「時どき自分は一体何をしているのだろうと思うことがあります」

 その日の宿で夕食を摂りながらぽつりと零すと、ティエドール元帥はぱちぱちと瞬きをした。

「神田を追っかけてる現状のことかい?」
「いいえ、もっと根本的な……。昔はイノセンスを確保してアクマを斃していればそれでよかった。なのにいつの間にかノアの一族、十四番目の宿主となったアレン、割り切ることのできない問題が増えて、北米支部では教団の暗部まで露呈している。勿論わたしが今まで知らなかっただけなんですけど」
「無理もない」

 元帥は静かに頷いた。

「キミは特に……。難しい境遇にあるからね」
「思えば、単純にアクマを破壊していれば褒められたあの時代は幸せでした」
「それを幸せだなんて言ってはいけない。キミももっと世界の美しさを知るべきだよ」

 世界の美しさ。
 任務先で見たきれいな景色とか、教団の家族たちの温かさとか。そんなものは色々あったはずなのに、もう上手く思い描くことができない。

 この世界は、そうまでして救う価値のあるものか。
 この世界は、あんな犠牲を払わせてなお、救われるに値する世界であるのか。
 救われるために罪悪を重ねてゆくわたしたちを、神は本当に救うだろうか。

「……わたしは結晶型にはならないだろうな」

 むしろ咎落ちのほうが早いかもしれない。
 心のなかで呟くと、元帥は「滅多なことを言うものではないよ」と静かに蓋をした。


レゾンデートル


無垢の終結 1




 一度フランスでわたしを撒いた神田の足跡は、その後途絶えた。
 このままでは埒が明かないと判断したのか、中央庁が追跡に口を出しはじめている。本部にいるマリとリナリーが事情を知っているとみて拘留なんて話にもなっているらしく、本部からの通信でそれを知った探索部隊は朝から血相を変えて町へ繰り出した。

「あまり悠長にしていられないねぇ」

 それは逃亡する神田に対する心配だろうか、マリとリナリーが拘留されることに対する危惧だろうか。フワフワしているように見えて抜け目ないティエドール元帥だから、深意はわからない。
 元帥は髭を撫でながら「いいの?」と首を傾げる。

「何がですか?」
「このままだとユーくん捕まえちゃうよ」
「これで捕まるようならそこまでですよ」

 元帥は「お互いに厳しいなぁ」と笑った。
 神田はあれで歴戦の戦士だ。例え治癒の呪符が限界を迎えようとしていても、結晶型となった六幻が傍に在るのだから単純な戦闘で引けを取るはずがない。団服のまま出ていくという迂闊さはあるにせよ、探知機能のある無線ゴーレムはオフにするくらいの冷静さがある。
 何事もなければ、そう簡単に捕まりはしない。前回はわたしを釣るためにわざとゆっくり動いていただけだ。中央庁の鴉が追跡に駆り出されても、個人的に怨みがあるだろうから嬉々としてボッコボコにしそう。

 ──だから「神田のゴーレムがつながりました」という報告を受けたとき、何かあったのだと解った。
 ゴーレムを起動するほどの事態なのだ、と。

「探知機能で神田のゴーレムを捜します!」
「うん。見つけたら教えてくれ。私たちで対応する」

 教団のゴーレム同士は、十キロ圏内であれば互いの位置を探知することができる。探索部隊とティエドール元帥のゴーレムがパタパタ羽搏いていくのを駆け足に追いかけた。

 ベルギーはアントウェルペン。
 整然とした街並みの美しい地だった記憶があるのだが、なぜか通りに大きな穴が開いている。破損状態からしてそう時間は経っていない。ごく最近、この場所で何者かが戦ったのだ。
 それにしては街行く人々が冷静すぎるような気がする。
 戦闘があったこと自体誰も知らないかのような。
 なんともいえない違和感に眉を顰めていると、視線の先に見覚えのある刀が一振り落ちているのを見つけた。

