「……これ、お父さんもコムイもリナも知らないわたしだけの秘密なんだけどね」
「神田を置き去りにして他のみんなと生還するくらいなら、一緒に死んだ方がずっとまし」

「あなたに大切な人がいることは解っているんだけど、お父さんが死んだあの日から、わたしはあなたがいないと息もできない」


「あなたのいない世界に帰ったら多分、わたしあなたをアクマにするよ」




 いや。
 いや、ほんとに。
 方舟が復活して生きて帰れるって解ってたら、絶対絶対絶対絶対、打ち明けたりしなかった。


 神田が復活したことも、ラビやクロウリーたちと再び会えたのも、チャオジーが適合者だと判明したことも、アレンやリナリーが無事だったのも、生きて本部に帰還できたのも、ついでにクロス元帥をついに捕まえたことも本当に心の底から嬉しいのだが、わたしだけは生きて帰りたくなかった。

 だってそうだろう。
 冷静な戦況把握に定評のあったわたしが、後先考えずに特攻してしまった方舟で、大して戦いもせずに自分の我が儘のために引き返して、結局神田を助けることもできなかった。
 何もしていない。呆れるほど何もしていない。
 恥ずかしくて穴があったら入りたい。無くても掘りたい。

 帰還したエクソシストたちは病室で絶対安静と言いつけられたが、安静にするほど疲労もしていないという、この上なく情けない状態だった。

「……死にたい……」

 方舟で碌な戦力になれなかった。リナリーたちに合わせる顔がない。
 墓まで持っていくつもりだった秘密を神田に暴露してしまった。墓に入りたい。

 そんなわけで二進も三進もいかなくなった深夜、病室を抜け出している。
 大聖堂を見下ろす回廊の端っこで、柵の間から足を下ろしてぶらぶら揺らしながら、ジェリーに作ってもらったホットミルクを飲んでいるところだった。

 言うつもりなんてなかったんだ。
 母が死んだとき、父がいたから耐えられた。父が死んだときは神田がいたから耐えられた。
 なら神田がいなくなったら?
 そう考えて、恐ろしくて眠れなくなったのは十四歳のとき、父が死んでひと月ほど経ってからのこと。

 団員の誰が死んでも戦争は終わらないことを知ってしまった。
 嘆く暇があるなら戦うと決めた。
 神田が、神田だけは、誰もが死を覚悟して戦うこの教団でいつだって「死なない」と言ってくれたから、それを支えに戦えた。
 死ぬならきっと戦場で。
 できれば誰かを護って、アクマの攻撃で、神田よりも先に、ひとりで死ぬのだと思っていた。

 神田は教団や世界のためには生きていない。
 ただアルマを破壊してでも為し得なければならなかったこと、そのためだけに生きている。それだけが彼の枷であるべきだった。だから余計なものを背負わせたくなかった。

 神田は確かに素っ気ないし冷淡なところが目立つよう振舞っているけれど、決してそれだけの人じゃない。
 打ち明けてしまえばきっと、口では適当にあしらっておきながら、心の中に引っ掛かりを作ってしまう。そういう人だ。そういう人だと知っているから、だから一生、言うつもりはなかったのに。

 次元の狭間に吸収されるなら、死体も残らないなら、神田ももう生き返らないなら、言ってもいいかと思ってしまった。
 神田が決して一人ではなかったことを知ってほしくなってしまった。
 欲が出た。

 ──あさましい欲が。

「……はああああ死にたい……墓穴を掘って中に埋まって一生出てきたくない……」
「ブツブツブツブツうるせーな」
「あれー神田の声がする……幻聴かな……」
「じゃねーよ」
「…………絶対安静の人がこんなとこで何やってんの」
「テメエもだろ」
「わたし安静にするほど戦ってないから……明日から任務に出るよ」

