23:空き部屋






さやさやと髪をなでる風が心地よい。
ゆらゆらと揺れ、額に張りつこうとするそれを片手で押さえ付けると、甲板から鹿児島のまちを眺めた。
政府軍と薩軍の戦争が始まって半年強。
二度戦場になった故郷は、今やほぼ灰燼へと帰していた。


被災者となった県民の慰撫の為に、内務卿大久保利通を後ろ盾として県令が尽力していると耳にし、聊かではあれ安心した。
今回、一番の被害に遭ったのはやはり”戦場”になった土地の住人、徴用された人々らであった。
巻き込まれた…いや、巻き込んだ、と言っても過言ではないだろう。

この故郷の惨状は、政府軍の得た勝利は、この結果は、間違いではない。
個人の事情や感懐を離れ国家の大局を鑑みた時、この結果は嘉する事なのだと。
(そん通りじゃ。…間違っちゃおらん)
そうだと、頭では分かっているのだ。
だが、―― 今の段階ではそう思う事さえ虚しい。
今は暗さと、後ろめたさしかない。

(鹿児島にゃもう帰らん)

公的な立脚点を離れて、己を育んでくれた人々や故郷に為した事を思えば、帰れない、と言う方が心情的にはより正確だ。
だが、と、大山は岸に向けた目を凝らした。

「人は逞しい生き物じゃな…」

誰に伝えるでもなく、独りごちた。

日が沈んで暫く経つと、湾の形に添って小さな光が生まれ始めたのだった。
甲板で時を過ごしていた大山の目前で。
灰燼に帰し、人が姿を消していた筈のまちにはぽつりぽつりと灯りが戻り始めていた。
家を失い、生計(たつき)を失った人々には撫恤金が与えられるらしいが、暫くは艱難辛苦が続くだろう。
それでも人は、己が思うよりもしたたかに生きている。
そんな人々の為にこれからは幸多くあれかしと祈る傍らで、彼 ― 加納要之助もそんなしたたかな存在のひとりであったのかもしれないと思う。
湾岸に沿って小さく強く煌く光のような存在であったのかもしれない、と。

大山はそう思った。






「大山さァ」

「ありがとう、ございます」
不躾な程真っ直ぐな視線を大山にぶつけていた要之助は、今度も綺麗に腰を折った。

「私がそげな事言って貰える立場でん無か事、よう分かっちょりもす」

何を言い出すのだろうかと、大山が少し首を傾けて先を促すと、要之助はその場に正坐した。
椅子ではなく、床に。

「私は、桐野さぁの後を追って城山に入り医者どんの手伝い(かせ)ばしちょりもした。…城山で、あん人達となら一緒に死ねるち思いもしたが…」
「桐野?」

桐野の名前にぴくりと大山の眉が上がる。
それを見て、彼は桐野に対し余り良い印象を持っていないのだと少年は感じた。
しかしだからと言って、
(桐野さぁん事、隠す必要も偽る必要もナカ)
桐野と出逢えた事は、己の誇るべき出来事だ。

「私は桐野さぁに引き立てて貰った者でごわす。西郷先生とは直接の面識はありもはんが、桐野さぁが骨を折って下さってこん紹介状を。…命ば、助けて頂きもした」

医学は学びたい。
そこに嘘は無い。が、ここはけじめのつけどころだと要之助は思った。
だからこそ正直に桐野の事を告げた。

(ありがたか)

桐野の心遣い。
面識もない自分の為に紹介状を書いてくれた大西郷。
そしてその紹介状の通りに手を引こうとしてくれている目の前の大山。
本当に、ありがたくて涙が出そうだった。

だが、と要之助は思う。
城山で接触さえなかった大西郷と大山にそこまで甘えていいものだろうか。

桐野は自分に医学への道と生に繋がる道を遺してくれた。
その両者を考えた時、紹介状をくれた桐野の思いの重点は後者にあったと思う。
そうであれば紹介状のお陰で生命を助けられた今、既にそれは”本来の”役目を果たしている。

