22:置き手紙






陰鬱な空気だった。

周辺に漂う空気も、心中に流れるものも、全てが。
生まれ育った故郷が灰燼に帰した姿を見る時の、この言い知れぬ寂寥感。
戦闘後の城山の惨状。
久しぶりにまみえたというのに、――― 首の無かった従兄。
ある程度想像が付いていた結末であったとはいえ、息が出来ぬ程の虚脱に襲われた。

賊。

それが薩軍に冠された呼称であった。
その”賊軍”の上に立っていた従兄、そして薩軍の幹部諸士が丁重に扱われ埋葬されたことは、せめての慰めであったのかもしれない。

「………」

何も考えたくなくて、独り静寂の中に住むように押し黙る。
そんな様子でいる鹿児島に駐屯する政府軍中誰よりも西郷隆盛に近いであろう存在に、誰もがその心情を慮り易く言葉をかける事を遠慮したのだが。

「大山少将」

不意に掛けられた声に大山巌が視線を向けると下僚が佇んでいた。
気まずげに頭を下げ、
「目を通して頂きたいものがございます」
とだけ告げると、手にしていた書簡を大山に寄越したのだった。

(手紙、か…?)

気乗り薄く渡されたそれを手にすると、縦横に皺が寄っていた。
水の中にでも落ちたのか、全体的にややふやけている。所々滲んでいる朱色は血のように見えた。
表に引かれた未だ鮮やかな墨痕を何気なく目にして、大山ははっとした。
それはかつては朝夕親炙した筆跡であった。





宛がわれた室から錦江湾を臨む。昔から見慣れた愛すべき風景であったが…
息が詰まるような感傷が浮かぶのは、もう幾度目だろうか。
今は最早あまり見ていたくない。
出来れば鹿児島から早々に立ち去りたいというのも、正直な気持ちと言えた。
ツイ、と視線を机上に移す。
そこに置かれているのは、数時間前に我が元にもたらされた”書簡”であった。

紹介状

表にはそう大書してある。見慣れた従兄・西郷隆盛の字だった。
彼の弟・従道宛てとなっていたが、現在彼は東京にいる。
その為ふたりとごく近しい関係である己の所に持ち込まれたのだろうと、大山は見当を付けた。

「こいを、どこで」

話を聞くと、城山陥落後、怪我をして木から落ちてきた少年が握りしめていたのだという。
そのまま銃剣で刺殺しようとした時、その手から離れ地に広がった書簡に西郷従道の名がある事を偶然目にしたのだと。
しかも見れば差出人は西郷隆盛だ。
少年はもしや西郷家の人間か、と現場が焦ったのは無理もない。
だがその内容を読むとどうもそうではない様子であり、しかし話を聞こうにも持っていた本人が気を逸していた為どうにもならなかったのだと。

現場も考えあぐねたのだろう。
少年を無碍に扱ったわけではなかったが、丁寧に扱ったわけでもなかったらしい。
彼は他の降伏者と共に石蔵へと放り込まれ、既に三日が経過していた。

(三日前?連絡が来るのが遅すぎる)

顔には出さず、しかし不機嫌に大山はそう感じた。
十代そこそこであるというその少年は、従兄とはどういった関係だったのだろう。
紹介状の内容を見て、熱心に医の道を歩こうとしている様子なのだと推測した。

もはや鹿児島の地を踏むことが無いかもしれない。
そう覚悟している大山にとって何の因果か巡ってきた紹介状は、従兄から、故郷から己に遺された言葉のようにも思えたのだ。
後押ししてやりたいと従兄が思ったのなら、
(俺もそうしてやりたか)
それが心底から湧きあがる自然な感情だった。
但しそれに見合う人間かどうかを己の目で確かめてからだ。

「閣下、失礼します」
「入れ」

ギィと開いた扉の向こうに、それと思しき少年が所在無げに立っていた。

「大山巌少将だ。失礼のないように」

耳打ちされるように下士卒に教えられて、少年 ― 従兄の紹介状には加納要之助とあった ― が目を見開くのが分かる。
指示して下士卒を部屋から出て行かせると、大山は室に要之助少年とふたりきりになった。




「座りやい」

そう言って椅子を示すが遠慮しているのか警戒しているのか、要之助は座ろうとしない。
しかし咎める気は起きなかった。それはそうだろう。
どういった理由で此処まで連れてこられたのか、彼はきっと分かってはいない。
だが立ったままでもいられないだろう。足に銃創があると聞いている。

「…すまんが座ってくれんか。立っちょるんが辛い」
俺が。

そう笑いかけると幾分かホッとしたのか、素直に席に着いた。
(素直な子供じゃ)
しかしやはり落ち着かない様子で、あちらに視線をやったり置かれている机の脚を眺めたり。
大山は静かにその様子を観察している。
(じゃが、取り立てて聡いちゅう感じでもナカな…)

「…何かご用でしょうか」
「怪我の具合はどうじゃな」
幾分かはぐらかすような問いに、要之助は戸惑い気味に一瞬押し黙ってしまう。
「…何ともあいもはん」
「そうか。そいは良かった」
そうはとても見えなかったが。ここに入る前も少し足を引き摺っていたのだ。

