『黒の教団』本部と呼ばれるその場所の、医療班フロアの一室で、わたしは生を受けた。
父は教団唯一の日本人エクソシスト。長らく鎖国状態が続いている極東の島国の人間で、調査のために派遣された黒の教団アジア支部員及び当時の元帥によって発見された、装備型イノセンスの適合者だ。
母は本部科学班の班長を務めるイギリス人の科学者で、イノセンスと適合者の結びつきに関する研究をしていた。
母が父に一目惚れして、猛アタックののち晴れて結婚。
父がエクソシストとして黒の教団にやってきた五年後、わたしが誕生した。
正しくこの場所はわたしにとっての『ホーム』なのである。
「あこや」
本部周辺に広がる森の中を走り回って体力づくりをしていたわたしは、父の呼ぶ声に足を止めて振り返った。とてとて駆け寄ると、父は穏やかに微笑んで、わたしの体を軽々抱き上げる。
流れるような漆黒の頭髪と、アジア人特有の怜悧な顔立ちは、わたしに強く受け継がれた。
「お父さん。おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
わたしは幼心に黒の教団がどういう組織であるかを知っていた。
おまえもいずれは戦うことになるのだからと、母をはじめとする多くの家族たちから説明されていたし、物心つく前から戦闘訓練も受けている。もちろん父の仕事が命の危険を伴う過酷なものであるということも理解していた。
わたしを抱き上げて笑うその人を頭のてっぺんからつま先までじろじろ見下ろし、目立った怪我がないことを確認する。よし、今日もお父さんは無傷。
父は日本にいた頃から凄腕の剣豪として名を馳せていたらしい。
少なくともわたしは、このときから三年後に起きたある一件を除いて、父が大怪我を負って帰還してきたところを見たことがなかった。
「イノセンスはどうだった、あこや」
「うーん、まだ発動できない。ヘブラスカに診てもらったけど、やっぱり原因はわからないって」
「……そうか」
父は眉を下げて苦しげに笑った。
どこか安堵の吐息も混じっているようだった。
仮想十九世紀末───
『暗黒の三日間』の再来を目論む千年伯爵と、それを阻止せんとするヴァチカンとの戦いが、百年の長きに渡って続いていた。
千年伯爵は世界に終焉を齎すため、「機械」「魂」「悲劇」を材料に、悲しき悪性兵器AKUMAを製造している。
悲劇をもとに機械のボディへと呼び戻された魂が放つ弾丸は、その毒性ゆえ人を蝕み人体を破壊する。人の悲しみを糧に生まれるアクマを使って、伯爵は悲しみの連鎖を生み、世界中にアクマを殖やしていっていた。
およそ常人には退治することのできないAKUMA。
それを唯一破壊できる神の結晶──『イノセンス』に選ばれたエクソシストたちに、世界の希望は託された。
世界救済を掲げたヴァチカンの命によって設立された、対アクマ軍事機関『黒の教団』。
千年伯爵に対抗するため、そして暗黒の三日間再来を阻止するため、教団は総数一〇九にもなるイノセンスとその適合者を血眼になって集めている。
母が妊娠七か月を迎えた頃、たまたま本部下層にあるヘブラスカのもとを訪れた折に、彼女の中のイノセンスが共鳴したそうだ。
ヘブラスカとは、世界の終焉の予言が記されたイノセンス『
「イノセンスが共鳴している……」
「私に共鳴するわけがないわよね……もしかして、この子が適合者だとでもいうの?」
何年も本部に勤めている母が今更適合するというのも考えにくい。
従ってそのイノセンスが求める適合者は自然、お腹の中の子であると判断された。
エクソシストである市村景正の子が適合者となった。このことは、当時本部で検証されていた、イノセンスの適合に血筋が作用するという主張の追い風となってしまった。エクソシスト親族の非適合者に対して無理やりイノセンスを適合させる実験が加速したことはいうまでもない。
そうして生まれたわたし、市村あこやには致命的な欠陥があった。
イノセンスを発動することができなかったのだ。
適合したイノセンスは、わたしが産声を上げるや否やヘブラスカのもとを飛び出し、以降片時もわたしの傍を離れることがなかった。装備型。まだ武器として加工するには早すぎるということで、ネックレスのようにして肌身離さず持っていた。
