バルセロナに朝日が昇る。


 神田とともにマリと合流してから二時間。
 混乱していたわたしを殴って蹴って落ち着かせた神田の横にしゃがみ込み、息をひそめて夜明けを待ったものの、デイシャの足音は聞こえてこなかった。
 白みゆく夜空の静寂を掻き分けて、ゴーレムの羽音だけが近付いてくる。


「……デイシャのゴーレムだ」


 マリがぽつりと洩らした言葉に、わたしも神田も、何も言えなかった。


レゾンデートル


茨道でもそれでもまだ  後篇




 カトリック教会サグラダ・ファミリアからそう遠くない時計塔近くの街灯に、デイシャは逆さ吊りにされていた。
 デイシャは装備型エクソシストだった。アクマとの戦闘で死んだのなら遺体が残っているはずがない。必然、彼を殺害したのはわたしが遭遇したノアの青年と見られた。
 朝日が昇りきる前に下ろした彼の遺体は現在、バルセロナにある教団サポーターの教会に安置されている。

『解った。すぐに近場の探索部隊を向かわせる。……お前たちは怪我してないか?』

 受話器の向こうのリーバーの声は疲弊していた。
 後ろから科学班のみんなが慌ただしく働く声も聴こえる。

「うん。神田はいつも通りだし、マリもわたしも大怪我はしてない。このままティエドール元帥を追いかけるね」
『気をつけろよ』
「うん。そっちもね。忙しいと思うけど、体、大事にして」
『神田がいるから大丈夫だとは思うけど。あまり自分を責めるなよ』

 神田がいるから大丈夫ってなんだ。
 リーバーの謎の信頼に内心で首を傾げつつ、壁に凭れて小さく嘆息した。

「大丈夫だよ。泣いたって戦争終わんないもん」
『……ったくお前は……』
「それより、わたしノアと遭遇した。リーバーと同じか少し若いくらいの男性で、浅黒い肌と額に十字の美形」
『は? ノアと!?』

 ばさばさっ、と書類をぶちまけたような音とタップの悲鳴が聞こえたが大丈夫だろうか。

『大丈夫だったのか!?』
「大丈夫だってば。でもあれ本当、厄介な相手ね。氷壁を素手でぶち抜かれたのは初めてだから、ちょっとショック受けちゃった」
『マジか……!』
「ただ、単独で相手するのは厳しいと思ったから一目散に逃げたせいで情報がない。ごめんね」

 これに関しては平謝りするしかなかった。
 神田と合流した時点でやはり奇襲を仕掛けるべきだったかもしれないと、今では後悔している。リーバーは『無事でいてくれたらそれでいい』と宥めてくれたが、戦場に立つ者として自分を甘やかすわけにはいかない。
 リーバーもコムイもきっとわたしを責めない。
 だが中央庁はそうはいかないだろう。
 今回の任務に中央庁がどれくらい噛んでいるのかはわからないが、これが本部より上に知られたら失態を追及されるのは間違いない。

『……被害が増えてきているんだ。とにかくお前ら、無事に帰って来てくれ……』

 祈るような声音に、つい言葉を失った。
 本部にいるみんなも必死に戦ってくれている。戦いながら、わたしたちの無事を祈り、訃報を受けては悲しみ、それでもわたしたちを支えてくれる。
 この人たちを喪いたくない。
 そのためにも、わたしたちが勝たなければならない。

「うん……」

 汽車の切符の手配が済んだのか、神田とマリがこちらに視線を寄越している。「じゃあまた連絡するから」手短に通信を切って駆け寄ると切符を手渡された。

 車窓に流れる景色を眺めながら頬杖をつく。
 誰も口を開こうとしなかった。
 夜通しアクマと戦闘を続けて、夜明けとともにデイシャを捜索し、サポーターの教会に駆け込んで手当てを受けた。休む間もなく移動にかかったが不思議と眠気はない。元帥の目撃情報を辿るところ、あと数日で追いつけるはずだった。

 色々なことを考えた。
 わたしがノアに遭遇したとき、デイシャはすでに殺されていたのだろうか。それともわたしよりあとに遭遇したのだろうか。だとしたらわたしがあのとき逃げなければ、デイシャは今も生きていただろうか。あるいはあのとき、神田と一緒にデイシャを捜していれば……。
 任務で家族を喪うのは初めてではない。
 探索部隊もエクソシストも、何人もの最期を看取ってきた。遺体が残らなかった家族だって何人もいた。喪失の痛みも、悲しみも、やり過ごす方法を知っている。

