日本に近づくと、これまでわたしたちを連れてきてくれた船や乗組員に別れを告げ、小舟を下ろして改造アクマに押してもらうことになった。
 中国へ帰るまでの航路でアクマの襲撃を受ける可能性がないわけではない。戦う力を持たないサポーターには早めに折り返してもらう必要があった。

「ほい、じゃあ三時間交代だ。神田とあこやは体を休めていなさい」

 水平線に僅かに浮かぶ島国を見ていたわたしは、ティエドール元帥のその言葉にぱっと振り返る。

「はっ? いえ元帥、わたし大丈夫ですよ」
「だがあこや、いまは神田が横に控えていないと寝られないだろう、元帥も仰っているし休んでいた方がいい」
「マリまで……。あの、大丈夫です本当に、別に神田がいなくても寝れますよ、子どもじゃあるまいし」
「テメエのそれは睡眠じゃなくて気絶っつーんだよ!!」
「痛ぁぁぁい!!」

 容赦ない蹴りが脛に直撃した。
 脚を抱えて悶絶していると、フゥと溜め息をついた元帥が呆れたように笑う。

「全くいくつになっても相変わらずだな、キミたちは」


レゾンデートル


ふたつの足枷  2




 改造アクマの案内で人目につかない港に下りると、わたしたちは身を隠しながら江戸へと向かった。
 上陸から四日目。
 江戸を一望する丘の上から薄桃色の花弁の木々の中に紛れて、江戸城付近の戦闘模様を見守る。

「……きれいな花」
「だろ! サクラっていうんだぜ!」
「へえ。元帥これ描いてくださいよ」

 すっかり仲良くなったアクマとのんびり会話していると、神田に頭を叩かれた。
 被っていたフードをばさりと脱いで、吹き上げる風に外套の裾をはためかせながら、宙に浮かぶ江戸城の周りで暴れる巨人のようなアクマ二体を睥睨する。

「ゴツイのがいるぜ」
「絵はあとでね。……マリ、キミの耳で何が聴こえる?」

 身に纏っていた外套を脱ぎ去ってアクマの頭に被せると、紐で髪を後頭部にまとめた。わたしは背中に『薄氷』を背負っているので外套はむしろ邪魔になる。
 ここまでの道中、戦闘は殆どなかったから着たままだったが、もうそういうわけにもいかないだろう。

「アクマの膨大な機械音に混ざって、かすかにリナリー、ラビ……クロス部隊の声が聴こえます」

 神田とともに視線だけ背後の元帥に送る。
 彼は当然のように口元だけで微笑んだ。

「うん……行ってあげなさい」

 その言葉の終わらないうちに跳躍の体勢に移っていたわたしと神田を先頭に三人で飛び出す。

「美形のノアがいたらわたし」
「ふざけんな。どう見てもあのゴツイのがテメエ向きだろ」
「チッッ」
「あこや……神田みたいな舌打ちをするのはやめろ」

 緊張感のないやりとりをしながらひた走り、ある程度の距離で散開した。
 数千の雑魚が折り重なって生まれた巨大なアクマが二体、それに加えてノアが二名(バルセロナで出くわした美形とわたしたちを追ってきていたストーカー)、そして江戸城近くに控える千年伯爵との大混戦。
 神田がノアの青年に捕えられているリナリーたちの救出に向かい、マリとわたしでアクマにかかる。

 アクマに振り払われて家屋に突っ込んだ二つの人影の近くに降り立った。
 一方は見覚えがないから恐らくリーバーが言っていた即戦力の新人だろう。名前までは聞いていなかったな、そういえば。

「ブックマーン! 生きてます?」
「おお……、もしやあこやか!?」
「助太刀します。神田とマリ、後ろにティエドール元帥もいます」
「有難い!」

 面通しが済んだところで薄氷を抜くと、またもう一人突っ込んできた。
 なにが飛んできたのか解らなかったが、「ラビ!?」という新人の声で把握する。「うっす」と力なく応えたラビにブックマンがキレていた。