 珍しくカーディガンを羽織って髪も結んでいない神田が、乱暴な仕草で隣に腰掛けてくる。
 その手にはお酒を持っていた。
 神田はたまに眠りたいとき、強いお酒を飲んで無理やり酔おうとする。第二使徒の頑丈な体では度数が高くないと酔えないのだそうだ。

「コムイが許すわけねェだろ。なに言ってんだ」
「ところがどっこい。中央庁から圧がかかってるんだよなー、元気なエクソシストがいるなら復帰させろってなー」
「……ルベリエか」
「や、それより上だろうね。別に圧がかからなくてもすぐ復帰するつもりだったけど」
「俺の顔を見たくねぇからだろ」

「神田に限らず」ホットミルクを飲み干して、ボトルごと傾けている神田の方に突き出すと、眉を顰めながらもちょっとだけ注いでくれた。「みんなに合わせる顔がない」
 黙り込んだ彼は目を伏せる。
 どうやら珍しく言葉を選んでいるようだった。

「露骨に避けるの、やめろ。リナが気にしてる」
「……うん」

 リナが気にしてる、ねぇ。
 別に神田が素直に心配した態度を取るとは思っていないけど、みんなに合わせる顔がないいまは誰の名前も聞きたくない。
 いつもなら全然気にならないその一言にほんの少しだけもやっとして、分けてもらったテキーラを舌先で舐めた。すると神田が俯いて舌打ちを洩らす。

「ウサギ野郎もニヤニヤしてきて鬱陶しい」
「あー……ラビこういう話好きそうだもんね……」
「一緒になってあのオヤジとマリまで……!」
「すまん、本当にすまない神田、わたしがもっと考えるべきだった、迂闊に変な態度を取るべきではなかった、本当にごめんなさい」

 同室のラビとマリに加えて頻繁にお見舞いに行くはずの元帥まで一緒になっているとなると、もともと短気な神田のストレスが如何ばかりになるか想像もできない。
 心の底からの謝罪と反省をしていると、神田は大きな溜め息をついた。
 彼の顔色はいつも通りだが、少し舐めただけのわたしはすでに顔が熱い。明日から任務に出ることになっているのは本当のことなので残りは飲まずに神田に渡した。

 こてり、仰向けに倒れる。
 大聖堂の高い天井を見上げながら額に手を当てた。床がひんやりしていて気持ちいい。

 このまま床に沈んで消えていけたらいいのにな。
 泥の中に眠るように、跡形もなく。

「……ぜんぶ忘れて」
「…………」
「聞かなかったことにして。本当に迂闊だった。墓まで持っていくつもりだったの。わたしが馬鹿だった。だって方舟があんなきれいに復活するなんて普通思わないじゃない、さすがの神田も死んだなって思うじゃない……」

 泣きたい気持ちでごちていると、ふと翳が差した。
 額に当てていた手を取られて、隠していた顔を覗き込まれる。覆いかぶさってきた神田のきれいな黒髪が零れて頬にかかった。

 嘘みたいにきれいな黒髪。
 出逢ったときは女の子みたいに可愛くて、華奢で、心が壊れかけていて口が悪くて態度も粗暴でまるで手負いの獣みたいで、それでいて悲しい人だった。
 あれから九年、気付けばもう人生の半分、神田はわたしの中にいる。

 昔は双子みたいだって言われたけど、いまでも双子と呼んでくる人もいるけど、きっと本当は神田の片割れはいまも昔もあの子だけなんだろう。

 その澄んだ空色の双眸を見上げていると、わたしの手を掴まえていた神田の手に少しだけ力が入った。


「……会いたい人がいる」


 は、と空気が口から洩れる。
 そのことを彼が口にするのは初めてのことだった。
 信じられないような気持ちで目を見開いていると、神田はわたしを真っ直ぐに見下ろしたまま続ける。

