神田の剣筋は真っ直ぐで解りやすい。
 恬淡とした父のそれとは対極的で、だからわたしにとっては攻略が容易かった。身体能力にものを言わせて力で押しきろうとする戦い方が心配だったが、今の時点でそこまで矯正することはできない。
 神田との手合わせが九十八戦目を数えた頃、マリ専用のヘッドホンが完成した。
 まるで示し合わせたかのようなタイミングで、ズゥ老師が手掛けていた神田の対アクマ武器『六幻』も加工を終えたそうだ。

 わたしとマリの怪我もほとんど治っていた。


「時間的にもそろそろだな。きりよく百戦目を最後にしよう。始め」

 父の合図とともに神田が馬鹿正直に突っ込んでくる。
 アルマを破壊した直後の彼では考えられなかったほど、その真っ直ぐな性根が露わになったなかなか正直な剣先。「強くなる」「とりあえずあこやを倒す」「その次はカゲマサに勝つ」その三つの意志しか籠もっていない、明朗で陰惨な切っ先。
 受け流していて気持ちがいい剣筋になった。

 ちなみに戦績は、九十一勝二敗の六引き分け。
 六の引き分けは時間切れだ。父は規則正しい食事時間を信条にしているので、十八時半になると稽古が強制終了される。

「あこやテメエっ、たまにはまともに打ち合え!」
「打ち合ったら力で敗けるもん。神田こそもうちょっと流すことを憶えなよ」
「うるせェ!」
「そんなんじゃ実戦に出たときすぐ死んじゃうよ、いくら治るっていっても戦闘中に負傷して動きが悪くなったら困るのは仲間なんだから」
「ごたごたうるせーなテメエは!!」
「神田は語彙が少ない」

 ぶち、と神田が解りやすくキレた。「死ね!!」と思いきり物騒な文句を口走りながら大上段に竹刀を振り上げる。
 がら空きになった胴をすぱんと一閃すると、神田は悶絶しながら倒れた。

「ッッッ……」
「それまで。あこやの九十二勝だな」
「はーよかった。まだまだ神田には敗けられませんからなー」
「このぶんだとすぐ神田の方が強くなるだろうな。精進しなさいあこや」
「はい、師匠」


レゾンデートル


ストレイシープ  後篇




 第六研究所の壊滅から二週間が過ぎた頃に、中央庁から今回の件に関する司令が届いていた。
 このとき神田はまだ眠れぬ夜を過ごし、わたしやマリは医療班のお世話になっていたところだ。年若いバクはこの事態に父をよく恃み、意見を求めることが多かった。

 中央庁からの指示は父やバクの想像通り『第二使徒YUをエクソシストとして実用化するため本部へ召喚する』。
 その書面を読んだ父から冴え渡った底冷えする殺意に、バクがそっと目を逸らして涙目になっていた。実用化、その単語が父の逆鱗に触れたのは言うまでもない。

「バク」
「は、はい」
「ご両親が亡くなったばかりのきみに大変なことを頼むのは心苦しいが、どうか、第二使徒計画の永久凍結を必ず実現してくれ」
「……承知しています」

 アジア支部は今回の一件で支部長と支部長補佐を一度に失い、優秀な科学者も多く犠牲になっている。
 特にチャン家の嫡子であったバクには、家督の相続と支部長昇進が一気に降って湧き、いまは目も回るほどの忙しさのはずだった。

「レニーもエプスタイン家を継ぐために北米支部へ戻りました。彼女と協力して中央庁に掛け合い、必ず計画を停止します。もう二度と……」

 父の殺意に怯えていたバクが、ぽろりと涙を零す。
 大袈裟でやかましくてそそっかしいお兄さんだが、彼はとても優しい人だった。

「もう二度と、このような悲劇を……」

 続きが涙に敗けてしまったバクの肩を父が抱く。
 彼はこの研究のことなど何も知らなかった。そうするように、彼のご両親が徹底して情報統制していたからだ。それでもチャン家の当主となったバクは、この過ちを一身に背負って生きようとしている。

「あこや。マリのお師匠は確かティエドール元帥だったね」
「うん、そうだよ」
「……ちょっと町に出て電話してくる」
「電話機でしたらこちらに……」
「いいんだ、ついでに用事もあるから」