装備型エクソシストのほとんどが、日頃から身に着けているような、愛着のあるものがイノセンスとして適合する。父の場合は日本にいるときから愛用していた日本刀がそうだ。イノセンスは適合者の願いや命の危機に瀕してその能力を発揮し、奇怪となってこの世界に現出する。
生まれたときから教団にいて、本部のみんなに育てられたわたしに、危機などあろうはずがない。
そういうわけで六歳を過ぎても、胸元に提げたイノセンスはうんともすんともいわないのだった。
わたしを抱き上げた父は森の中を危なげなく歩きはじめた。
「少し重くなったか。体力はついてきたようだな」
「うん。最近、マリと追いかけっこするのが日課なの。いま十五勝七敗」
「マリ? 女の子か?」
「ううん、男の子。お父さんの任務中に本部に来た新しいエクソシストだよ」
先日イノセンスとの適合が判明したばかりの十五歳の少年は、現在本部にて対アクマ武器を作ってもらい、扱えるようになるための訓練中だ。
大柄だが、物腰柔らかで面倒見がよく、謙虚で向上心がある。
彼よりも長い間教団で訓練を積んでいるとはいえ、九歳も年下の小娘に向かって「体力づくりに付き合ってもらいたいのだが」と頭を下げるような、穏やかな男の子だ。
「十五歳か……」
「でもお父さんより大きいよ」
「お父さんは日本人だから仕方がない。……というか、あこやは追いかけっこで年上に勝てるのか。凄いな」
「地の利はわたしにあるからね」
年齢や体格、性別や基礎体力の不利もあって、マリに勝ちを譲ることはある。しかし俊敏さや柔軟性で勝り、なによりもホームの構造を知り尽くしたわたしが勝つことの方がまだ多い。
彼ももうしばらくしたら、元帥について修行の旅に出てしまうだろう。
父の腕に抱き上げられたまま本部の中に戻ると、大聖堂を見下ろす回廊に差し掛かった。
地下一階の広大な大聖堂には常に柩が並び、人がいる。
白い柩であったり、たまに黒い柩であったり、それに縋りついて泣き崩れる人であったり、祈りの言葉を捧げる人であったりする。よく面倒を見てくれた既知の探索部隊や、可愛がってくれたエクソシストも、多くがあの柩の中に眠った。
目を伏せてその光景を見つめた父がぽつりと呟く。
「神か……」
黒の教団はヴァチカンの名のもとに設立された宗教団体でもあった。もともと日本で違う神を信仰していた父は、こちらに来てから文化の違いにたいそう驚いたらしい。それでも、日本には神さまや仏さまがたくさんいたから、わりとすんなり受け入れたという。
「神とは、人を救う存在ではなかったのだろうか」
幼いわたしにはその言葉の意味がよくわからなかった。
こてりと首を傾げるわたしに、父が「すまない」と謝る。
「こんなことを言っては怒られてしまうな。共に戦ってくれる『
「……はい、師匠」
だって神さまは、イノセンスを我々人間に遣わし、人間を使って、千年伯爵と戦わせる。
神が人を救う存在だなんて父は一体何を言っているのだろう。
それならばもうとっくのとうに、神の使徒として世界のために戦うエクソシストを始めとする黒の教団のみんなは、十分すぎるくらい救われていいはずだった。
レゾンデートル
では、お手を拝借
「誕生日おめでとう。あこや」
優しい声が降ってくる。同時にわたしの目の前に置かれたのは、可愛らしくラッピングされた箱だった。
そうやってたくさんの家族たちから贈られたプレゼントが現在、隣の席にこんもりと山を作っている。
「ありがとう、マリ。いつ帰ってきたの」
「つい先程。間に合ってよかった」
「間に合うように頑張ってくれたんだ?」
口角を上げて悪戯っぽく微笑むと、九年前の任務で盲目となった今も変わらず穏やかなマリは、口元を優しく綻ばせながらわたしの隣に腰を下ろした。
「大事な家族のためだからな」
彼がエクソシストになってから早十二年。
同じ場所をホームとして過ごしてきた時間が長いせいで、マリもわたしもすっかり兄妹みたいになっている。そういう存在が、この場所にはたくさんいる。
音の反響や気配を察知して、マリはわたしが積み上げているプレゼントの山の方に顔を向けた。
「これ全部プレゼントの山か? 相変わらず凄いな」
「科学班とかが面白がって変なのもくれるから油断できないけどね」
