17:天蓋の星々






説明を聞き終えた代表者達が、各防御線へとばらばらと走り戻っていく。
桐野が肩の荷を下ろしたような気分になって漸く腰を落ち着けると、辺りはそろそろ薄暗くなり始めていた。
誰かの指示で軍の備蓄が解放されたのか、規律を乱さない程度の酒盛りが始まっている。
所々で笑い声が弾けるのを聞いて、善い晩になりそうだと思った。

実質的な軍の総攬者としてやらなければならない実務はもう特に無かった。
あるひとつを除いては、己個人が遣り残したと思う事も特には無いと思う。
すい、と足を西郷がいるであろう洞に向ける。
人の為に人に頼みごとをするのも、これが最後だ。




「え?」
「じゃっで汝の仕事はこいで終いじゃ」
分からなかったのかと文節で区切る医者に、少年は呆然としてしまった。

「終いって…そんな…私は、最後まで」
「そいは許さん」
反駁を許さない笑顔で、続きを断ち切られる。
「桐野さあの所へ行け」
「…最期まで、…」
俯いてしまった要之助の頭を、医者は優しく撫でた。

「よう気張ったな、要之助。本当ならもっと教えてやりたい事があったんじゃが、ここまでじゃ。 汝はヨカ助手じゃった。きっと、ヨカ医者にもなれる」

ツイ、と顔を上げると、彼は笑っていた。

「…………」
「ん?なりたくナカな?」
「…否…でも、」
「どっちじゃ」
「っ!…なりたかです!」

むっとして答えた要之助に、

「明日が如何なろうと、こうじゃち想いだけは何時でん持っちょけ。棄てるな、諦めるな。それを桐野さあから学んだんじゃろが」
「あ」
「あ?って、コラ…忘れたか!」

大声で笑って、ぐしゃぐしゃと要之助の頭をかき回すと、ふっと一言。

「よか時が過ごせた。汝と会えて良かったよ」

きちんと座って礼をし、そのまま病院を後にした。



(桐野さあの所へ行けち言われても…)

今の状況で、果たして行っていいものか。
先程までは西郷のいる洞窟の辺りから謡や笑声が聞こえていた。
そこでの宴は終わったのか、今、月明かりに照らされた小路に立って、耳に入ってくるのは薩摩琵琶の響きや和歌を吟ずる隼人の声だ。
桐野もその中にいるのなら、探さない方がいいかと要之助は思う。
邪魔はしたくない。
しかし、そうは思いながらも、足は桐野に割り当てられている第五洞に向かっていた。

「何処へ行く」
「桐野さあの所へ」
「おい」
「へ?…は、わっ、桐野さあ!」

ぼんやりとしていたので声を掛けてきたのが桐野本人である事に気が付かず、思わずぐわっと引いてしまった。

「…おいおい…如何した、大丈夫か」
思わず噴き出して笑う様子はいつものままだ。
「俺に何ぞ用でんあったか?」
いつものままだな、と思う。
「いえ、特にはあいもはん」
もう、変わらない顔を見れただけで
「なら…ちっとヨカな?付き合え」
いいか、と思う。
「は?ハイ…」


(なんじゃろ?)

そう思いながら、要之助はゆったりと歩く桐野に従い城山の頂きまで来た。
ここまで来ると眼前には桜島が見える筈だが、既に日が沈んでしまっているため要之助の目には左右に広がる影しか見えなかった。
昨日もこうして桜島に臨んだ。自分は何の為に死ぬのかと思いながら。
(そうか…明日が最期なんじゃなー)
思い出すと、ツキリと少しだけ胸が痛む。

「昼間はすまなかったな」
掛けられた言葉に、現実に戻る。
そうだ。
そう言えばあの時、桐野は何かを言いかけていたように思う。 何かを言いかけて呼び戻されていた。
「とりあえず座れ」
何もない草むらの上に桐野は腰を下ろし、要之助も勧められるままその隣に座った。

