最初の扉をくぐった先にはストーカーがいた。
 ティエドール元帥を付け狙っていた例のノアだ。であるからして神田は「俺がやる」と前に出たのだが、仲間を置いて先に行くことに抵抗のあるアレンはもちろん一緒に残ろうと挙手した。

「僕も残ります神田!」
「お前と二人なんて冗談じゃねェよ」
「神田っ……」

 なおも言いつのろうとしたアレンの鼻先に六幻の剣先が突きつけられる。
「俺が殺るつってんだ」と普段よりも数倍低い声で呻いた神田の眼光に、慣れていないみんながびくっと肩を震わせた。
 最終的には背後に般若の幻まで浮かべて、神田は六幻を発動し、容赦なく界蟲一幻を繰り出してくる。リナリーとわたしを器用に避ける辺りさすがだが、それだけでは飽き足らず斬りかかり、地面を陥没させ、「ちょっやめ」「神田!!」「死ぬっ死ぬよ!?」と仲間内で悲鳴が飛び交う始末。
 リナリーを連れて下がったためこちらに被害はなかったが、攻撃が落ち着いた頃にはすっかり男性陣がキレていた。

「もおおおお知らねえっ、神田なんか置いてってやる!!」

 神田に罵声を浴びせながら、次の道を探して歩きだしたアレンたちの背中を追いつつ、リナリーが眉を下げて振り返る。

「神田っ、ちゃんとあとでついてきてね、絶対だよ!」
「…………」
「もうっ……返事しなさい!!」

 怒り気味のリナリーからそんな大声が飛んでは、さすがの神田も振り向かざるを得なかったらしい。

「わ……わかったから早く行け」

 大半は本気の言葉とはいえ、素直じゃないにも程がある。
 とはいえこんなところで神田が殊勝な態度で「俺もすぐに後を追うから、お前たちだけでも先に行け」とか言いだしたら、それはそれで気味が悪いか。
 ちょっとだけ笑いながら彼を見ると、ぱちりと視線がかち合った。

「……問題ないのね?」
「テメエもさっさと行け」

 神田がぷいっとそっぽを向いたと同時にノアが襲い掛かった。
 その攻防を背に、わたしたちは次の扉を開ける。


レゾンデートル


ふたつの足枷  4




「意外だったの。あこやと神田が二人ともこっちに飛んできちゃったこと……」

 リナリーがそんなことを呟いた。
 神田と別れたあと進んだ扉の先には、先も見えないほど長い通路が伸びていた。いざとなれば氷で一時的に足場を作ることのできるわたしが殿を務めながら、方舟中心地の塔を目指す。

「二人はいつも冷静だから。特に戦況の見極めの上手なあこやなら必ず、戦力を偏らせない判断をしそうだったのに……」

 伯爵の狙いはもともとリナリーだった。
 彼女のイノセンスが伯爵の目の前で異様な働きを見せ、リナリーの命を守るような動きをしたからだ。『黒い靴』にかかる「ハート」の可能性の排除のため、彼女は方舟に連れてこられた。
 そのことが頭の隅に引っかかっているのだろう。
 小さく溜め息をついて、隣を歩く妹の額をこつんと小突いた。

「わっ、なに?」
「リナはわたしを……いやわたしと神田を見縊っている。これはその侮りに対する抗議」
「み、見縊っても侮ってもいないけど」
「いーや。大切なリナが狙われていると聞いて飛び込まないわたしたちだとでも思ったか?」

 まあ神田はそこまで考えずに飛び込んだだろうけど。
 無愛想だったり仲間に容赦なかったりもするが、あの人は時々、頭で考えるより先に体が動くから。

「ユウはともかく、あこやは誰が狙われてても咄嗟に飛んできそうさ〜」
「そんなのアレンもラビもそうでしょ。神田もなんだかんだで、誰が相手でも飛び込んだと思うよ」
「たまに僕の知ってる神田とあこやの知ってる神田って全くの別人なんじゃないかって気になりますね」
「そう? わたしの知ってる神田は大概イライラしたりブチ切れたりしながら『殺す』『削ぐ』『斬り刻む』『叩っ斬る』って罵ってくる神田だけど」
「僕の知ってる神田より口悪いですよそれ」
「ユウはあこやには遠慮ねェからな。俺ら以上に」

