顔を見せると、神田は無言で一瞥を寄越したあとフンとそっぽを向いた。
 いつも通りの反応だが、長い付き合いなので、その空色の目に浮かんだ安堵の色は見逃さない。マリの方は普通に声に出して「無事でよかったよ」と言ってくれた。

「改めまして、久しぶりさねーあこや」

 へらっと笑いながら手を振ってきたラビの横に腰を下ろす。
 合流したとき傷だらけだったラビにブックマン、新たなエクソシストとして道中迎えたというクロウリー、そしてミランダ。リナリーは『黒い靴』を強制解放した影響できれいだった髪を失い、イノセンスも発動できない状態にある。アレンなどはあの美形のノアのせいで一度死にかけたというから、彼らの苦戦の模様がありありと想像できるようだった。

「大変だったのね」
「ホントもー何回か死んだなコレ! って思ったさ〜」
「僕もこれは死んだなって思いましたね……なんか生きてますけど」

 ハハハと遠い目になったラビとアレンに苦笑する。
 傍らに横たわって目を閉じているリナリーの、すっかり短くなってしまった髪の毛を撫でた。彼女のこれを見ればコムイが大泣きしてうるさいだろうな。きれいな髪だったのに。

 でも、生きてさえいれば髪はまた伸びてくる。
 中国から随伴してくれたサポーターの殆どを、ここに至るまでの襲撃で喪ったクロス部隊の、あまりにも過酷な旅路を想って胸が痛んだ。

「生きてまた会えて……本当によかった」
「ん、そーだな! で、あこやの方はどうだったんさ。ユウとマリと三人編成?」
「いや、デイシャがいたよ。こっちはバルセロナで一回大きな戦闘があって……あー腹立ってきたなあの美形ノアあいつリナの体にベタベタ触れやがって」
「姉さんツノ生えてまっせ、落ち着いて落ち着いて」

 こんな風に再会を喜んでから、ひとり橋の下から外れて河原に座り込み外を警戒している神田の後ろ姿に目をやった。
 あれでリナリーとは幼なじみなのだから心配していないはずないのだが、アレンとラビがいるからか近寄ろうとしない。
 仕方ない引っ張ってくるかと腰を上げ、その後頭部を小突いた。

「……ンだよ」
「リナの顔、見たいかなと思って」
「さっき見た」
「さっきってあのノアと戦りあったときでしょうが……ほら、ぼけっとしてるから起きたよ。声かけてあげなよ」

 リナリーの声が聴こえたのでそちらに視線をやると、身を起こした彼女と涙を流すアレンがいた。
 アレンとは中国で別れたきりの再会だったというので、ここにきてようやく実感が湧いたのか、みんなどこか涙ぐんでいる。ティエドール部隊にはなかなかない空気だなと感心しつつ神田の頭を見下ろすが、彼は黙り込んだまま反応しない。
 まあいいか。

 肩を竦めて隣に座ろうとしたそのとき、「リナリ……!」アレンの声と、ラビがアレンを呼ぶ声が聴こえてきた。

 振り返る。「狙いはリーだ!!」──元帥の声。

 ──強制解放したイノセンスがリナ嬢の命を守るような──伯爵があのとき、リナリー排除のため現れて──イノセンスが適合者の命を守る──「……『ハート』……」──なぜ、


 ──なぜよりによってリナリーが。


 何が起きているのか把握するよりも先に、自分がどうすべきか判断するよりももっと早く、神田とともに地を蹴った。


レゾンデートル


ふたつの足枷  3




 神田と一緒に跳んで、白い光の溢れるなか、クロス部隊に同行していたサポーターの青年の後ろ姿に手を伸ばしたことは憶えている。気づいたときにはわたしたちは、石造りの白い建物が立ち並ぶ町に落っこちていた。

「なんだこの町は」

 ギリシャかどこかの町並みのようだったが、起き上がったアレンが「ここ方舟の中ですよ」と辺りを見渡す。

「なんでンな所にいんだよ」
「知りませんよ」
「ちょっともうケンカやめなさい! 全員怪我してない? 装備型はイノセンスちゃんと持ってるか確認して」

 こんなときにも犬猿の仲の神田とアレンをぽこぽこっと叩きながらメンバーを確認した。
 狙われたのはリナリー。そのとき一緒にいたアレン、ラビ、サポーターのチャオジー。ティエドール元帥の「狙いはリーだ」を聞いて飛んできた神田とわたし、それからクロウリー。全部で七人だ。
 ――と思ったら、リナリーの下になにかいた。
 カボチャの顔をした傘だ。