「明日の事、もう知っちょるな。早朝に政府軍の総攻撃が始まる。そいで全てが終わる」
「……」
返事のしようが無い。
「要之助も今までよう気張ったな」
桐野の口から医者と同じ言葉が漏れたのを聞いて、顔を上げた。

「そんな、」
そんな風に見てくれていたのか。

「俺だけじゃなか、皆そう思うちょるぞ。今の汝を見れば父上も兄上も同じじゃろう」
その言葉が純粋に嬉しかった。
「病院で働くのは、」
「楽しかです!…あっ…いえ、…その…出来っ事も少なかで、ふ、不謹慎かもしれもはんが」
「ああ」
「……楽しかち思いもす。人を助けられる。それに知らん事がわっぜあって」
「学ぶ事は楽しいか」
「ハイ」
「なら問題はナカな」

問題は無い?
何を言われているのかが分からず、え、と思わず隣に座る桐野を振り仰ぐ。

「汝の口からその言葉が聞けてよかった。昼の話の続きじゃ。…こいを」

そう言うと、桐野は懐から油紙で包まれた書状を少年に渡してきたのだった。

「紹介状?」

紹介状。
周囲が暗くて読みにくいが、包まれている奉書紙の表面には、間違いなくそう書いてある。

「まずは汝の話を聞いてからと思うたんじゃが、…話す間も無かったので、スマンが勝手に用意した」
「よ、読んでも…」

応えが返ってくる前に、手が勝手に動いていた。
パサ、パサと丁寧に折られた紙を披く音がする。
手が、それと分かる程に震えてきた。


―――右之者医学ヲ志シ、
―――熱心ニシテ見込モ有之
―――善キ師ヘ引逢ハセ後図を可図周旋之程奉願上候


内容がしっかりと頭に入ってこない。
しかしぽろぽろと目につく言葉を見て、何が書かれているかは辛うじて分かった。


これは要之助の為に書かれた紹介状だ――――


その上最後に認められている日下(にっか)の署名が、
「さ、ささ、西郷先生……」
「俺の名前よりは先生の方がヨカ。色々と、な」
西郷隆盛になっていた。
「晋介と相談してな、前から考えちょった。汝の事を話すと先生も喜んで書いて下さったぞ」
桐野の声が少し遠く聞こえる。

(こいは一体、どういう、…どういう意味…)

どういう意味?
ひとつしかない。
血の気がざあっと引いたのが自分でも分かった。

「い、…イヤ…嫌です…」
「嫌?」
「私、も、一緒に」

唇が震えた。

「そいは許さん」

しかし桐野は医者と同じように、有無を言わさない笑顔で。

「否、命令でんなか。こいは俺の頼みじゃ」
「たのみ」

ああとひとつ相槌を打つと、桐野は隣に座る要之助の背に腕を回した。
そしてぐっと力を入れる、と、

「おぉっ…、と」
「ぅわっ!」

勢いでそのまま後ろに倒れ込んだ。
ゴツッと桐野の頭あたりから鈍い音がする。

「いぃっ…痛ツ…」
「あっは、大丈夫ですか」
「こら、笑うなよ……ふ、はは」

桐野と要之助の双眸には、雲ひとつない夜空が写っている。
木立で限られた視界の中でも、驚く程綺麗に星が瞬くのが見えた。
「綺麗じゃな」
「はい」
掴めそう。
ポツンと落ちた呟きに桐野が静かに応えた。

「…手を伸ばせば掴める。何だって」
「何だって?」
「望めば、な。なのに汝も最期までここにいたいと思うんか」
汝も?
問い返す少年に、桐野は「福田にも伊地知にも、骨が折れる」と心底困ったように言った。

「大体な…汝ら、今幾つじゃ。大人に付き合うてそげん急ぐ事なか」
ま、その意気は買うがな、 と幽かに笑う。

「生きちょるもんの終着点はひとつじゃ。俺も汝も、誰も彼も同じ所にいく。早いか遅いかだけで誰も逃れられん。人は必ず死ぬ」

「はい。…じゃっで、」
「じゃっで今でなくてんよか」
一緒に逝きたい、と言おうとして、ビシリと遮られてしまった。

「要之助、汝は今でなくてもよか」
「人にはな、死に時っちゅうもんがある。 死ぬべき時に死ねぬのは…死なぬのは惨めじゃが、死ぬべきではない時に死ぬのは犬死にじゃ。俺はそう思う」
「そいで…それはな、今の俺と、汝の事じゃとは思わんか?」

