21:濫觴






暑さと異臭、噎せかえるような澱んだ空気。
そして体に走る鈍痛に要之助は目を覚ました。
ここはどこなのか。
起きて確認したかったが状況がよく掴めない為、目が覚めた時の状態のまま横たわっていることしかできなかった。
そのまま瞳を閉じて、記憶を辿る。

覚えているのは木上で撃たれたこと。
そこから落ちたような気がするのだが、その後、我が身に何が起きたのかが分からなかった。

(………)

周辺には人がいる。
気配からすると大人数であるように思い、耳を澄まして音声を拾うとどうやら政府軍に降伏した薩軍の士であるらしかった。
ならば大丈夫だろうと、身を捩って上体を起こす。

「痛っつ…」

すると右のふくらはぎが焼けつく様に痛んだ。
弾が当たったのはここかと単衣の裾を捲ると、雑ながら包帯が巻かれており手当てされた形跡があった。

手当て…
どういうことだろう。

「起きたか」

しかし考える間もなく要之助に声を掛けてきた人間がいた。
西日を正面から浴びていたため逆光でその顔が分からない。

「…ここは、」
「集成館の石蔵じゃ」
「集成館……磯?」
「ああ」
眩しさに少し場所をずらす。男の顔を目にして、要之助はハッとした。

(こん人…)

辺見の傍で何度か見かけたことがある、歴戦の勇士だ。
河野主一郎、ではあるまいか。
河野は何日か前に政府軍に軍使として降り、城山には戻って来なかった。
その男が縄を掛けられた状態でこんな所にいるのは、一体どういうことなのだろう。
目の前にいる男だけではなく、周囲を見ると殆どの人間が同じ状態でいる。
その幾人かと目が合った。
周辺の様子もさる事ながら、自分が縛を免れている状態がどうもよく理解できない。

「………」
少し様子の変わった少年に男は苦笑した。

「汝の顔は何度か見た事があるな。…俺の事知っちょっか」

点頭する。
河野主一郎で間違いないようだった。

「城山は陥ちた。捕虜になった者、投降した者、皆ここに詰め込まれちょる」
はい、と応えた声がかすれる。

「じゃっどん汝は恐らくここから直ぐに出れられる。二・三日ん内じゃろう」

年端もいかぬ事に加え、要之助が非戦闘員である事は城山に詰めていた多くの人間が知っている。
罪に問われる事はないだろうというのが、河野を含む周囲の人間の見方だった。
縄を掛けられずに済んでいるのは、その上に怪我をしていた為らしい。

「木の上から落ちて政府の兵隊何人か下敷きにしたらしいな」
「はっ?……あ、あー…」

口元だけで密かに笑う河野に要之助は曖昧に頷いたが、その辺りの記憶が無い。
撃たれて、そのまま踏ん張ろうとしたが結局落ちて、その途中で気を失った。
体中に残る鈍痛(今はあちこちが青痣になっていたが)はその時のものかもしれない。

「そん時は騒ぎになったらしいが、な。話を聞こうにも汝は気絶しちょるし、まだ年も若か。怪我もしちょる。政府軍(むこう)も困ったんじゃろう。誰かに担がれて来て、ここに放りこまれたちゅう事じゃ」
「そうで、ございもしたか。…あ。河野さぁ…」

静吉はどうなったのだろう。
そう聞きかけて少年は辺りを見渡した。
(おらん)
此処には見当たらない、という事は恐らく無事なのだ。木の上できっと事無きを得ている。
そう信じたい。

「如何した」
何かを言いかけて急に黙り込んでしまった要之助に、河野は怪訝そうに声をかけたのだが。
そう聞かれた拍子に不意に思い出した。

…紹介状。

急いで懐を探る。着物の袂を探る、腹に巻いた晒をまさぐる。
そのような事をせずとも紹介状の有無は感触で分かるのだが、そうせずにはいられなかった。

「…ない…」

木に引っかけたズタ袋の中?
いや、違う。
あれだけは離さず持っていようと思い、懐に入れていたのだ。
確か木から落ちる時には、我が手に握りしめていた。

「…お…落とした…?」
「何を、じゃ」

態度が急変した要之助を、河野は驚きをもって見つめていた。
その落ち込み方が尋常では無かった。

「紹介状を、桐野さあと別府さあから頂きもした」
「紹介状」
同郷の先輩は紹介状を渡す事で、生きる口実と目的を与えてくれた。

「…西郷先生に書いて頂いたもんです」
「何?」

要之助にとって大切なのは紹介状そのものというよりも紹介状を書いてくれた人、渡してくれた人の思いやりだ。
それは分かっているのだが…
失くしてしまった。
そう思うとどうしようもなく自分が情けなくて仕方無い。

「………」
「………」

気の毒そうに、河野が息を付くのが聞こえる。
だがここで沈んでいても、どうしようもないのは確かなのだ。

(…貰うたんは紹介状じゃなか。先を歩いていく為の勇気じゃち思えば)

それに沈んでいても桐野も別府も喜ばないのは確かだろう。
河野や周囲の人々にいらぬ心配を与えるのも良い事だとは思わない。
残念だが、無いものは無いのだから。

(よし)

頭を切り替えよう。
幸いな事に己は縄をかけられてはいない。動く事が出来るのだから。
それならば。

(ここでも出来っ事を、やる)