「神田には会えたのか」
「任務に出てるよ。もうそろそろ帰ってくるんじゃないかな」
マリが上げた名は、教団内でも有名な筋金入りの無愛想エクソシストだ。
ぶっきら棒で素っ気ないたちの神田がわたしの誕生日にどうするか、マリは地味に面白がって毎年動向を訊ねてくる。
「去年はどうしたんだったか……」
「去年はお菓子をねだったから町に連れてってくれた」
「神田に物を買わせる強者はお前くらいだよ」
「付き合いが長くて扱いを心得てるだけよ」
神田は口が悪くて無愛想で喧嘩っ早くて態度も悪いし、探索部隊とはよく衝突するわ他のエクソシストとも関係良好とは言い難いわ悪所ばかりが目立つものの、なんだかんだで甘いところのあるいい奴だ。
事実、奴は入団当初から付き合いのあるリナリーには弱い。
好物の蕎麦を美味しく作ってくれるジェリーにも弱い。
どれだけ悪態をついても優しく受け止めるマリにも弱い。
で、奴がアジア支部にいた頃から面識のあるわたしにも弱いのだ。
「素直に『誕生日だよ祝って』って言ったら、深ーい溜め息つきながら『何が欲しいんだよ』って訊いてくるよ。目で」
「神田に『誕生日祝って』って言うのもお前くらいだろうな」
「それはそうかも?」
みんなは優しいから、神田がそういう奴だって解ってそっとしておいてくれるもんね。
夕食を摂りだしたマリの横で食後のコーヒーの湯気を眺めていると、テーブルで羽を休めていた通信用ゴーレムがぱちっと目を開けた。
『あこやちゃーん、いま暇?』
通信をつないできたのは黒の教団本部トップである室長コムイだ。
六年ほど前、若干二十三歳にして室長に就任した若き天才である。
「いま食堂でコーヒー飲んでるところ。なに、任務?」
『いやいや。さっき神田くんが帰ってきたんだけどさ〜〜、また怪我してるから医療班に行くように言っておいてよ。多分あこやちゃんのところに真っ直ぐ行くと思うから』
「来るかなぁ。怪我してるなら自室に引きこもるんじゃない」
『行くよ〜〜。「あこやちゃんはいま食堂だよ」って言ったら「チッッッ」てすごい舌打ちしてたし』
それ、来るか?
内心首を傾げたものの、コムイはコムイの視点で以てわたしたちエクソシストを見守っているので、可能性はあるかもしれない。
果たして隣のマリが「あ」と声を零した。
その声に反応して顔を上げると、「神田の足音じゃないか」と一方向を指さしている。見てみると確かに神田が、私服に着替えた状態で食堂に足を踏み入れたところだった。
「ほんとに来た。凄いねコムイ」
『じゃあよろしくね。彼のことだしすぐ治るんだろうけど……』
「解ってる」
通信を切りながら神田に向かって大きく手を振ると、すたこらと大きな歩幅でこちらまで近寄ってきた。
「おかえり。ちょうどいいところに来たね神田、このプレゼントの山、運ぶの手伝ってよ」
「……何だこれ」
「とぼけたって無駄ー。今日はわたしの誕生日です。何か言うことはない?」
「ねェよ」
「あるでしょ。おかえり神田」
「ねェ」
「あるって。おかえり、神田」
「…………戻った」
聴きながら隣で笑いを堪えてぷるぷる震えているマリを、神田は音が出そうなくらい鋭い目つきで睨みつけたが、慣れたものなのでわたしも彼も気にしない。
積み上がっていたプレゼントを神田にいくつか持たせると、マリに手を振って食堂を出る。
階段を上がっていく道すがらも、すれ違う団員の多くが「あ、誕生日おめでとうあこや!」「もう十八歳か、大きくなったな」と声をかけてくれた。
元科学班班長として忙しくしていた母、エクソシストとして世界中を飛び回っていた父に代わって、本部のみんなが協力してわたしを育ててくれた。わたしにとっては教団が家で、団員が家族だ。
団員の私室より一階層下のフロアに向かうと、隣を歩いていた神田が顔を歪める。
「おい」
「なに」
「……コムイか」
「なんのこと? わたしが婦長に用事があるの。それとも医療班に行きたくない理由でもあったのかな?」
しれっと嘯くわたしの横で痛烈な舌打ちを漏らした神田は、不服そうにしながらもついてきた。
婦長のもとを訪れると「あら、あこや……」とわたしを見たあとで、その隣の仏頂面男を見咎めてぎゅっと眉を上げる。コムイがすでに根回ししていたようだ、仕事の早いこと。