「元帥。これ……」
「六幻だね」

 鞘から抜けた状態の六幻。少し離れたところに鞘も転がっている。
 あの神田が、六幻を鞘から出したまま、道端に放り投げてどこかへ行くなんて。
 ……胸騒ぎがする。

 ぎゅっと胸元を掴んだとき、「いました!」という探索部隊の声が聞こえた。死体を発見したテンションじゃないから、ぱっと見は生きているのだろう。
 路地を覗き込む探索部隊の三人がこちらに向かって手を振っている。

「最初はちゃんと真面目な話から入るから、笑っちゃダメだよ。あこやは黙って怖い顔しててね」
「あ……はい」
「元帥、あそこです」
「キミたちじゃ返り討ちにされるだろう。私とあこやで話すから見張っていてくれ」

 探索部隊を下がらせ、わたしたちは六幻を手にゆっくりと近寄った。
 ティエドール元帥は前言通り、至って真剣な表情で六幻を地面に突き立てる。

「六幻が道端に落ちていたよ。神田」

 神田は地面に尻餅をついた体勢で、頭を押さえてぼうっとしていた。
 ひとまず目に見えてひどい怪我はしていないし、治癒能力が働いたばかりという形跡もない。

「なぜ無断で教団を出た? キミはアルマ=カルマとの逃亡で一度、中央庁の信用を失っている身なんだぞ」

 マリとリナリーが拘留されるかもしれないという話を元帥がしても、神田はどこか茫然としたような表情で、何かを思い出していた。
 ……へんだ。
 ゴーレムを起動したことといい六幻が落ちていたことといい。
 元帥の後ろから出て「神田」としゃがみ込む。すると突然、神田は左胸を押さえて苦しみ始めた。

「ぐっ……」
「神田!? どうしたの神田」

 地面に蹲り今度は嘔吐する。慌てて頭を抱き込むと、両眼からぼろぼろと何かが零れたのが見えた。
 涙じゃない、これは、羽根?
 見たことのない苦しみかたに手が震えた。膝の上で呻きながら嘔吐する神田が、喉を詰まらせないように見ているしかできない。何だこの尋常でない反応は。アクマと戦ったのか。ならばこれはアクマの能力?

「神田!!」
「っ……」

 やがて荒い息を吐きながらどうにか落ち着いた神田は、自分が座り込んでいた場所に落ちていた黒い塊を見てはっと我に返った。

「ティムキャンピーか……?」
「ティムだと?」

 わたしも元帥もその黒い塊を見て眉を顰めた。ティムはだって、サイズは若干成長気味だったけど(ゴーレムが成長というのも変な話だけど、まあティムだし)、アレンが大切に大切に磨いていたボディは黄金色をしていたはずだ。
 ということは、一応アレンと合流できたのか。

「おい、あいつはどこ行ったんだよおい! どうなってやがる……っ」
「本当にティムなの? なんで再生しないの?」

 神田にはそろそろ色々説明してほしいのだが、その前に、周辺の見張りをお願いしていた探索部隊が息せき切って走ってきた。

「大変です、ここから東南の地点でアレン・ウォーカーを発見!!」

 アレン捜索任務についていた別動隊から応援要請があったという。探索部隊たちはそちらへ向かうらしい。
 じゃあやっぱり、さっきまで一緒にいたんだ。

「科学班のギルも一緒です。すぐ先の駅へ向かってます!!」

 それを聞いた神田は、ティムキャンピーだという黒い炭の塊をわたしの両手にそっと落とした。
 全然話についていけないわたしをよそに、多分同じく全然話についていけないティエドール元帥の胸倉を掴み上げる。
 えっ、なに、結局これはティムなの?