 アレンと神田が絶妙なコンビネーションで傘にイノセンスを突きつける。

「ズバンと逝きたくなかったらここから出せオラ」
「出口はどこですか」

 こういうときだけ息ピッタリに脅迫している白黒コンビに呆れて溜め息をつくと、傘が「出口はないレロ」とのたまった。
 その答えに眉を顰めると、傘の口から伯爵の形をした風船が吐き出される。

『舟は先程長年の役目を終えて停止しましタ……出航です、エクソシスト諸君!』
「伯爵の声……」
『お前たちはこれよりこの船と共に、黄泉へと渡航いたしまぁス!』

 空に浮かんだ伯爵型の風船が『ドン!』と楽しそうに唱えると、町の至るところで爆発が起きた。

「方舟」。
 ノアやアクマが移動に使用するこの船が機能を停止した。新しい方舟への引っ越しが済んだ町の端から崩壊していき、いずれは次元の狭間に吸収されて消滅する。我々の科学レベルで伯爵が提示した時間は、三時間。

『可愛いお嬢さん、良い仲間を持ちましたネ。こんなにいっぱい来てくれテ、みんなが一緒に逝ってくれるから淋しくありませんネ!』

 リナリーがぎゅっと拳を握りしめる。
 舌打ちを洩らしながら『薄氷』を発動し、べらべらとやかましく喋る風船に向けて氷の龍を繰り出した。
 忌々しくもひょいっと避けた風船が『大丈夫……』と性懲りもなく嗤う。


『誰も悲しい思いをしないよう、キミのいなくなった世界の者達の涙も止めてあげますからネ……!』


 ──しまった。

 江戸に残ったのは元帥、ブックマン、マリ。それ以外は非戦闘員だ。元帥がいるとはいえ、明らかに方舟に戦力が集中してしまっている。
 なにも考えずに飛び込んでしまったがわたしは残るべきだったか、一抹の後悔が脳裡にちらついた瞬間、足元に亀裂が入った。

「わ……」
「ボケっとすんな!!」

 神田に抱えられてその場を退避する。
 江戸に残してきた人たちも心配だが、そもそもこちらも生きるか死ぬかの危機なのだった。伯爵に告げられた言葉のスケールが大きすぎてまだ理解が追いついてこない。

「あこや! 僕、アジア支部とつながる扉から江戸にきたんです。どこかに外に通じる家があるはずです!!」
「っ……捜そう! 致命傷は絶対に負うな、ミランダに吸い取ってもらった怪我は発動を解かれたら戻る、外に残った方も恐らくは大規模な戦闘になっているはずだから余計な怪我は追わないようにして。ミランダの能力が解けたら最後……! その前に方舟を脱出する!!」



 アレンのあの言葉を頼りに町中の扉を捜索しながら、爆発を逃れて駆け回る。
 怪我を吸い出してもらったエクソシストはまだましだが、戦闘要員でないチャオジーやイノセンスを発動できないリナリーの表情が徐々に強張ってきた。何軒も扉を開け、家を壊したものの、アレンが使用したという家は見つからない。
 精神的に切羽詰まってきた。神田でさえ、肩で息をしている。

「無いレロ、ほんとに、この舟からは出られない」

 伯爵が残していった傘の声が重くのしかかった。

「お前らはここで死ぬんだレロ──」


「あるよ」


 つと、アレンの背後に青年が現れた。
「出口だけならね」薄い笑みを浮かべて小首を傾げているのは、癖のある黒髪に分厚い眼鏡をかけた男だった。雰囲気は少し違うが間違いない、ノアの美形だ。
 だがアレンたちはそれに気づかず「「「ビン底!!」」」と詰め寄っている。

 むしろ親しげな様子さえあるアレンとラビ、それにクロウリーに眉を寄せていると、神田が「おい」と低く唸った。

「そいつ殺気出しまくってるぜ」

 その一言でようやく異変に気づいたらしい。
 アレンたちが戸惑った表情で青年を見やると、彼はアレンの白髪をぽんと叩き、「どうして生きてたのッ!!」と勢いをつけて頭突きをした。