「何やっとるアホ! 奴をボコボコにするんじゃないのか、お前がボコボコになってどーすんじゃい! しっかりせぇボケェ!!」
「くそじじいその台詞そのまま返すさ……」
「わしゃ年なんじゃ!」

 ティエドール部隊にはほとんどなかった漫才のような応酬にちょっと笑うと、ラビがこちらを見上げて「あこや!?」と左目を丸くした。

「や、ラビ。奇遇だね」
「奇遇とかそういう話じゃねーだろ! てことはユウもいんのか」

 彼は教団内で、ティエドール元帥を除いて唯一、神田の鬼の形相にもめげず彼を『ユウ』と呼ぶ存在だ。
 強力な助っ人にラビがちょっと顔色を明るくした瞬間、「エクソシスト様!!」という耳慣れない呼称の悲鳴が聞こえてきた。険しい表情になったラビがすぐさま跳んでいく。
 あちらには神田が向かったからそこで合流するだろう。

 イノセンスを発動すると、マリの弦に捕まったアクマが絶叫した。

「気をつけろあこや、あいつかなり硬い」

 瓦礫を掻き分けながら立ち上がったブックマンに苦笑する。付き合いの長いエクソシストならほとんど言わない気遣いだ。
 曲がりなりにもエクソシスト暦は十年、教団屈指の剣豪を師に仰ぎ、これでも神田と互角を張り続ける剣士である。
 屋根の上を伝ってアクマの頭上まで飛び上がると、同じタイミングで駆けつけた神田とともにその頭を一閃した。

「……息合わない〜」
「なんであっち斬らねェんだよお前」
「神田が空気読まずにこっち来ただけじゃん。そっちこそ向こうのやつ斬ってよ」
「ああ?」

 ぎゅっと顔を歪めた神田だったがそれ以上は不毛なのでお互い黙った。
 代わりに「おい貴様」と、少し離れた建物の上でリナリーを抱いているラビを振り返る。

「はっ、はい!?」
「俺のファーストネームを口にすんじゃねェよ……刻むぞ」

 懲りないな、ラビも。
 呆れと感心が半々になった気持ちになりながら、音の出そうなほど鋭い眼光を向けられて震えるラビを眺めた。

「リナ怪我してんの?」
「知らねえ。イノセンスは発動してなかったな。あと髪……」
「髪!? なに!?」

 慌てて様子を窺いに行こうとした瞬間のことだった。

 宙に浮かぶ不気味な江戸城から、どくん、と鼓動が響いてくる。

 江戸城の傍らでふよふよと漂っていた謎の黒い球体の影に千年伯爵がちらついた。みるみるうちに体積を増やしていくその球体から、黒い光が溢れだす。
 得体の知れない攻撃。
 ラビとリナリー、神田の位置を確認しながら『薄氷』を解放し、咄嗟にやれるだけ強度を上げた氷壁を展開した。


「……イ」

 声。
 声が聴こえる。

「あこや……生きてるか……!」

 神田の呼ぶ声で、意識が戻った。
 薄氷を地に突き立てたまま一瞬気をやっていたらしい。はっと顔を上げると、伯爵がいた江戸城の辺りを中心に、半径何キロかも把握できないほどの広範囲に渡って、建物も何もかも大地ごと削り取られて消え失せていた。

「い……一瞬死んでた……」
「立て」

 いままでで一番硬い氷壁を築いたはずなのに、ほんの少しの足元を残して全て破壊されている。口元に血を滲ませた神田に腕を掴まれてどうにか立ち上がった。
 ラビとリナリーを探すために視線を彷徨わせると、少し離れたところにラビがいた。

 その向こうに、人間一人が入るくらいの大きさの、水晶のようなものが浮いている。
 まるで伯爵のあの黒い波動の攻撃からなにかを守ったかのように。

「おい、何だこれは」

 呆然として呟いた神田とは違ってラビには見覚えがあるらしい。「また……」と目を見開いて水晶を見つめるその腕に、先程まで抱かれていたはずのリナリーの姿がない。
 まさかという思いで塊を見つめていると、あこや、と声が聴こえてきた。