 泣いても戦争は終わらない。
 神はまだ、我々人間を救わない。

「……交代で仮眠とろう。神田寝てなよ」
「は?」
「デイシャがいなくなったいま、このチームで最もキャリアが若いのは神田なのであった」
「若いとかいう年数でもねェだろ」

 確かに。神田でさえ九年。わたしは十年、マリはもう少し長い。
 ベテランばかりの集まるチームになってしまったなとちょっと微笑むと、眉間に皺を寄せた神田が六幻の柄で頭を小突いてきた。

「お前が寝てろブサイク」
「ブサイク言うな。昨日のノアは『こんな状況じゃなきゃナンパする』って言ってくれたわよ」
「目悪かったんだろ」
「こら神田、あまり女の子に向かってブサイクとか言うんじゃない」

 教団を発ってから、一ヶ月が経とうとしていた。


‥‥‥




 大抵のエクソシストはまずイノセンスとの適合が認められると、それを対アクマ武器として加工し発動できるようになるため、一旦本部へ召集される。
 そののちに然るべき元帥を師につけ、師匠と任務をこなす中で戦い方を身につけていくことが多かった。
 マリや神田ではそれがティエドール元帥に当たる。
 教団生まれのわたしはほとんど父が師匠のようなものだったが、関わりが最も深いという点ではソカロ元帥が該当した。一応周りにもそのように認知されているし、ソカロ元帥も「チビ小娘」「馬鹿弟子」と呼んでくる。

 とはいえティエドール元帥も全く知らない人というわけではない。
 なかなかの曲者、というか変人だということは解っている。

 仲間と別れたバルセロナを離れ、近隣の港から船を借り受けて海路を数日。
 その間はアクマの襲撃も不気味なほどぱたりと途切れていた。遭遇したノアもあれから追ってくる様子はなかったので、わたしたちは久しぶりに戦闘のない日々を過ごしている。
 話題も尽きたので、わたしとマリは延々しりとりをしながら上陸した。
 古代の遺跡が所々に残る海沿いの街道を足早に歩く。

「元帥」

 前を行く黒い団服に声をかけると、手元に視線を落としていた男性が振り返った。

「あれ! 久しぶり──ん」
「ご無沙汰しております、ティエドール元帥」

 近隣に聳える無人の遺跡の中で腰を落ち着け、わたしたちが元帥に追いつくに至るまでの長い経過を報告した。
 最初はふんふんと相槌を打っていた元帥だったが、ことが先日のバルセロナの一件に及ぶと、年甲斐もなくだらだら涙を流して泣き始める。芸術家だからなのかなんなのか、この人は自分の感情や使命感に実に素直な人だった。
 弟子を深く愛し、息子のように想ってもいる。

「そうか……デイシャが死んでしまったか……」
「遺体は昨日、本部へ輸送されたようです」
「『隣人ノ鐘』も奪われていました。──ティエドール元帥、一度我々とともにご帰還を」

 神田のその言葉を無視するかたちで、元帥は「デイシャの故郷は確かボドルムだったかな」と空を見上げた。
 マリが肯くと、戸惑う三人をよそに元帥がスケッチを始める。あっという間にトルコ湾岸の美しいエーゲ海を紙面に生み出すと、涙を浮かべた彼はその紙の端にマッチで火を点けた。

「デイシャ……絵で申し訳ないがキミの故郷を送ってやろう。どうか心安らかに……」

 エーゲ海が葬られていく。
 燃えていく絵を見下ろして、元帥は口を開いた。

「私は帰らん」

 厳かな決意。
 だが予想できていた答えだった。

「今は戦争中なんだ。元帥の任務を全うする。それに、新しいエクソシストを捜さないと……」

 彼の掌の中で焼け落ちた絵が、灰になって風に流されていく。
 その行きつく末を見守るように元帥は再び天を仰いだ。

「神が私たちを見捨てなければ、また新しい使徒を送りこんでくださるだろう……」

 この人ならばそう言うだろうと、弟子のマリと神田は予てから想定していたし、わたしもきっとそうなるだろうと思っていた。
 ──そう言うと思ったぜ。
 ──そうだな。師匠らしい……。
 そんな目と目のやりとりの横で、わたしはかつての記憶を思い起こす。

「神とは、人を救う存在ではなかったのだろうか」

 父の言うことはいまだに解らない。
 神はイノセンスを我々人間に遣わし、人間を使って、千年伯爵と戦わせる。
 神が人を救う存在だというのならば、神の使徒として世界のために戦うエクソシストを始めとする黒の教団のみんなは、もう十分すぎるくらい救われていいはずだった。



 神田とマリが嘆息とともに敬礼する。

「お伴します。ティエドール元帥」