だから、
(西郷先生のお名前で、東京に行く資格は俺にはなか)
何の疑問もなくそう納得した。
これ以上は望まない。恃まない。罰が当りそうだと思う。

「こんお話、お断りさせったもんせ」
「何?」
「今大山さぁと東京に行く事が…正しか選択だとは思えもはん」

行かぬ、と。
はっきりとした拒絶。誤魔化しもせず言いきった要之助に、大山が目を細めた。
それに、と更に言葉が続く。

「今鹿児島を離れる事は私にはできもはん」
「ふむ?」
「石蔵には、まだ薩軍の病人や怪我人がわっぜおっとです。 そこで…私に出来っ事は少なかですが、そいでんやれる事がある。あん人達を放って東京に行くなんち事、私には出来もはん」

言いきった。

はっきりと分かった事がある。
戦に徴用された人々、戦禍で家を焼きだされた無辜の人々。
何かが起こった時、そのしわ寄せが来るのは彼らのような弱い立場の人間だ。
それは、どこでも、何時の時代でも変わらぬ事なのだろう。だがそうだとしても。

生きる事を楽しめ

桐野はそう言った。
これは自分だけの問題なのか?石蔵でずっと考えていた事だ。
自分に向けたその問いの答えは、既に出ている。

(これは生き残った全ての人にも、今生きている全ての人にも、きっと当てはまる言葉だ)

今ならそう思う。
そして雷に打たれた様に感じたのだ。
そんな人々を助けたい。
いや、助けるなんておこがましい。せめてそんな人々の力になりたい、と。

医学を通しても、通さなくても、誰かが生きて行く上での添え木のような存在になれたら。
生きる事を少しでも楽しめるような、力を与えられる存在になれたら。
出来る事は少なくても。
傲慢だと思われても。
故郷に生きる人々を助けられる人間になりたい。
桐野や別府に生かされた生命を、今度は人を助ける事、生かす事に使いたい。
そう思う。

だからこそ東京へは行けない。行かない。
そして今、己に出来る事は…

「私の事はヨカです。私の為に折ろうと思って下さった骨を、どうかもっと困っちょる人に。石蔵に医者を派遣してくいやんせ。私はそいを手伝いもす。何でんしもす!お願い…お願い、申し上げます!!」

石蔵にいる人々、城山で自分を可愛がってくれた人々、生死を共にした人々を助けることではないか。
それが自分の第一歩ではないかと思う。




がばりと音が聞こえそうな勢いで叩頭した目の前の少年に大山は驚いた。
「顔を上げなさい」
「お願いしもす!」
微動だにしない様子に立ち上がると、大山は床に膝をつき、要之助を抱えるように起こした。
目が合う。

「医者になりたくはなかな?」
「なりもすっ」

ぎっと挑むような目で、少年はこちらを見てくる。
飛びぬけて聡明な感じは今でもやはり受けない。
受ける印象は直情な素直さだ。しかも満腔に溢れるそれを隠さない。

狭い城山の陣場。
そして桐野の傍にいたという少年。

「………」

それならば従兄の耳にも、要之助の諸々の話が入っていたと考える方が自然だろう。
(何故従兄が…この少年の為に紹介状を書いたのか)
今なら分かる気がした。

負けじと睨め付けてくる瞳に、ふっと微笑する。
その頭上に手を翳すとびくりと肩を震わせたが、それを無視して頭を撫でると室外にいた部下を呼び、要之助が見ている前で石蔵の調査を言い付けたのだった。




「少し待ちやい」
と、目で椅子を指されたので、要之助は今度は素直に従った。
大山はその目の前で何かを認めている。命令書か一筆か何かかと漠然と思った。
紙に残すという行為は、
(…約束してくれた…)
つまりはそういう事だろう。

要之助が見ている前で、包まずに事を進めてくれている。それは大山の誠意であり、好意だと感じた。
しかし余りに簡単に事が運ぶので喜ぶよりも呆気に取られてしまったのも確かだ。
ぼんやりと目前での出来事を見つめている要之助の前で、大山が下僚に書付を渡し二、三言い付けると、またふたりきりになった。