 そんな風に比較的わいわいしながら長い通路を歩いていたとき、遠くでなにかが割れるような音がした気がして、わたしは足を止めた。
 アレンにも聞こえたらしく後ろを振り返っている。
「なにかが割れる音が……」と言いかけたアレンの足元に、大きな亀裂が入った。

 床が崩れ落ちる。

 悲鳴を上げながらラビとチャオジーが一心不乱に走り、リナリーはクロウリーが咄嗟に抱きかかえ、崩れた足場に体勢を悪くしたアレンはわたしが背中を蹴飛ばした。
 薄氷を発動し、通路の両脇に立つ柱と柱の間に足場を造る。

「おおっ姉さんさすがさ!」
「走って! 柱が倒れたらどっちにしろ落ちる!!」

 途中で転んだチャオジーを、アレンが『神ノ道化』から伸ばした光る帯で捕まえた。クロス部隊についていた改造アクマから貰っていたというアクマの血液を飲んだクロウリーが、イノセンスを発動してラビとアレンを抱いたまま廊下を突っ切る。
 血を飲んでイノセンス発動って一体どんな寄生型だと内心目を剥きつつ、氷の足場でどうにか追いかけて、長く続いた通路の出口で一旦立ち止まった。

 書庫のような部屋につながっているらしい。
 アレンたちが床に足をついたのを見届けると、足場の崩れ落ちた通路を振り返る。

 崩れた床の下には光さえ吸収するほど深い闇が広がっていた。
 これが伯爵の言う次元の狭間というものだろう。柱や屋根などはまだ残っているが、いつ壊れるか解ったものではない。

 ――神田。
 通路が崩れたということは、この先の部屋に残った神田は……。


「行きたいんでしょ?」


 気づけばリナリーがこちらを見つめている。
 言葉に詰まって答えられずにいると、彼女は眉を下げて笑った。

「行ってあげて。もしかしたら怪我してるかも。そしたら神田のことだから、あこや以外誰の肩も借りないでしょ」
「…………」
「あこやが迎えに行ってくれるなら安心だし。ね、アレンくん」
「そ、そうですね。僕らが行ったらむしろ斬られそう……」
「あこやの意地っ張り〜。さっきから何回も後ろ振り返ってるのバレてねーとでも思ったん?」

 二人が笑いながら頷く。神田の性格をよく知るラビもにかっと笑っていた。まだ六幻で攻撃された経験しかないクロウリーとチャオジーはちょっと微妙な顔だ。

 迷った。
 リナリーの言った通りだった。

 いままで経験してきた通常任務では、戦況の把握と戦力配置を細かく操作することで生存率を上げてきている。本当は方舟にわたしと神田が二人ともが来るべきではなかった。わたしは本当なら、戦力のバランスも考えて江戸に残るべきだったのだ。
 初手で失敗している。
 ここにきて神田のために戦力を分散させるなんてそれこそ悪手だ。それは解っている。
 神田も解っていてわたしたちを無理やり先に進ませた。勿論あのストーカーが元帥を狙っていた相手だからというのも理由のうちだが、神田なら戦闘のあとも回復してわたしたちのあとを追ってくることができるから。

 できるだけ多くのエクソシストが生きて帰るための簡単な『計算』だ。
 わたしたちが本部に帰還してこれからも戦うことが即ち、今回の大規模な任務で命を落とした彼らの犠牲を悼むことにつながる。わたしも神田も前線に立ってきた経歴が長いから、そういう『計算』が滲みついている。

 夥しい数の犠牲者を目の前にしてきて、全てを救うことはできないと身を以て知っている。
 わたしたちの戦いが膨大な犠牲の上に成り立つことを知っている。


 ああ、でも。
 それでも。


「俺はそうそう死なねェよ」


 あの人だけは──喪えない。


 左手を握りしめて、竦んでいた足を殴りつけた。
 これからわたしは任務の成功率を度外視した行動をとる。神田はきっと怒るだろう。でもここで彼を喪うくらいなら怒られる方がずっといい。