「ちょっと、神田……!」

 淡々とした表情を崩さない元帥。珍しくポーカーフェイス。
 それに気圧され気味だけど必死の形相で睨む神田。
 ティムを両手に載せたまま途方に暮れるわたし。

「あははははは!!」

 結局、元帥が最初に噴き出した。
 びゃっと涙まで浮かべて。あまりに唐突だったから神田は一瞬ビクッとして、それからやっといつも通りにキレた。

「何だよ!!」
「やーキミはホント、あはっ、不器用だなーと思ってあはははは。私に頼みごとがあるんだろう?」
「…………」

 神田がわたしをギッと睨んだ。ので、イヤイヤわたし何も言ってないよと首を振る。
 様子のおかしい神田とティムキャンピー。それだけで元帥は何が起きたのかを大体把握してしまったに違いなかった。

「おかえり、ユーくん。キミに会えて、本当に本当に私は嬉しい。これを先に言うのを忘れていたね」

 北米支部にいなかった元帥にとっては実に半年ぶりに会う弟子なのだ。
 こんなきな臭い状況になってさえいなければ、滂沱の涙を流して神田を羽交い絞めにしてキレられながらもぐりぐり撫でくり回したかったに違いない。そういう人だ間違いない。

「表向きは神田ユウの追跡及び捕獲任務だが、私がここへ来た目的はひとつだ。可愛い弟子のキミを守ること! だがどうやらキミは」

 元帥はここで言葉を切って、わたしのほうを一瞥した。

「……キミたちは。だいぶ危なっかしいことをしていたようだな」
「…………」
「あこやも。らしくない橋を渡って」

 そっと目を逸らしてしまった。神田とジョニーに接触してわざと逃がしたことだ。普通にばれてる。

「……頼みます元帥。あいつが『十四番目』になったときは必ず俺が斬る。だが今はあいつらを行かせてやってほしい」

 ダメというなら今ここであんたを殴って気絶させる、と本気で師匠を脅す神田に、ティエドール元帥は黙った。
 神田と元帥のガチンコ勝負、ちょっと見てみたい。けどそういう場合ではないのは解っているのでわたしも神妙な顔をしておいた。

「さっきも言ったがキミは中央の信用を失っている」

 中央庁は甘くない。ジジは中央の人間を、人の心がない嘘つきばっか、と毛嫌いしている。今回神田が北米支部から逃亡した件についても、第二使徒計画で生まれたYUに対して情状酌量する素振りすら見せなかった。
 そのうえで、戻った神田が即座に出奔している。
 ここで大人しく本部に帰ったところでどんな処分が待っているか。神田の逃亡は師匠であるティエドール元帥の責任でもあるのだ。

「だから条件は中央庁にキミの忠誠心と力を見せること。それなら協力しよう」

 アレンが方舟の操作権を持っていると判ったときと同じ。
 捨てるには惜しい、と思わせなければ。

「──元帥になりなさい」

 神田が固まった。
 ティエドール元帥がそう言うことは半ば予想していたものの、あの神田が元帥。やっぱりわたしも呆気に取られる。
「うまいことに丁度いま元帥が不足してて上の人たちが困ってるしね」「いーじゃないこの際あこやと仲良く元帥やんなさいよ」とまあそんな具合で神田の言質を取った元帥は、ご機嫌でアレンとジョニーの捕捉を始めてしまった。

 ……で、わたしはいつまでティムを抱えていればいいのかな。
 再生機能があるはずなのにうんともすんとも言わない黒い塊。なんだか不安になって見下ろすと、その瞬間、手の中で塊がぼろぼろと崩れ落ちて砂になってしまった。

「──えっ、やだ、ティム!」
「オイ、落とすな! なんか容れもんねーのか」
「なんであると思うの。ちょっと神田端っこ押さえて」
「チッ、お前なんでこんな手ちっせーんだよ」
「ねえ文句つけるところそこ?」

「相変わらず仲良しで安心したよ」と、ティエドール元帥が荷物をごそごそ探って、取り出したのは一つの瓶だった。
 神田から渡された絵を持て余すわたしのために元帥が用意してくれたものだ。元帥が中に入っている絵を取り出して口を向けてくれたので、掌の隙間から慎重にティムの残骸の粉を入れていく。
 もしまた再生することがあったとき、どこか足りなくなっていたら可哀想だ。
 元帥は丸めた絵とティムの入った瓶をわたしに持たせて踵を返す。