「名前も、どこにいるのかも、生きているのか死んでいるのかすら解らねぇような人だ」
「う、……うん、なんとなく知ってたけど神田そんなこと喋っていいの……?」
「いいわけねェだろ」
「だよね!! 聞かなかったことにするから! 今すぐ病室戻るから放して!!」
「聞けバカあこや」

 パニックになってもがくわたしを神田は呆れ交じりに抑え込む。ほろ酔いのわたしがその力を跳ねのけられるはずもなく、誰かが通りかかったら確実に誤解されること請け合いの危うい体勢のまま、なんとなく見つめ合った。
 ああ、いやだな。
 こんなときに、こんな体勢で、肩を並べて対等に戦ってきた神田との性差を、否が応でも意識させられる──

「いいか。合わせる顔がなくて任務に出るのは許してやる」
「……神田に許されなくても出るけど」
「怪我はするな」

 掴まれた右手首。
 長い指にあっさり抑え込まれたそこから、神田の僅かな熱が伝わってくる。いまはわたしの方が緊張しているようだ。

「聞いてます?」
「他人庇って無茶したら殺す。怪我しても、一人で泣いても。いつもみてェに、誰かが死んだことを嘆いて眠れないまま気絶したらそれも殺す」
「……物騒が過ぎるよ神田」

 そう、この人、体温低いんだよな。
 いつもいつも触れたときにはその冷たさにびっくりして、体温を分けてあげなきゃって、子どもの頃は本気で思っていた。


「あまつさえ任務に出た先で死にやがったら俺がお前を呼び戻す」


「あなたのいない世界に帰ったら多分、わたしあなたをアクマにするよ」


 辛うじて「は……?」とだけ声が漏れた。
 言われた意味が解らなかった。

 呼び戻す、というのはやはりアクマにするとかそういう解釈でいいのだろうか? 思考がそこまで到達したところで慌てて神田の両肩を掴んだ。
 いまなんて言った、こいつ!?

「待ってダメダメダメ、神田がアクマになったらその会いたい人に会えなくなっちゃうよ、なに言ってるの考え直して!?」
「それが嫌なら戻ってこいつってんだろバカか」
「い、い、嫌!! 絶対神田の声になんて応えない、仮に呼び戻されたとしても絶対無視する、断固拒否する、なんなら魂のままで自害してもっぺん死ぬ」
「お前は応える」

 こつんと額を重ねられて反論できなくなった。
 ずるくないか。
 神田の片割れはあの子だけで、神田には会いたい人がいて、なのにわたしを呼び戻すと、神田が呼び戻せばわたしは応えると、ただ事実を述べる口調で淡々と嘯く。
 当たり前のことのように。
 まるでそれが当然のように。世界の真理みたいに。

「お前は、応える」

 わたしがこの人の呼に逆らえないことを知っている。
 ──知られている、そのことが。

「……っ、絶対やだ……」
「嫌なら生きて戻ってこい、二度と死にてぇとかほざくな解ったな」
「……脅迫だ!」
「お前が言うな」

 まさか神田がそんなことを言いだすなんて誰が思うだろう。
 顔色全然変わってなかったけどやっぱり酔ってんのかなと思いながら、両肩を掴んだ手を彼の首に回してみた。

 文句は飛んでこなかった。
 代わりに、おおきな片掌が背中に添えられた。

「……会えたらいいね」
「ん」

 やっぱり酔ってるだろう、神田。
 添えた掌に少しだけ力が籠もって抱き返される。祈るようにこうべを垂れた彼がわたしの肩に顔を埋めて、無言で瞬きを繰り返す。夢みたいにやさしくて穏やかな沈黙だった。

 会えたらいいね。本当だよ。
 だから、神田がちゃんとその人に会えるように、わたしは生きて戻るからね。

 神田が打ち明けてくれた大事な大事な秘密の会いたい人。
 わたしのちっぽけなプライドなんかよりも、この人が教えてくれたその秘密の方こそ、胸に秘めて墓まで持って逝こう。


レゾンデートル


秘密の海