「石蔵の件はアレでどうにかなっど」
「はイッ」
いきなり掛けられた言葉に声が裏返る。大山が笑った。

「もう一度聞くが、東京には行かんのじゃな」
「はい」
「医者には」
「…なりもす」
「ソウカ」
「…………」
「…………」
「あの…あいがとごわした」
石蔵の件。
おず、と大山を伺うと大きく破顔された。…と思うや彼はツカツカと近づいて来る。

「こいを」
すいと差し出されたものを見ると、

「俺の名刺じゃ。住所も書いておいた」

東京の、と付け足した大山の顔を見上げた。
よく意味が分からなかった。

「汝は石蔵に遣る軍医の補助をしたかっちゅうたな」
こっくりと頷く。
「…条件がある。呑むか」
こくり。

「医者の手伝いしながらでよか、まず足の怪我を完全に治す事。そんで怪我が治ったらな」

「そん紹介状持って東京に出て来る事。俺が信吾に汝を紹介する」

「え」
「不服か」

ぱかりと口が開いた。
不服も何も。
自分にとってそんな都合のいい話があるのだろうか。
…許されるのだろうか。

「学ぶなら東京が一番じゃ」
「じゃっどん」
「人の役に立ちたいちゅうなら、早い方がよかち思うが…否…違うな。俺と信吾にも、何かさせてくれんじゃろか」
些細な事かもしれないが、故郷の為に。
己と信吾が手を引いてやれば、効率良く最先端の学問を受けられる場に出す事も出来る。

「…私は、軍医になる積りはあいもはんが」
「分かっちょる。汝は鹿児島に帰る。そうじゃな?」
やや困惑気味に言い募る要之助を安心させるように大山は言った。

「その上で、じゃ。如何する。こん条件、呑むか?」






「……はい、ハイっ…」
そう言いながら、片目からぼろっぼろぼろっと零れ落ちていったあの涙の色を、大山は忘れないと思う。

「同道させるお積りであったのではありませんか」

船室にいなかった大山を甲板に探しに来たのか、共に帰京する下僚が問いかけると、大山は静かに笑った。
要之助にばかり都合がいい上、あれは口約束に等しく、彼が心変りをして上京しない可能性もゼロではない。

しかも要之助が上京したところで大山には何のメリットもないのだ。
下僚の物言いには、そうした意も含まれている。
しかし、
(あの少年とは、また必ず会える)
大山にはそんな確信があった。

顔を合わせた時間は短かったが、急所で約束を違えるような人間ではないと感じた。
またそのような性根であるなら、薩軍の幹部連中と長く付き合う事も出来なかっただろう。
ましてや従兄に紹介状を書かせる事など。

「………」

桐野や、その周囲の人間に大切に教導されたのだろう。
そして愛されたのだな、と思う。
本人達や要之助にそのような意識は無くとも、互いにキラリと光る一番の美点をぶつけ合っていたに違いない。

従兄を奪っていった彼等に憎しみや恨みつらみの悪感情が無いとは言わない。
いや、それは哀しみの感情と綯い交ぜになり、寧ろ強く存在すると言っていい。

だが要之助を見ていると、そうした負の感情がやや薄れていくように感じるのが不思議だった。
薩軍の男達は我が子や弟を慈しむように要之助に接し、また成長するように手を差し伸べていたのだろう。
真っ直ぐに、高い所まで伸びるように。

敵味方といった立場を離れそれは、それだけは、ひとりの大人として、人として、賞賛に値する事であった。
薩軍の将卒達が見せたただ(かな)しみ慈しむという最も人間らしい感情が、あの少年へ惜しまずに注がれていた事を感じる。
少し、羨ましい気がした。

「なあ」
「は」
「インドにはな、”必要な段階に到った時、師は目前に現れる”っちゅう古い言葉があるそうじゃ」

桐野は、桐野達は加納要之助にとってそんな存在だったのかもしれない。

ふわりとそんな事を考えた。

「俺は師にはなれんかもしれんが、その背中を押す事位は出来るかもしれんな」

そう言ったきり、大山は段々と小さくなっていくまちの灯を見つめ続けた。



20201230改訂再掲/080827(8/03-8/13)
副題の「空き部屋」は10のお題「旅立ち」より。9月27日。空いた"空間"を埋めるもの、という意味を込めて。



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