 ……頭突き。
 あれだけ強かった美形ノアが、あろうことか頭突き。
 若干呆れつつも薄氷を構えて発動すると、頭を抱えて半泣きのアレンの目の前で、青年の肌が浅黒く染まっていく。

 ──ティキ・ミック。
 アレンたちから教えられた名を心の中で反芻する。デイシャの仇。

「うちのロードはノアで唯一、方舟を使わずに空間移動ができる能力者でね。どう? こっちは『出口』、お前らは『命』を賭けて勝負しね? 今度はイカサマなしだ、少年」

 彼が手に持っていた一つの鍵をこちらに投げてくる。
 神田が片手にそれを掴むと、崩れ落ちてきた建物がティキの上に直撃した。
「死んだか!?」ラビが様子を窺っているが、この程度で死ぬような奴ならとうにわたしや神田が斃せているはずだ。

「エクソシスト狩りはさ、楽しいんだよね」
「…………」
「お嬢さん、次に会えたらナンパしようと思ってたのにな〜残念だよ」

 楽しそうに神経を逆撫でしてくるティキの声に「黙れ」と悪態をつくと、「おっかねぇ」と笑い声が響く。

「ノアは不死だと聞いてますよ。……どこがイカサマなしですか」
「あはははははは!!」

 愉しそうな哄笑が、眼前に横たわる瓦礫の向こうから聞こえてきた。
 どうやら無傷でいるようだ。

「なんでそんなことになってんのか知らねぇけど、オレらも人間だよ。死なねェように見えんのは──お前らが弱いからだよ!!」

 ノアの一人ロードが用意した、外の世界につながる出口の扉。
 方舟中心に聳える塔の頂上に置かれたその扉と、それに通じる三つの扉の鍵をかけて、イカサマのない正真正銘力と力のぶつかり合い。猶予は方舟崩壊まで。
 悩んでいる暇もなく、いままで立っていた地面も崩壊が始まった。

 ひとまず崩壊の弱いところまで退避して息を整える。

「どーするよ。逃げ続けられんのも時間の問題だぜ、伯爵の言う通り三時間でここが崩壊するなら……」
「あれからしばらく家を破壊して回ったから、正確にはあと二時間くらいかな。それに」

 深く溜め息をつき、唇を噛んだ。

「逃げ続けた挙句に方舟から脱出できたとして……外の元帥たちが無事でなければ意味がない」
「そうですね。ロードの能力っていう空間移動は僕らにも憶えがあります」

 ミランダと出会った町でロードと敵対したというアレンとリナリーの証言で、ティキの持ち出した勝負の信憑性が増した。

「しゃーねぇってか」
「チ……」
「迷って余計な時間を喰うくらいなら進んだ方がいい。神田、鍵出して」

 先程与えられた一つ目の鍵。
 じゃんけんで見事に負けたアレンが、その鍵を適当な扉に差し込んだ。

 ぽんっ、と音を立てて扉の様相が変化する。
 蝶と太陽と虹が描かれたその扉を前に、アレンたちはそっと顔を見合わせた。

「……絶対脱出! です!」

 すっと差し出されたアレンの右手の上に、「おいさ」とラビが手を重ねた。リナリー、クロウリー、チャオジーとクロス部隊がそれに続いたところで、視線は残るわたしと神田に注がれる。
 隣で腕を組んでいる神田を見上げた。
 リナリーとラビは特に期待の眼差しを向けてきているが──

「誰がやるか。こっちを見るな」
「ですよね」

 そんな決まりきったやりとりをした白黒コンビにちょっと笑いつつ、わたしは神田のポニーテールをがしっと掴んで引っ張った。

「あこやテメエ!! 放せ!!」
「しょーがないなーこれで勘弁してあげるよ」

 左手で神田の髪を掴み、右手をみんなの手に重ねる。
 神田のキャラクター的にこういうノリは受け付けないはずだが、そういうときにこそわたしの出番である。背中をぶん殴られながらも適当に「えいえいおー」と声を上げると、追撃で蹴りまで喰らった。よっぽど嫌だったらしい。

「行くぞ」と苛立たしげな様子で神田が扉を開けたのについていきながら、隣でくすくす笑っているリナリーに視線を移す。

「どうしたの、リナ」
「ううん、二人が相変わらずで嬉しいなって思って」

 なんだか似たようなことをティエドール元帥にも言われたような気がするぞ。