城山にいた時と同じように。
治療は出来なくても、ここにいる病人や怪我人に手を貸す事位は出来る筈だ。
無くしてしまった物を悔やむより、そちらの方が余程可愛がってくれた人々に報える気がする。

「あいがとごわす。河野さあ、大丈夫でごあんど」

そう言い切って笑った。




石蔵に閉じ込められたまま、二日が過ぎ三日が過ぎた。
罹病者も怪我人も一緒くたにされ、何時までこの石蔵の中にいればいいのか、というのが大方の不満であった。
集成館の石蔵は城山陥落以前から捕虜や投降者の収容に利用されており、その中にはコレラの罹患者がいるので気をつけた方がいいと、河野からは聞かされていた。

「コレラ」

そう聞いてぞっとした。
ここにいる人たちは、戦が終わってもまだそんな理由で苦しまなければならないのか。
そう思うとやりきれない。

周りを見渡して、いや、見渡さずとも、もう嫌という程分かっているのは何も出来ない自分の力の無さ。
そして大義や理想がどれ程立派であっても、戦に負けるという事がどういう事なのか…
そんな敗戦の切なさだった。

戦って死ぬ事に意義を見い出せる人間は、まだいい。
だが現実にはそうでない人間の方が遥かに多いという事を、要之助はこの石蔵で知った。

ここには士卒もいたが、人夫といった非戦闘員も多く収容されている。
彼らは要之助が今まで城山で親炙してきた男たちとは違う人種のようだった。
大声で騒いだり、眉を顰めるような出来事も幾度かあった。
それは士分の者と士分では無い者の違いなのかもしれないと、要之助は思う。
気が遠くなる程の時間を掛けて定着してきた身分、その階層間には何がしか恐ろしい程の開きがあった。
それは両者が受けてきた教育と、強要される自己修養の差だといえるのだろう。

両者を見比べた時、薩摩隼人の生き方や在り方は美しいと思う。
だが非士分の彼らは、手を伸ばしたいと憧れた桐野やその周辺にいた人たちとは、まるで違っていた。
こういう非常時に剥き出しになったそれを目の当たりにして、要之助が驚いた事は確かだった。

しかし、と思うのだ。
この戦がなければ、彼らは平凡な生活を送っていた普通の人々ではなかったか。
自分が実方で暮らしていたのと同じように。
自分の意志で戦場に来た者もいるだろう。だが強制的に徴用されて来た者の方が随分と多い。
そうであるのに…

戦禍は主軸となり戦った人間より、離れられない土地で巻き込まれた人間、弱い立場にいる人間の方に多く作用している様な気がする。
理不尽ではないか。
そう思う。
彼らの話を聞いていると、頻りにそう思う。

戦場をかいくぐって、ここまで折角生き延びたのに。
少なくとも、今は、ここで生きているのに。
こんな所で生死が分からぬような目に遭うのは間違っている。
桐野は自分に「生きろ」、「生きることを楽しめ」と言って城山から送り出してくれた。
しかしこれは、…これは自分だけの話にしていいのだろうか…?

そんな事を思いながら苦しそうに呻く怪我人の背をさすっていると、本当にいたたまれない気持ちになる。
本当に何も出来ないのに、父親の様な年代の男に丁寧に「ありがとう」と頭を下げられると、泣きそうになる。


ただ苦しかった。





「呼ばれちょるぞ」

そんな時だった。
何かと思いきや、石蔵の戸口で政府軍の下士卒が要之助を探しているという。

「えっ?」
勿論探されるような覚え等無く、思わず河野の姿を追った。
「大丈夫じゃ。汝はやましい事等何もしちょらん」
堂々としろと言われ、そのまま前に出た。
戸口で名前を確認され、さっと軽く身体検査をされる。

「ついて来い」

下士卒は無愛想に言葉を投げると、先導するように前を進んだ。
振り返ると河野がひとつ頷いてくれた。
力を得たように頷き返して、その後ろを付いて行く。

(何処へ行くんじゃろう)

前後を挟まれて政府軍の陣営を歩いた。
行き先や目的を告げられないままであるから妙な不安は募ったが、
(何もやましい事はしちょらん)
河野の言葉の通りだ。びくびくする必要もない。
そう思うと歩きながら政府軍の陣営の様子を見る余裕が出てきた。

(随分と…)
薩軍とは様子が違う。
持っている銃器も一定の軍服で統一された佇まいも、薩軍とは全然違っていた。

(敗れて…然るべき戦だったんじゃな)
悲しいがそう感じる。垣間見た政府軍の姿は豊かなものだった。
圧倒的な彼我の力量差。
何も知らない人間でも、この差を目の当たりにすれば勝敗を否応なく予見できるのではないか。

(俯くな。…薩軍が敗れたんは恥ずかしい事じゃなか)

寧ろ半年以上持ちこたえた事を誇るべきだ。



「閣下、失礼します!」
(閣下?)

立ち止まった下士卒の声に顔を上げた。
開けられた扉の前に立つ。

「入れ」

背中を押される様に足を踏み入れた部屋の中には、ひとりの男が佇んでいた。



20201223改訂再掲/080815(7/21-7/25)
ちょっとメモ
濫觴。川の源の事で「物事の始まり」という意味



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