「ウォーカーとギルのことは任せて、二人はちゃんと話をしてなさい」
「元帥、わたしも行きます。ノアがいるかも」
「いいからいいから。馬車道で合流ね」

 要らぬ心配なのはわかっているんだけど。
 ……二人で残されるのも、ちょっと……。

「この先こんな風に二人きりになることなんて、もうないかもしれないよ」

 元帥は飄々とした様子で、なんなら神田を元帥にする予定ができたのでちょっとご機嫌に路地を出て行った。
 ちらと神田を見上げると、ちょうど見下ろしてきた碧眼とぶつかる。
 確かに、前回の再会時はジョニーがいた。これからはアレンとジョニーが合流するし、本部までは元帥もいる。本部に帰ればまた色々あるうえ、わたしたちは二人揃って元帥になることになっているのだ。今までのように任務で一緒になることも減るだろう。

 神田は眉を寄せてなんとも言えない表情になると、ふいと顔を背けた。

「捨てろよ」
「……はい?」

「それ」と指さされたのはわたしの手のなかにある絵だ。
 神田がくれた、どこかの海の絵。
 ……そういえばこの絵を貰ったとき神田にファーストキスを奪われたんだった。次に会ったとき絶対ブン殴ると決めていたことを今思い出して、両手が絵と瓶で塞がっていたので全身全霊で肘打ちを叩き込む。
 神田は珍しくまともに喰らって蹲った。
 よっぽどいいのが入っちゃったみたい。

「テメ……」
「捨てないよ。ていうかこの絵、どこ?」

 事故。
 ──ファーストキスは事故。神田だってジジに奪われたんだし、たいしたことじゃない。
 事故あれは事故あれは事故、神田の故意だとしても事故。いや、故意は事故ではないのでは。過失だ。神田の過失。それも変な話だな。
 必死に平常心を保っていると、しゃがみ込んだままの神田が「イタリア」と呟く。

「イタリアなのは……解ってる」

 きっとアレンがゲートを開いたのはマテールで、あの複雑な地下通路の、ララとグゾルが眠る静かな砂海で、神田とアルマは最期を迎えただろうから。

「きれいな海を見たんだね」
「…………」
「わたしもドイツで海を見たよ。いつかほとぼりが冷めた頃、神田の死体を捜しに行こうって思いながら」

 なんであのとき、キスなんかしたんだろ。
 不思議に思ってはいたのだが、訊ける雰囲気でもないし、訊いたらプンスカしそうだし。意味もなくそういうことをする人ではないはずだけど、特別な意味を感じたかと言われると、どうにも。
 それよりは「ただいま」のほうが、衝撃が大きかったし。

「わたしもしてみたらわかるかな?」
「はあ?」
「ちょっとじっとしててね」

 一回されたらもう二回も三回も変わらない気がする。相手は神田だし。
 立ち上がるタイミングを逃したままの神田の横にしゃがんで、顔を近付けて唇を重ねた。前回と違って今度は神田が目を丸くする番だ。見開かれた青い双眸を見つめながら唇を離すと、至近距離で見つめ合ったまま神田が茫然と「お前、いきなり」と零す。

「この聖戦が終わったら……」
「いやお前いきなり何を」
「エクソシストとか元帥とかそういう肩書が必要なくなって、ただのあこやと神田になれたら、連れて行ってね。この海に」

 もしかしたらそんな日は永遠に来ないかもしれない。
 だけど夢見るくらいはいいだろう。
 戦争が終わって、教団がなくなれば、わたしにはもう何も残らない。同じく身軽になれるはずの神田と二人、残り少ない日々だとしても、穏やかな海を見つめる時間くらいはくれたっていいじゃないか。
 ねえ、神さま。

「……わかった」

 神田は一言そう答えた。それから顔を傾けて、唇に触れた。
 このとき、互いの吐息がかかるほども近くで青い瞳を見つめながら、初めてアルマの理不尽を赦せた気がした。

 わたしは生きて、まだ、神田と戦える。
 戦争の終わりを夢見ることができる。
 これ以上の幸福はない。

「目くらい閉じろ」
「誓いのキスみたい」
「頭湧いてんのか。行くぞ」

 その言い分があまりにも神田だったから、わたしはなんだかおかしくなって、笑いながら立ち上がった。