもい)を見越してのことかと思ったのが。

「…終わらん…」

このままでいくと本当に日が暮れてしまいそうな感じだ。
しかももう太陽が中天にあるので、午後をいくらか過ぎているように思う。
きゅるるるる〜…と腹が鳴る。
「あは、何か情けな…」
かっくりと肩を落として要之助は賄い所に向かった。


「あ」
「おう」

水でも取りに立ち寄ったのか、それとも用事があったのか、賄いに充てられている家の戸場口に桐野が立っていた。
要之助は急いでぺこんと頭を下げる。

「今日は医者どんの傍におらんから、如何しやったかち思うたが。どうした、賄いに何ぞ用か?」

そんな些細な言葉でも気に掛けていてくれるのかと少し嬉しくなる。
自然笑顔になった。

午餐(ひる)がまだで…取りに来もした」
「まだ?」
「今日は何か忙しゅうて」

そう言って笑う要之助に桐野は眼を細めたのだが…、要之助に渡された皿を見て眉を寄せたのだった。
食事は城山にある備蓄を考慮して、朝晩が粥、昼が握り飯二個となっている。当然ながら配給だ。
周囲の人間も、勿論桐野も同じだけ食っている。
が。

「そいでは腹が減るじゃろう」

桐野の口からは、思わずかなり今更とも言える言葉が出た。
何せ目の前にいる要之助は食べ盛りの年代だ。

「あー…いえ!慣れもした。実家(うち)も貧しかもんで、こんぐらい何でん」

えへっと笑うそばから、きゅーっと腹が鳴った。

「………」
「………」

(…何もこげな時に鳴らんでも…)
恥ずかしくて顔が上げられなかったが、桐野は爆笑していた。

「ついでに休憩して行け」
桐野の言葉に甘えて家人に茶を淹れてもらい、要之助も土間の上り框に座った。

今医者の下でしている事、日々に思う事を身振りや手ぶりを添えて、感想を交えて伝える。
毎日会っているのに、なぜか”仕事”の話をするのが初めてで、新鮮で、ついあれこれと言葉を継いでしまう。
桐野はそれに相槌を打ちながら聞いてくれたが、その内何やら黙り込んでしまったのだった。
「…?」
少し様子が変化したのに気がついて、要之助が桐野を見上げる。

「ああ、…あのな、」
「はい」

「桐野さぁ!どこにおられもすか、桐野さぁー!」

「あ。呼んじょりもす…」
「………」

幾分かのざわめきが広がっている。
屋敷内にいても外の空気に若干の違和感が生じているのが分かった。
桐野はそれでも少しの間要之助から双眸を外さなかったのだが、やがて大きめの息を漏らすと、

「すまん、行く」
「あ、いえ」

あまり無理をするなと言い置いて、桐野は出て行ってしまった。

(なんだったんじゃろ)

何かを、言いかけていたように思うのだけれども。






軍使として政府軍に出向いていた山野田一輔がひとり、思わぬ帰城を遂げた。
「………」
呼び戻され、我が洞で山野田と対面した桐野は苦虫を噛み潰すという表現をそのまま呑み込んだ。

山野田は言った。
明日暁に政府軍の総攻撃が始まるとも、決断をし、返事をもたらすのならば刻限は今日の午後五時だとも。
呆気に取られた、とでも言えばいいのか。
あの時、枕頭にいた別府に吐き出そうとした懸念が懸念で終わらなかった事が分かった瞬間だった。

「法廷で死ぬ」とまで言って山を降りた人間が、何故帰ってくるのか。
ひとたび去ってまた還らぬ心積もりで、山を降りたのではなかったか。

返事?