「………」
「恐らく明日は俺の死に時じゃろう。じゃっど汝ん時じゃなか。…汝はまだ――」

生きろ

呑み込まれた言葉に星空が滲む。

『生きろ』

(そいが桐野さあの『頼み』なんじゃ…)
ひと筋ふた筋と涙が線を引いた。


「ぅ、っ…うー…」
「…馬鹿じゃなあ。泣く奴があっか。 俺は楽しかったぞ。今まで十分楽しんだ。西郷先生にも逢えたし、最後は汝にも逢えた」

背中から回されていた桐野の右腕は、いつの間にか少年の枕に変わっていた。
桐野はその腕を器用に折り、少年の肩の辺りで弾ませると、空いている手で星を指しながら、

「あの…星の瞬きみたいなもんか?人間も。チカっと光って、そいで終わる。人間が生きちょる時間は短い。あっちゅう間じゃ。それまでの間、汝はもう少し生きちょる事を楽しむ必要があると思うがな」

別れても時が経てば人は皆同じ所へ逝く。
そこでまた逢えるのだから。

頼みたい。
生きることに手を伸ばせ、生を掴め、と。
もう少しの間、生きていることを楽しめと。


(…それが、頼みなんだ…)



「わ…、わかっ、わかりもした」
「そうか」
「う…、は、は…ぃっ…〜…」

ぼろぼろっと涙が流れるのを止められなかった。

「何かやれるモノでんあればち思うたが。結局汝には何も残してやれんかったな」
「そげ、ん事、っ…」
そんな事はない。桐野からは、

「形の…なかもん…沢山貰いもした」

自分を枉げない勇気、戦う背中から多くの事を教えられた。
それは自分が忘れない限り決して朽ちないものだ。

「明日から暫く会えんが今度会う時には、要之助、もっとヨカ男になっちょらんといかんぞ」
「…桐野さあの様に、なりもす」
「はは。志はもっと高く持て。星に届きそうなもんをな」

桐野は朗らかに笑い起き上がった。釣られて要之助の体も起き上がる。
立ち上がった。


「約束してくれ。城山(ここ)で生命を粗末にせん事」

しっかりと頷いた要之助に、桐野は従僕の静吉を実方まで届けてやってくれとも伝えた。
実方まで送り届けろという事は結局、要之助も生きて実家へ帰れという事だ。

「約束しもすっ…、二言は、あ、あいもはん」
「よし!もう泣くな。笑え」

その言葉にぐしぐしと目元をこすると要之助は笑った。
引き攣ったようないびつな笑顔だったが、それでも桐野は満足したように笑んだ。
いつもと同じように。


「――― さあ、ここでさよならだ」


そしてそのまま要之助を置いて桜島に背を向けた。

(さよならだ…)

見知った背中がゆっくりと揺れて離れていく。

「桐野さあ!」

大声が出た。

「…だっ…、大好きです!」

伝えようとしたありがとうの代わりに出たのはそんな言葉。
桐野は振り返らず軽く片手を振り上げただけで、坂を下って行った。
笑ったように感じたのが、気のせいでは無かったらいいと思う。



また逢える。

桐野が言うのなら、きっとそうなのだ。
だからそれまでは、長くても束の間であっても生きてみようと思った。
それに―――

「何かやれるモノでんあればち思うたが。結局汝には何も残してやれんかったな…」

間違っている。桐野は、一番最後に要之助自身の生命をくれた。
生きろ、と。
(…いつかまた逢える)
そう思えば、涙はもう零れなかった。



いつかまた逢える。

また必ず逢えるよ。



20201209改訂再掲/080801(7/02-7/05)
天蓋に輝く星々。23日夜◆♪「あなたの声だけがこの胸震わす」(稲葉浩志)



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