 電話機なら支部の中にもあるのに、父はわざわざ外に出た。
 バクは首を傾げていたが、わたしはなんとなくその意図がわかったような気がした。


 そしてこの日の鍛錬で父は言葉の凶器で神田を抉り、憎悪の海の中で静かに死のうとしていた神田の切っ先を掴み起こした。
 同時にマリのヘッドホンの作製と神田の『六幻』の加工を急がせるようバクに指示を出す。
 なにかの準備を整えようとしているようだった。



 一緒に倒れるように眠りについたあの日からなんとなく、神田と同じ寝台で寝るのが習慣になっている。
 バクは「子どもとはいえ男女が同じベッドで寝るなんて」とかなんとか言っていたが、父が「まあ仲良くしなさい」と笑っていたし、神田も特にわたしを蹴り落そうとはしなかったので、本当になんとなくだ。

 毎日寝るようになったはいいが、神田はひどく魘される。
 それを起こしてやるのがわたしの仕事だった。
 揺り起こして、「どうしたの神田」「悪い夢でも見たの」と訊ねて、わたしをひどく鋭い目つきで睨む神田の傍にいて、お手本を見せるように横になって、静かに目を閉じる。しばらくこちらに殺意を向けた神田は、たまにわたしの首に手を掛けようとして、やめて、大きく息を吐いて、泣きながら横になる。

 このままだと多分、神田はエクソシストとしての実用化どうこうの前に壊れる。
 子ども心にそう考えながら、でもどうしてやればいいのかも解らなかった。

 そして、神田との手合わせが九十二勝二敗六引き分けを数え、マリのヘッドホンと神田の六幻が完成したその日の夜。

 夕食の帰り道、父に呼び止められ耳打ちされていた。「今日は自分の部屋で寝るんだよ。いいね」
 神田にどう言い訳したものかと思いながら頷いた。

 いつも通りにシャワーを浴びて、久しぶりに自室の寝台に潜り込む。結局神田にはなにも言わずにおいた。
 夜が深まった頃に扉がノックされて、父が顔を出した。「ついておいで」と手招きをされたので、ぽてぽてとその後ろをついていくと、アジア支部の入口となる扉の前で足を止める。
 少しして足音がふたつ近づいてきた。

 マリを背負った神田だった。
 確かに、盲目のマリが走るよりも神田が走った方が早いし、おんぶした方が足音も消せる。着の身着のままといった様子だが、明らかに逃亡の構えを呈していた。
 わたしたちに気づいた神田が足を止めて「テメエら……」と呻く。
 足音や気配を消すのが癖になっているわたしたち親子なので、マリにはなにも聴こえていなかったようだ。

「……どけ」
「こんな夜中に二人でどこへ行くつもりだ」
「どけっつってんだろ……!」
「大きな声を出すな」

 しぃ、と父は人差し指を唇に当てる。
 ぐっと言葉に詰まった神田に背負われたマリが「カゲマサさん」と必死の声を上げた。

「どうか我々を通してください。いま私たちは……教団には……」
「解っているから大きな声を出すなと言っているんだ。神田、マリを下ろして二人一緒にこちらにおいで。私もあこやも丸腰だから、その気になったら六幻で斬り捨てていくといい」

 しばらくこちらを睨んでいた神田だが、泰然として落ち着き払った父の様子になにかを感じたのか、それともこの三週間ほどの付き合いで父の為人を信用したのか、マリとともにゆっくりと近づいてきた。
 父は抱えていた袋の中から脇差を取り出して神田に握らせる。
 それからお金の入った袋はマリに手渡した。

「これは私が日本からこちらに来るときに持ってきた脇差。おまえの体格で大刀はまだ早いからこれで稽古しなさい。マリも、逃げるのはいいが先立つものも持たずにどうするつもりだ。ティエドール元帥に連絡をつけてあるから、ここを出たらとにかく成都を目指しなさい。中国貨幣に替えてある。神田に使い方は教えた」
「カゲマサさん……」
「いまの立場では私もバクもおまえたちを守ってやれない。すまない」

 すまない。
 大人の都合でおまえたちに辛い思いをさせる。
 守ってやれなくてすまない、このような形でしか手を貸せない私を許してくれ、本当にすまない……。

 自分よりも体格のいいマリを息子のように抱き寄せて、父は何度も謝った。

「それからイノセンスは持っているだろうが、アクマを斃す以外では決して発動しないようにしなさい。教団や神に背くかたちで発動すると咎落ちになる可能性がある。戦闘はできるだけ避け、元帥と合流してから今後どうするか考えるんだ」

