3:崛起






体内に虎を包蔵したまま、平穏を保ち続けるのはどんな時も難しい。
周囲が騒がしければ騒がしいほどにそれは比例するものだ。
廃刀令、秩禄処分が発表され、神風連、萩、秋月と立て続けに反政府の兵が挙がると、内部から薩摩の決起を望む声が次第に大きくなった。
そのような状況の中で抑制の効かなくなった若者達が草牟田の火薬庫を襲い、同時期に東京から送り込まれた密偵が捕まると、それはもう手のつけようが無い燎原の炎の様に薩摩の地を席巻したのだった。



宇都谷の小屋で預かっている要之助の兄、加納道之進が桐野のもとへ城下の状況を知らせに来た。
つい先刻の事だ。
起こった事件を掻い摘んで話し、兎に角今の状況はどうにもこうにもならん、箍が外れたかのような荒れ方だと彼は言った。

「おはんな、もうここにはおれんじゃろう。…おるべきでもなか」

後始末はしておくから一刻も早く御城下へ発て、古馴染みの友人の声に曖昧に頷くと、桐野はまんじりともせずに一人考え込んだのだった。


深く息を吸い込むと、渇いた空気が肺の隅々にまで行き渡る。
桐野が思うに、この何年か薩摩の地は ― いくらかの騒動はあったにせよ ― 紛れも無く平穏だった。
そしてその平穏さは、己にとっては次の飛翔に向けての雌伏期間のつもりであったが、今となっては飛ぶ事を思う至福の時間であったのかもしれない。

事破る。
思い描いていた絵図が目の前で崩壊していく様を見た今、そう苦く思っているのは桐野だけではないだろう。
西郷は言うに及ばず、私学校を纏めている篠原や村田でさえもそう思っているに相違ない。
「………」
ふっと息を抜き、(こうべ)を回らせると骨がぱきぱきと鳴るのが聞こえた。
肩が凝っている。
苦笑した。肩が凝る…体が固まるなど今まで無かったことだ。
十年前と今では肩にのしかかる責任の重さが比較にならぬほどに違う。
桐野の体を固めているのはその重圧かもしれなかった。

立つ。
このまま決起に繋がる、か……?
汗が一筋、筋張った首を伝う。
一番望まざる形で、薩南健児の心が爆ぜてしまった。
しかし何を思っても、いくら考えても、最早どうしようもないではないか。
今の状況は万事休すると言うに相応しいのではないかと思う。

(いや…そう、か?)

考える。
膨らみきった風船の傍に針を置くが如く、何か少しの切欠があれば簡単に破裂する程事態は切迫していたのだ。
己が吉田の地から見て感じるよりも厳しく激しく。

今迄と同じ状況が続いていても、若者達は遅かれ早かれ暴発に近い事件を起していたのかもしれない。
その時が、幾つかの要因が重なった今となっただけだ。
望んだものではなかったが、一番ましな度合いで万事が休したと思えばいい。
それに実際に己の目で状態を見るまでは本当に「万事休す」かどうかは分からないではないか。
状況次第では、何か方策があるのかもしれない。

じっと開いた掌を見つめた。

傷だらけで泥だらけだ。
一指が途中から無く、土と土の匂いがついている。

これが ―― 中村半次郎を、桐野利秋を支えてきた手だ。

思えば維新からこのかた、中村半次郎時代と比肩する真摯さで剣を抜いた事が幾度あったのだろう。
いやそもそも真剣を握る事があったのか。どうだろう。
それさえも定かに覚えてはいなかった。


安住に翼を温め過ぎて昔を忘れたか。
鍬や鋤を握り土に生きる中で平和に馴染み過ぎたか。

(大地に慣れて…飛翔()び方を忘れたか、桐野利秋)


飛び込め、渦中へ ―――
小さく我が名を口にすると、綾小路定利を引き付けて立ち上がった。







篠原国幹の屋敷へと急行すると、既に己以外の幹部連中が集まっている。
皆が一様に黙り込んでいる部屋に足を踏み入れると、視線が一斉に集まった。
その、向けられた顔色の冥さ。
小さく息を呑んだ。ここにいるのは曲がりなりにも一廉の勇者ばかりだ。
それが…
余程状況が悪いとしか思えない。
桐野は己の観測の甘さを心底嘲笑(わら)うと同時に、今までの経緯を聞きながら最早引き返し難い所まで事態が進んでいることを知った。

「大事誤てり、か」
「桐野」
「…ああ」

(こいはまっこて万事休す、じゃな)

暫くは身じろぎもせず、目を閉じて息をつく他なかった。
己の顔色も冥いものだったに違いない。

それからは慌ただしく日にちだけが過ぎていった。
桐野が直接事務を執る事は少なかれども勘案事項は多い。
吉田から下りてまだ七日前後しか経っていなかったが、開墾地にいた頃とは隔世の感があった。


