アジア支部第六研究所職員の葬儀が秘密裏に営まれたあとも、わたしと父はしばらくアジア支部に滞在した。
 先の任務で片腕を失った父の療養と、アルマ暴走の一件で重傷を負ったわたしの治療のためである。
 研究所跡はアジア支部の番人であるフォーが跡形もなく破壊し、表立っての処理は科学班班長のバク・チャン主導で行われた。支部長と支部長補佐が今回の件で死亡したためだ。

 極秘とされていたその研究の最期に図らずも立ち会ったわたしたち親子は、その後処理に関わることになってしまった。

「バク、彼をエクソシストとして育成するのであれば、ひとまずの身分が必要になるだろうね」
「はい。いずれは中央庁から何かしらの指示が出るだろうとは思いますが……。恐らくユウはその正体を隠して、適合者として育てることになると思います」

 難しげな話をする父とバクの横で再会した、ユウの目は昏く淀んでいた。
 あくまで肉体的な話だが、年が近いという理由で、アジア支部にいる間わたしとユウはなんとなく傍に置かれていた。ユウのイノセンスが刀剣の形態をとったということで、父が彼の剣術を指南することに決まったというのも理由のひとつだ。

 手負いの獣のような目。

 父は寝台の上で死んだように蹲るユウの前にしゃがみ込み、穏やかな声音で「ユウ」と呼びかける。

「バクやズゥ老師とも話し合ったのだが、きみはわたしと同じ日本人ということにしておこう。鎖国状態の島国だから、誰もきみの正体を詮索することはできない。名前の響きも日本名に似ているから苗字も適当につけておく」
「…………」
「そうだな、あまりネーミングセンスがないから無難にいこう。神田でどうかな。日本の友人の苗字なんだ」
「……ぃ」
「どうした?」
「……どうでもいい」
「ふむ」

 当然の話だがユウはこちらに心を開こうとしない。
 研究所でともに過ごしたたった一人の友人を、再生しなくなるまでばらばらに破壊し続けたユウの心の傷は、誰にも想像できないほど深い。

「もうしばらくしたら中央庁がきみの今後の方針を打ち立てるだろう。恐らくは適合者として本部に向かい、イノセンスを使って戦う修行をすることになる」
「…………」
「きみの対アクマ武器は日本刀の形をとることになった。ズゥ老師が刀を鍛えてくれるそうだ。指示が出るまではやることがなくて暇だし、私のいいリハビリにもなるから、剣の稽古でもしようか、ユウ」
「……ぶな」
「なんだい?」
「ユウって呼ぶな……」
「ふむ」

 父の視線がわたしを向いた。
 どういう答えを求められているのかわからなかったので、首を傾げる。父も特に返答を期待したわけではなかったのか、口元には柔らかな笑みを浮かべ、目元を僅かに痛ましげに歪めると、ユウを振り返った。

「成る程解った。ではこれからは神田と呼ぶよ」


レゾンデートル


ストレイシープ  前篇




 父と神田の剣術稽古は実に実戦的だった。
 第二使徒の肉体性能に頼ってでたらめな攻撃を繰り広げる神田を、父が卓越した技術で退ける。父の教えがいいのか神田の呑み込みが早いのか(両方だろうが)、『新たに発見された九歳の日本人エクソシストの神田ユウ』は、みるみるうちに刀の使い手としての体裁を整えていった。

 わたしと同じくアルマによって重傷を負わされたマリも、医療班でゆっくりと傷を癒している。マリのために新しく性能のいいヘッドホンを造るのだと、毎日慌ただしくバクが病室に出入りしていた。
 エクソシストは死ぬまでエクソシストだ。
 父のように片腕を失っても、マリのように目が見えなくなっても、その体が動いてイノセンスを扱える限り、戦場から逃げることは赦されない。

 神田は不安定だった。
 父との稽古のときはなにかを振り払うように暴れ回り、姿を消したかと思えば幻覚症状に襲われて泣き叫んでいる。第二使徒という特性ゆえの症状と、友人を破壊したことに対する途方もない罪悪感に苛まれる彼を、救えるものは誰もいなかった。
 わたしはのんびりと療養しつつ、手負いの獣が、それでも強くなっていくさまを見守っていた。
 神田は確かに桁外れの身体能力を誇ったが、戦い方に関してはど素人だ。あまつ父は隻腕となったとはいえ教団随一の剣豪である。
 ぽーんと父に放り投げられる神田を何度救出に向かったことか。

 事件から一週間が経った頃、なんとなく眠れなくて、夜のアジア支部を散歩したことがある。
 修錬場に差し掛かったところで人の気配があることに気がついた。

「……神田?」

 神田が『ユウ』という名前を強く拒絶しているのは、関係者の間ではすでに有名な話だ。
 わたしも試しにそう呼んだら、音がしそうなほど鋭い目つきで睨みつけられたので、父のつけたファミリーネームで呼ぶことにしている。『自分にとってはなんでもないことでも、その人が嫌がっていることはしない』、それが母の教え。

 わたしが呼びかけた声に、修錬場の隅っこに腰かけて吹き抜けのホールを見下ろしていた神田が、獣のような仕草で音もなく振り返った。

 凪いだ殺意。
 この子はきっと教団が憎いのだろうなと思いながら、無防備にその間合いに入る。

「眠れないの?」

 そう訊ねて隣に腰を下ろしたが、反応はなかった。
 神田はわりと他人を拒絶する。今のところは父とマリ、ズゥ老師、あとわたし以外の人間が近くに寄ることをあまり良しとしていない。バクとは相性最悪。機嫌によってはわたしも拒否される。