だが。
(その意気や善し)
弱味らしきものを見せたくないのだろう。愛すべき稚気だと思う。

「………」
「………」
「あの!何か、ご用でしょうか」

間に耐えきれなくなったのか、とうとう要之助は声を上げたのだが、
「ん?ああ…こいは、汝のじゃな?」
「あっ…」
差し出したものを見るや、ガタンっと椅子を倒して立ち上がった。





「こい…を、どこで?」

すっと差し出されたそれに勢いよく立ち上がると、椅子が音を立てて倒れた。
目の前にいる男が大山巌 ― 西郷先生の従弟 ― である事は驚きであったが、それ以上に目の前にある紹介状の方が要之助には驚きであった。
受け取って中を確かめる。

(間違いなか)

桐野から渡された紹介状に相違ない。
拾ってくれた人がいた…
そう思うと自然と要之助の頭は下がった。

無くしてしまったものは仕方ないと思い切ったとはいえ、これは桐野が遺してくれた唯一形のある大切なものに違いはない。
手元に戻ってきたことは、やはり嬉しかった。
しかし大山にしてみると要之助がそうも強く反応すると思っていなかったのか、やや驚いたような素振りであった。
その上頭を上げてもそのまま要之助を見つめている。

その、奥までを透徹するような大山の視線が、要之助を現在置かれている『位置』に引きずり戻したのだった。

(ここに呼ばれたんは、これを渡す為だけだったんじゃろうか)

すっと頭が冷えた。
紹介状を認めてくれたのが西郷隆盛であったとはいえ、渡すだけなら政府高官である大山が幼年者を呼びつけて、わざわざふたりきりになる必要もないだろう。

何か他に、目的があるのではないだろうか。
何か、他に?
…何が?

冷静になって考えると、自分がここにいる理由も、呼び出された目的もよく分からない。
出来る事も無い。持っている物も無い。
何も無いも同然の我が身なのだ。
そしてそこまで思い至ると、”分からなさ”に体がやや強張るのを感じざるを得なかった。

「こいは大切なもんです。拾って頂いた事、感謝いたしもす」

そう言うと立ったまま再度深く頭を下げなおし、大山と視線を合わせた。
そしてぐっと唾液を呑み込むと、

「ご用件は、これだけでしょうか」

棘を含むようにそう言い放ち、そのまま相手の出方を待った。




幾分かオドオドとしていた態度が警戒心と入れ替わった様子を見て大山は、ほぅと感心した。
存外に、鋭い。

対する口調が鋭くなるのは、敗北者側の感情から言って仕方のない事だろう。
眼差しに込められた敵愾心の強さを目にし、見かけよりは骨が有る様だと思うと自然口元が綻んだ。

するとその様子を認めた要之助が更に口をへの字の曲げ、睨めつけるような視線をこちらに向けてくる。
大山は思わず小さく声を上げて笑いそうになった。
…決して嫌いではない、この感じは。
けれど今はからかい過ぎるのも良くないかと思いなおす。

「用件はな、その内容の事じゃ」
「内容」

意外であったのか要之助は拍子抜けしたように繰り返した。

「信吾は…西郷従道は東京におる。望むなら俺が汝を東京に連れて行く事も出来る」

え、と驚きに眼を見張る要之助の瞳を、覗き込むように大山は言葉を投げた。

「…行くか?但し、共に行っとなら出発は今日ん夕方になるが」

さてどうする?



「夕方、…」

東京へ。
目の前にいる男は、確かにそう言った。
東京へ今日の、夕方?
目が眩むような思いで要之助は手にした紹介状を見つめた。

この紹介状は ― 医に続く道は ― 西郷隆盛の手を借りて桐野と別府が自分に残してくれた道だ。
しかしそれは自分を城山で死なせないため、生還させる為の口実であった事も、確かだと思う。
城山で生命を粗末にしない。桐野とはそう約束した。
そして別府は「生きて還れ」と。

「………」

大山の申し出は、とても魅力的だ。
行く。
そう言えば、東京で医学を学ぶ事が出来る。
その、たった一言で。
簡単な事だ。
その一言で、城山に入ってから見つけた道を歩く事が出来るのだ。桐野も別府もきっと喜んでくれるだろう。
たった一言でそれが、叶う…

しかし、と要之助は思うのだ。
今の自分にとっての最善の選択は、大山に従って東京に行くことだろうか?

心が揺れた。

(桐野さあ…)

ふっと浮かぶ、その背中。
どうすれば?
助言を求め、また当然のように助言を与えてくれた人が、今はいない。

(死とはそういうことなんじゃな)

場違いにも、そう思った。
今はひとりで答えを出さなければならない。

選択肢は、行くか行かないか、そのふたつ。
託された紹介状を今、活かすか、活かさないか。そのいずれか。
どんな答えを出しても、桐野は笑って背を叩いてくれるような気がする。

「大山さあ」

意を決して男の前に立った。



20201227改訂再掲/080821(7/21-8/01)
副題の「置き手紙」は10のお題「旅立ち」より。9月27日
♪「yokohama」(B'z)。前半の弥助ちゃんっぽいかなと。



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