「……リナリーのこと任せたからね」
「任されたさ」
「神田のことは任せましたよ」

 自分でも馬鹿なことをしていると思いながら、崩れ落ちた通路を戻りはじめた。



 柱と柱の間に氷で通路を作って、いま来たばかりの道をひたすら引き返す。
 通路がもうこれ以上なかったらどうしよう。扉が崩れていたらどうしよう。そんな不安に何度も駆られながら辿りついた扉を開けて、先程神田と別れた部屋に戻ってきた瞬間、こちらに背を向けて蹲るその人の姿を見つけた。
 生きている。
 名前を呼ぼうと息を吸ったとき、地を這ってきた亀裂がわたしを通り過ぎて背後の建物に罅を入れた。

 神田のもとに飛んで、連れて入る時間などなかった。
 見事に崩れてしまった建物と、今し方くぐったばかりの扉を唖然と見上げて、真っ白になった頭の片隅でリナリーを想う。

 ごめん、リナ。
 わたしたちこそが世界だと言ってくれた妹を遺して、ここでお別れだ。

 ノアを斃したらしい神田はともかく、わたしは完全に飛び込んできただけになってしまった。
 後先考えずに神田と一緒に方舟に飛び込んで、外の戦力を減らして、方舟の中でも役立たずのまま神田とともに消えようとしている。

「……参ったなぁ……」

 なんだか泣きたい気持ちになった。
 死ぬならきっと戦場で、できれば誰かを護って、アクマの攻撃で死ぬのだと思っていた。

「……神田」

 ぼろぼろの彼の隣にちょこんと腰を下ろすと、「ハアアア!?」とカッと目を見開いて怒鳴られる。
 こういう反応だろうと思ってはいた。

「テメエなにやってんだ! 先に行けっつっただろうが!!」
「行ったは行ったんだけどさ。リナに戻っていいよって言われちゃったからつい」
「ふ……っざけんなよお前……!」

 頭を抱えて項垂れる神田に思わず「いやほんとごめん」と謝ってしまった。

「ごめんね。神田」
「……どーすんだよ……もう扉壊れてんぞ」
「うん、そうだね」

 地響きは絶えず続いている。
 次元の狭間に吸収されて消滅すると伯爵は言っていたから、きっと死体も残らないだろう。崩れ始めた部屋を眺めながら、なぜだか笑えてきてしまった。

「……これ、お父さんもコムイもリナも知らないわたしだけの秘密なんだけどね」
「は? なんだこんなときに」

 来てしまったものは仕方ないと開き直った神田がどかりと座り直す。
 これから死ぬというときにも、神田は呆れるほど神田のままだ。


「神田を置き去りにして他のみんなと生還するくらいなら、一緒に死んだ方がずっとまし」


 ぽかんとしてわたしを見つめる神田がちょっと面白かった。
 そういう顔をしていると一気に幼くなる。

「あなたに大切な人がいることは解っているんだけど、お父さんが死んだあの日から、わたしはあなたがいないと息もできない」
「は……」


「あなたのいない世界に帰ったら多分、わたしあなたをアクマにするよ」


 足元に亀裂が入る。僅かな浮遊感に少しだけ怯えながら、神田の手を握った。
 目を丸くしたままの神田がそれでも握り返してくれる。


 死ぬならきっと戦場で、できれば誰かを護って、アクマの攻撃で死ぬのだと思っていた。
 ひとりで死ぬのだと思っていた。
 神田より、先に。


「……バカだろお前」
「なにを今更」

 にこっと笑うと、神田も少しだけ口角を上げる。
 呆れたような表情をした彼の首に腕を回して抱きしめた。せめてこの不器用でぶっきら棒で短気でどうしようもないくらい口と態度が悪くて、やさしくてかなしい人を、一人で死なせないように。

 文句は飛んでこなかった。
 代わりにおおきな片掌が、背中に添えられた。