「来たわね。話は聴いていますよ、ちょっといらっしゃい神田。あこやはご苦労でしたね」
「お安い御用。ここで待ってるからねー神田」
「あこやテメエやっぱコムイの差し金じゃねえか!!」
「それだけ動きが悪ければコムイに言われなくても気付くよ、バカなの。大人しく治療されてこいバ神田」
「殺す……!!」
「ハッ。殺し返すわ」
ベテランの婦長にももちろん弱い神田が、ずーるずーると治療室に引き摺られていく。
手を振りながら見送ること数分して、婦長にネチネチ怒られながら怪我の消毒などを済ませた神田が鬼のような形相で戻ってきた。すれ違うナースのみんながぎょっとしているが神田のこれはいつものことである。気にしない、気にしない。
神田は特異体質ゆえ、その身に負った怪我がすぐに治る。
小さな怪我も大きな負傷も、瀕死の重傷だって、常人の何倍も治りが早い。なんなら死んでも生き返る。
彼がいつも医療班に行きたがらないのは多分、「すぐ治る」という厳然たる事実と、あとはその身上にまつわる複雑な感情が、他人に自分の体をいじらせる行為を拒絶しているからだ。
昔みたいに暴れ回らないから、これでもだいぶましになった方だけど。
「ちゃんと消毒してもらった?」
「…………」
無言の神田がわたしの腕の中からプレゼントの山を引っ手繰る。
「すぐ治るのは知ってるけど、なんの手当もしないよりは治癒能力の働きが少なくて済むでしょ」
「うるせェ」
「いくら治るっていったって限度があるんだから。あんまり乱用せずに自然治癒もしなきゃ」
「うるせえんだよお前」
取りつく島もないほど臍を曲げてしまった彼にそっと溜め息をついた。
言葉はきついが、これもいつものこと。
唇を尖らせて、一歩前をゆく彼の背中にゆるく握った左拳でパンチをお見舞いした。心配してるんだぞコノヤロウめ。
その頑なな態度の理由を知っているわたしでは、寄り添っていることしかできないが。
「で?」
「は?」
「本日お誕生日のわたしに対してなにかプレゼントはないの?」
自分で催促するのもなんだかアレだが、なんだかんだ文句を言いながらも毎年用意してくれる天の邪鬼なので、正直におねだりした方が素直に渡してくれやすい。
機嫌を損ねたままの神田は「ねえよ」とそっぽを向いた。
「えーなにそれ。忘れてたの? 最近任務に出ずっぱりだったもんね」
「……用意してねえ」
「じゃあなんか買ってもらおっと。明日任務入らなかったら町に出ようよ」
「面倒くせ……」
「まあそう言わずに!」
そうこうしているうちに自室に到着したので鍵を開ける。
プレゼントを抱えたままの神田も招き入れると、勝手知ったるなんとやら、遠慮なく入室してベッドの上にどさどさと落っことした。扱いが雑。
「……こんだけ貰っといてまだなんか要るのかよ」
「せっかく間に合うように帰ってきてくれたんだから、どうせなら祝ってもらわないとねー」
「お前のために帰ってきたわけじゃねぇ」
「ああ言えばこう言う」
「テメエに言われたくねぇよ」
務めは果たしたとばかりにとっとと退室していく神田の後ろ姿を眺める。
ドアに凭れかかってそれを見送りながら、「だって神田」と声をかけた。
「もしわたしが先に死んだら、神田はきっとわたしの誕生日がくるたびに、最後の誕生日を祝わなかったことを思い出すよ」
立ち止まった神田の後ろ頭でポニーテールが揺れる。
夜のような黒髪。
振り向いた神田は忌々しげに目を歪めている。
「……誰がお前なんか思い出すかよ」
「断言できる。神田は思い出すよ」
「お前に俺の何が解る?」
「それ言ってて馬鹿らしくない? 教団内の誰よりも神田のことを解ってる。もしかしたら神田自身よりも」
にこっと笑ってみせると神田はまた舌打ちをした。
でもそれだけだった。
「明日、約束だからね。朝稽古のあと八時朝食、着替えて町に下りる!」
「…………」
ふいっと前を向いた彼が歩みを再開する。
神田の無言は大抵の場合、了承を示す。
「おやすみ神田」
「…………」
「おやすみ神田!」
「うるせぇとっとと寝ろ」
「おやすみ神田!!」
「……、……、……おやすみ」
ときは仮想十九世紀末。
これは神に救われないわたしたちの、レゾンデートルの物語。