「あこや、神田、ラビ。みんな、……みんな──」

 いつもより少しくぐもって、それでいて不思議な反響を湛えた音だ。
 でも聴き間違える筈がない。

「……まさかこれがリナなの!?」

 悲鳴にも似た声を上げながら駆け寄って触れると、「危険だぞ神田!!」と滅多にないマリの鋭い声がどこからともなく飛んできた。
 ノアが攻撃を仕掛けてくる。神田、ラビと分断され、わたしは千年伯爵が薙ぎ払った傘の一撃で吹き飛ばされた。



 重い瞼を押し上げると、ぼんやりとした視界にティエドール元帥とラビの顔が入り込んできた。
 目を動かすと、すぐ近くには見覚えのない女性エクソシストもいる。

「……リナは!?」
「落ち着きなさい。リーは大丈夫だよ。痛いところは?」
「だい……あれ、大丈夫です。なんで、わたし伯爵に吹っ飛ばされて……」

 吹っ飛ばされてからの記憶がない。
 クロス部隊ほどの大怪我ではないが、伯爵から喰らった攻撃のダメージが残っているはずなのに、痛みも違和感もなかった。考えられる可能性として見知らぬエクソシストに目を向けると、彼女はびくーっと体を大きく震わせる。
 え、わたしそんな怖い顔してたかな。

「あ、あの、わわ私ミランダ・ロットーと申します……」
「ああ、どうも。わたしは市村あこや」
「私のイノセンス『刻盤』の能力で、時間を止めたり一時的に戻したりすることができるんです、すみません」
「へえ。あ、もしかしてリナたちが向かった『巻き戻しの町』のイノセンス?」
「はいいいい」

 なんでこんなに怯えられているんだろう。
 ちょっと複雑な気持ちでいるわたしに、ラビが「ミランダちょっと人見知りなんさ」と耳打ちしてくれた。成る程。

「俺ユウにあこやが起きたって言ってくるな!」
「いいよ別にそんな……聞いてないな」

 ちなみにミランダの能力で、ここにいるみんなの負傷した『時間』は吸い取ってもらったらしい。ただしイノセンスの発動を解けば止めた時間や巻き戻した時間はもとに戻る。つまり致命傷を負ってしまえば、発動を解くと同時に死ぬということだ。

「そっか……。すごい能力だね。ありがとう、ミランダ。死なないように気をつける」
「あっ……は、はい……」

 ちょっとだけ頬を染めたミランダに笑いかけて、情報のすり合わせをしていた元帥とブックマンに向き直った。

「すみません。肝心なときに使いものにならなくて」
「いや、あのとき『薄氷』の氷壁がなければどうなっていたか……」
「リナリーのあれは一体? イノセンスに関係があるんでしょうか」
「実は中国からの海上でも似たような現象が起きた。強制解放したイノセンスがリナ嬢の命を守るような動きをしてな……」

 それに目をつけた伯爵があのとき、リナリー排除のため現れてわたしを吹き飛ばした。
 間一髪、伯爵側の乗り物である「方舟」とやらを利用してあの場にやってきたアレンのおかげで、リナリーは助かったらしかった。その後伯爵やノアが一斉に姿を消し、這々の体で江戸城から離れ、辛うじて残っていたこの橋の下で身を休めているというわけだ。

「イノセンスが適合者の命を守る……」

 聞いたことのない現象だった。
 現在の面子の中で最古参であるティエドール元帥も険しい表情でいる。

「……『ハート』……」

 小さく呟く。
 二人とも無言でいたが、その可能性が高いことは明らかだった。
 なぜ、──なぜよりによってリナリーが。膝の上で拳を握りしめたわたしの頭をぽんぽんと叩いて、元帥がにこっと笑う。

「ひとまず、神田とマリに顔を見せてあげなさい」
「…………」
「気にしていたよ。特に神田。言わないけど、あのとき迂闊に分断されたこと」

 無言でぺこりと頭を下げた。
 当たり前だ。逆の立場だったらわたしだって気にする。
 気にかかることもショックなことも色々あったけれど、とりあえず立ち上がって、橋から少し離れたところに座り込む後ろ姿に駆け寄った。