何も起こらなければ、あのまま百姓として死んでも良いと思ったのは確かだ。
政府が少なくとも納得の行く方向へ進むのならば、それも可ならんと思っていた。
金の掛からぬ掴み取りの生活は、昔が昔であったので苦にはならず、己を慕ってくる後進に囲まれて指導に当るのは楽しかった。

途中から友人の弟が加わると、更に生活に色が加わった。
加納要之助は酷く引っ込み思案で、見ていて大丈夫かと思うこともしばしばある少年だった。
だからその本人が住み込みたいと言い出した時、桐野は酷く驚いたのだ。
「迷惑じゃち思うが、暫く預かってもらえんか」
道之進も驚いた様子ではあったが、弟があんな事言うとはよほどだ、引け腰を変える切欠になるかもしれんから、とそう言って桐野に頭を下げたのだった。

要之助は同じ実方の出身であるから貧困に慣れていた。
それゆえか黙々とよく働くし、僅かな粗食もありがたがって食う。実に素朴な子供だった。
そして何よりも後ろにくっついて手伝いをしてくれる彼を、幸吉が手放しで喜んだ。
四十代手前の桐野、二十代になるかならないかの幸吉、そして十代そこそこの要之助。
考えてみれば奇妙な同居生活だった。

要之助は幸吉の事を"幸吉どん"と呼び、桐野の事を"桐野さぁ"と呼んだ。
幸吉は桐野の従僕である自分に丁寧に話す必要はないし、何より敬称は止めてくれと何度も言っていたけれど、結局は直らなかった。
周囲に人がいない時には彼らは兄弟のような仲の良さであったと思う。
そして、
「"さぁ"やのうて、"先生"やろ」
嗜めるように幸吉がそう言うと、要之助は「う〜ん」とやや考えた後、
「"先生"…じゃなか気がしもんで」
「はあ?」
如何にもよく分からないといった風に幸吉が首を捻るのを、桐野は笑いながら眺めていたものだ。

要之助は実につぶさに桐野という人間を、桐野の周りを見ていた。
加減が分からない初めは幾分かおどおどしながら、慣れてくると少しずつ"桐野利秋"という男の領分に足を踏み入れて来た。
そしてそれは不思議と不愉快ではない。

開墾の作業中、腰の入れ方が甘いと鍬を握る姿を大声で叱咤されても要之助は素直に聞いていたし、どうすれば良いのかと桐野や周囲の姿を良く見ていた。
示現流の稽古を見ている時などは何事も聞き漏らさない様に全身を耳目にしていたので、ついこちらも力が入る。
真っ直ぐなひたむきさは好きだ。
だから熱心さに絆されたのかと思ったのだ。

「なんや、親子みたいやなァ」
傍で井戸の水を汲みながらふたりを見ていた幸吉の声に桐野は、
「そーじゃ。こん子は大事な"息子"じゃっでな……幸吉、汝もじゃぞ」
「なっ」
ばしゃーんと桶が井戸に落ちた音に、
「何じゃ、照れちょるのか」
「あはは!幸吉どん照れちょる照れちょる」
「照れちょりません!もう!人をからかってからに〜」
そそくさと掘っ立て小屋に引っ込んでしまった幸吉の後姿を笑顔で見送り、己の言葉を反芻して、ふと気が付いてしまった。

家族、だ。
この居心地の良さは…

そうであれば納得がいく。
熱心さに絆されたというよりは、家族のようであったから己の深い部分を覗き込んでみようとする要之助を排することが無かったのだ。
それは酷く平穏で、ある意味満ち足りた日々であった。


事無ければこのまま埋もれてもよい。
そう思った。本気でそう思っていた。
そうなれば己は荒れた地を耕しながら、土と共に生きその上で死ぬ事になるだろう。
それもまたいいではないか。

そう思う一方で、畳の上で生を全うする己を想像できないのも確かだった。
故郷を後に京へ出てから十数年、嵐のようだった来し方を考えると、心の奥の奥ではこのまま平穏の中で死ねるのかとも思うのだ。

この真綿で包まれるような居心地の良さの中で朽ち果てていく事が己にとっては是なのか、と。
それが桐野利秋か、と。


何かと戦うことでしか生きられないと思っていた己は一体何処へ行ったのだろう。


じりじりと幾ばくかの焦慮と疑問が湧き上がる中で、あの一報がもたらされた。
何ということだと思うと同時に、心の中である声が聞こえたのを桐野は否定しない。

飛べ…
飛べ!
飛んでしまえ、と。


20201028改訂再掲/071007
悩める桐野。桐野はあまり積極的に情報収集をしていたようではありません。前段階の行きがかり上雲行きが怪く、かなりヤバイとは思っていても、開墾地で情報を聞いた時にすぐさま正確な状況判断をするのは難しかったのではないかなぁ…草牟田や密偵の話を聞いたその場で馬を走らせ城下へ発ったという話が残っていますが、あえて違う方向で書いてみました



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