何のための返事が必要なのか。


そう思うと同時に、激しい怒りが桐野の口を突いて出た。
何時もならかけられる歯止めが今は中々かけられないのが、己でも分かる。 言葉が過ぎているかもしれないと、頭の片隅で思った。
しかし。
生還し、よりによって持ち帰った内容がこれでは…
西郷の名前で出した先の趣旨書が(うそ)になる。
城山に戻ってきたこと自体が、味方をたばかったと同等の行為だということに思いが至らないのか。

「桐野さあ、…」

静かに名を呼んで、すっと洞に入ってきた別府晋介が山野田を助けた。
そのままちらりと視線を流し、少し離れた後方に少年隊のふたりがいる事を示す。
桐野を見直したその瞳が「もうその辺りで」と告げていた。
人目も、山野田の名誉もある。
分かったと無言で返すと、
「…山野田、そん話、西郷先生に持って行きやい」
実際、他に何も言う事は無い。
話を聞いた上で、後は総大将がどう決断するかだけだ。


西郷隆盛が起居する洞の前に本営詰めの諸将が集まり軍議が始まると、桐野は不快さを感じざるを得なかった。流石に顔には出さないが。
現状況に於いての軍議など、最早意味をなさないと桐野は思う。
その上この手の話は多数で時間をかける程ややこしくなる事必至だ。

「回答までの時間が無さ過ぎる」
「もっと猶予を請うことは出来なかったのか」

現に山野田に向かい、そうした言葉が浴びせられた。
その言葉に息を呑んで視線を落とした山野田を見て、桐野は少し気の毒になってしまった。
異なる所信からではあるが己も山野田を責めた。それを間違っているとは思わないが、しかし、これでは余りにも…

助け船を、と反射的に身を乗り出そうとした時、静かだが力のある声が斜め後ろから響いた。

「必要無か」

全ての眼が洞の奥に静坐している巨人に集中した。

「回答の必要は無か」

しん、と静寂が下りる。
耳から入った言葉を反芻し、西郷の意思 ―決断というよりは意思だろう― を心で理解する間。

それが過ぎると、嵐のような興奮が座を席捲した。
そして咆哮が上がる。
この数日、普段と同じ空気が流れていても、上層部には助命嘆願を巡りやや倦んだような雰囲気があったのは確かだ。

進むのか、退くのか。
…どうするのか。
人は行くべき方向が見えぬ時が一番辛い。
だから、迷う。
だから、いらぬことを考える。
総大将の一言でそれが払拭された。

どの顔もおしなべてどこかホッとしているように見え、中でも辺見が目立って気を吐いていた。
このざわめきの中どの顔にもそれと分かる程の喜色があるし、輪の中で吼える辺見を見て笑みが浮いている。
桐野にしてもそうだ。
西郷の言葉に一番救われたのは、己かもしれないと桐野は思った。


「兄」

視線を上げると、目前に別府が佇んでいる。
周囲の喧騒が一瞬遠くなる。
視線を交わしてひとつ頷くと、別府が綺麗に破顔した。

「明日は斃れるまで戦いもんそ」
愉快です。

そう別府が言葉を零すのと、互いに手を固く掴み合うのは同時だった。

「晋介、前線に伝達する。二、三人ずつでよか、各防御線から人を呼ぶよう手配してくれ」

点頭して去った別府を見送ると、感情の坩堝のようになった一帯を眺めた。
そのまま興奮冷めやらぬ場を、声をかけ、声をかけられながら、ゆったりと逍遥する。
視線が知らず方々へと向く。

何処へ行ったか、山野田の様子が少し気になっていた。
(…いた)
少し離れた所で腰を落とし、何時の間にこちらに来たのか、辺見と話をしている山野田を見つけるのは簡単だった。
「桐野さあ」
辺見の声に、え、と頭を巡らせてこちらを振り仰ぐ様子からは、彼が消沈していることがよく分かる。

「…桐野さあ」

謝りはしない、謝る必要もない。
軍使の義は愚行だという己の判断は間違っていなかったと思うので。
だが戻る事で罵られるのも覚悟していただろう彼の労をねぎらう事は、それに矛盾するとは思わない。

「…飲むか」
酒でも、共に。

「賄いに汁粉でん頼みもすか」

桐野の態度に幾分かのつかえが落ちたのか、山野田が穏やかに言葉を返す。
空気が緩く震え、辺見が少し微笑ったのが分かった。
西日に染められていく桐野の顔にも笑みが刷かれた。

真っ赤に燃える太陽が沈もうとしていた。



20201205改訂再掲/080725(6/26-7/01)
落日。日が沈む。9月23日。山野田さんにフォロー入れてみました(私が)。山野田さんが軍使として動いた裏事情を知っている辺見君にもフォローに入って貰いました。桐野の呼び方をプライベートとオフィシャルで使い分けをしている別府君



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