「寝ないと明日の稽古でこてんぱんにされるよ」
「…………」
「食堂でホットミルクでも貰ってこようか?」

 神田が僅かにこちらに視線を向けた。

「ホットミルクっていうのは、牛乳をあっためてお砂糖を入れた飲み物。よく眠れるよ。お砂糖が入ってるから、また歯磨きしないといけないけど」
「…………」
「なにやっても眠れない夜はね、ホットミルクを飲んでお布団をかぶって、数字を百から逆に数えていくの。そしたらすぐ寝ちゃうよ」
「…………」
「神田? どこか痛いの?」

 神田がまた僅かに身じろぐ。
 その仕草を観察して、どうやら胸の辺りが不調らしいなと察すると、手を伸ばして彼の心臓の上に手を当てた。振り払われるかもとは思わなかった。それくらい、いまの神田は動きが鈍かった。

 拍動を感じる。
 造られた体だなんていまだに信じられない、わたしとおんなじ、生きた鼓動だ。

「このへん?」
「…………」
「痛いの痛いのとんでいけー」
「…………」
「神田の痛いの、あこやの膝のあたりにとんでこーい」
「…………」
「これはね、お母さんがよくしてくれたおまじない。お母さんはいつも『あこやの痛いのお母さんのお腹にとんでこい、あいたたたた』ってやってたよ。……本当に飛んでいくわけないのにね」

 ぽろりと涙が零れる。
 アルマに殺された母の火葬はすでに済み、もう二度と会うことは叶わない。

「……神田の痛いの、あこやの膝のあたりにとんでこーい」

 ぽろぽろ涙を零しながらおまじないを繰り返すわたしを、神田は虚ろな目で見つめていた。
 その日はそのまま二人で夜を明かした。



 どうやら神田は毎晩そうして修錬場に一人でいるらしい。
 眠らないまま一人で夜を明かし、数日を寝ずに過ごしてから気絶にも似た眠りにつく。いくら頑丈な体をしていても、それでは脳の方がもたない。
 困ったなぁと頭を悩ませる大人たちを見上げつつ、やがてわたしも神田の眠らない夜に付き合うようになった。

 大抵の場合、わたし一人で寝こけて神田の肩にもたれかかって朝を迎える。
 それを何度か繰り返してわたしが風邪をひくと、神田は修錬場に出るのをやめて、与えられた自室で眠らない夜を過ごすようになった。

 神田はなにも言わない。
 彼がまともに喋る声を聴いた人はあまりいない。

 神田はひとりで戦っているのだと思う。
 たった一人の友だちを、再生できなくなるまでばらばらに破壊し尽くした自分の中の、途方もない後悔と自己嫌悪と罪悪感、そして教団や世界に対する底のない憎悪。
 それに気づいていたのはわたしだけではなかった。

「神田」
「あ?」
「きみはどうしてアルマを破壊したのかな」
「テメエに関係ねえだろ!!」

 絶叫が迸る。それは神田の逆鱗だった。
『アルマ』という名を口にすることをわたしたちは避けていた。そうすることであの、あまりに大勢が亡くなった悲劇を、永遠の闇に葬り去ろうとするように。
 怒りで剣筋が単純になった彼を難なく躱しながら、父は静かに言葉の凶器で神田を抉る。

「きみには生きたい理由があった。アルマを破壊してでも生きなければならなかった」
「関係ねえっつってんだろうが……!!」
「何があってもその理由を貫き通しなさい。それがきっとアルマへの贖罪だし、おまえの心を守る唯一のすべだ。それを貫き通す限り、おまえがアルマを破壊したことはおまえ自身にも責められない」
「意味わかんねェんだよテメエ!!」
「解らなくていいよ。いまはね。でもきっといずれ理解せざるを得なくなる」

 父の刀が弾き飛ばされた。
 神田に押し倒された父の首筋に刃が突き立てられる。肩を大きく上下させて息をする神田にそっと手を伸ばすと、父は彼の頬にかかる艶やかな黒髪を掻き上げた。
 まるで、父親が子どもにするような仕草。

「アルマを破壊した理由のために生きる、そのために、いま、生きる力を磨くんだ」

 それが、父が神田に与えた最初の教えだった。

「……っ、イミわかんねーつってんだろ」
「そこまでおまえは馬鹿じゃないだろう。ほら立って、次はあこやと試合だ。あこや、おいで」
「えー……いまの神田怒ってるからやだ……」
「怒ってねーよ!!」
「怒ってるじゃん……」
「怒ってねえ! とっとと来いあこやッ!!」
「えー……」

 結局怒れる神田と十本勝負して九勝したその日の夜、彼の部屋を訪れてみると珍しく寝台に横たわっていた。
 もしかして寝たのかなと思って顔を覗き込むと、じろっと睨まれる。

「……また来たのかよ」
「今日は寝れそうなの? じゃあ帰る。おじゃましました」

 無言で腕を掴まれた。
 今日の神田は珍しく喋ってくれる。父との稽古でブチ切れたのがよかったのかもしれない。
 いそいそと寝台に潜り込んで二人でごろごろしていると、神田は小さく溜め息をついた。やっぱり眠れないのかなと思いながら、投げ出されている手を握る。
 なんとなく、振り払われるかもとは思わなかった。

「ひゃーく」
「……なんだよ」
「きゅうじゅうきゅう」
「なに数えてんだよ」
「きゅうじゅうはち。……前に言ったじゃん、布団かぶって数字を逆から数えたら寝れるんだよって。ほら数えて、九十七」
「…………きゅうじゅうろく」
「九十五」
「九十四」
「九十三……」
「九十二……、……」



 翌朝、いつもの時間に起きてこないわたしと神田を心配したバクが部屋を訪れて大絶叫したらしい。
 父は後ろからひょこっと覗いて「いい傾向じゃないか」と笑ったという。