 教団から逃げだすふたりに心得を言い聞かせながら、父は神田の頭も撫でる。
 脇差を見下ろしていた神田は、父の手を黙って受け入れていた。

「いまはとにかく中央庁と本部から離れろ。ティエドール元帥ならどうにか掛け合ってくれるはずだ……」

 ふと、神田と目が合う。
 昨日も魘されていた。彼はまだなにものからも解放されてはいない。そんな神田がこれからの旅路で悪い夢を見ても、わたしはもう起こしてやれない。
 髪の毛をくくっていた組紐を解き、神田の顔を掴んで後ろを向かせると(グキっという音と「痛ってぇ!」と悲鳴が聞こえたが無視)、伸びるに任せてぼさぼさになっている黒髪を一つにまとめていく。

「髪の毛邪魔でしょ。どうせ神田は面倒がって手入れなんてしないんだから、せめて結ぶとかしないと」
「……余計なお世話だ」
「これわたしのお母さんの形見だから失くさないでね?」
「いらねーよンなもんッ」

 がぁっと勢いよく吠える神田にちょっと笑った。「約束ね」

「約束。ちゃんと返してね」
「……次は殺す」
「キッチリ殺し返す」

「物騒なあいさつだな……」マリがげんなりした表情で呟いたのが面白かった。



 遠ざかっていく二人の後ろ姿を見送る。
 アジア支部の建物は守り神であるフォーが監視していると聞いていたが、逃げていく二人に対してなんの反応もなく、やがて彼らは夜の闇に紛れて消えた。父はどこともなく天井を見上げると、「ありがとう、フォー」と小さく呟く。
 応えはなかったが、父は穏やかに微笑んだ。

 なんだかんだでここ最近は神田と一緒にいるのが当たり前になっていたので、なんだか無性に別れが寂しかった。
 次、生きて会える保証はどこにもない。

「……お父さんは神田のことが好き?」
「どうした、急に」
「お母さんを殺したのは神田の友だちでしょ。うまく言えないけど、神田を見ていて、お母さんを殺したあの子のことを思い出したりはしないの?」

 自室に帰りながらそんな話をしていると、父はわたしの頭を撫でた。

「アルマと同じ第二使徒である神田が憎くはないか、ということだね」
「うん、多分そう」
「複雑な気持ちが全くないといえば嘘になる」

 母を殺したアルマは神田が殺した。
 神田はなにも悪くないし、きっとアルマにも想像を絶する葛藤があったはずだ。確かに母は第二使徒計画に携わっていたけれど、だからといって問答無用で皆殺しにされてよかったなんてどうしても思えない。
 アルマと神田の境遇は不幸なものだった。
 父はそうわたしを諭したが、確かに不幸だったとはいっても、わたしはまだそこまで切り替えて考えられるほど大人ではない。

「あこや、憶えておきなさい。憎しみに敗けて揮う刀で護れるものなど何もない」

 それでも、母を喪ったわたしには父がいて、母を喪った父にはわたしがいた。
 アルマを壊した神田には、深い傷と罪悪感と憎悪以外なにもない。
 そのことだけは忘れてはならなかった。

「憎しみの連鎖を己で断ち切ることが、悲劇を繰り返さないための最も近道となる。いいね」
「はい師匠」
「救世の正義を掲げて刀を揮うとき、我々は常にその切っ先を己に向けなければならない」

 父の言うことは大抵難しくて、子どものわたしにはいまいち解らなかった。
 それでも肯いた。

「はい、師匠」



 神田とマリの失踪はアジア支部の一部と中央庁に大きな衝撃を与えた。
 鴉部隊も動員してその行方を探したものの杳として見つからず、その生存の確率も低いと思われ始めた頃、ティエドール元帥から本部に対して連絡が入った。

 非人道的な第二使徒計画に対する抗議である。
 即座にその計画を凍結しない限り、保護している神田とマリとともに逃亡し、イノセンスを放棄することも辞さない──
 その厳重な抗議は、計画停止を中央庁に訴えていたチャン家とエプスタイン家の追い風となり、やがて第二使徒計画は永久に闇に葬られることとなった。