その日はたまたま任務が入らず、本部で休日を過ごしていた。
 目を覚まし、神田と森で軽く体を動かして、食堂に向かいみんなで朝ご飯を食べる。食休みに神田と座禅をしていると、ルベリエに遭遇したリナリーが避難してきた。神田が不器用にリナリーを褒めたのにちょっと笑い、ゴーレムで呼び出された彼女がヘブラスカの間へ向かったのを見送り、「『黒い靴』のことかなぁ」「それ以外ねェだろ」と零して修錬場の広場へ。

 いつも通りの朝だった。
 何の変哲もない、いつもの朝のはずだった。


『敵襲!!』


 ゴーレムからけたたましい警告音が鳴り響く。
 辺りに飛んでいた神田やマリのゴーレムからも同様の音声が流れていた。修錬場どころか本部内の至るところに剣呑な通達が響き渡る。

『エクソシスト及び本部内全団員へ! 第五研究室にアクマ出現、現在エクソシスト二名が応戦中、元帥及び以下のエクソシストは至急方舟三番ゲートのある間へ──』

 神田のスパーリングの相手をしていたマリと目が合った。
 応戦中の二名は恐らく左眼でアクマを感知できるアレンだろう。ラビとリナリーは武器が使えない、クロウリーはまだ入院中、チャオジーはまだ戦えない。となると残る戦力はブックマンくらいだ。

『ノイズ・マリ、市村あこや、ミランダ・ロットー、至急三番ゲートの間へ──』
「行くわ。神田は一応コムイの護衛に向かってあげてよ」
「チッ……」

 神田と別れ、マリとともに走り出す。

 第五ラボ。
 方舟から取り出したアクマの生成工場の研究が始まるとかで、リーバーやジョニーたちが、大勢の科学班が、あそこにいるはずだった。


レゾンデートル


懐胎  序




「おうあこや。年寄りに仕事させんなよ」
「年齢不詳がなに言ってるんですか。むしろたまには仕事してくださいクロス元帥」

 三番ゲートの間に向かう傍ら合流したクロス元帥と軽口を叩く。
 先着していたソカロ元帥が、仮面を取ったご尊顔にいつも通りの凶悪な笑顔を張りつけていた。

「腕が鈍ってねぇか見ててやるからキリキリ働けや小娘」
「りょーかいです。加減しないんで、巻き添えにならないでくださいね」
「偉そうな口叩くようになったじゃねえか」

 アレンの繋いでくれていた方舟ゲートで第五ラボに到着したときには、危うく卵型をした生成工場がアクマたちに奪還されようとしているところだった。
 ミランダの『刻盤』で卵を取り返し、元帥たちが夥しい数のアクマを次々に殲滅していく。
 キリキリ働けとソカロ元帥に凄まれたわたしも、科学班の負傷者たちをティエドール元帥の『楽園ノ彫刻』が保護したのをいいことに、いつになく能力を大盤振る舞いして働いた。先の戦闘で負傷しているアレンを庇うかたちで容赦なく氷結をお見舞いしていく。

「あこや……!」
「アレンよく踏ん張ったね! 遅くなってごめん!」

 神田もラビも対アクマ武器が壊れていて戦えない。リナリーもいまはシンクロ率が下がっているからただの女の子だ。エクソシストの戦力は著しく低下している。

 それでも元帥四名の破壊力と防御力はさすがだった。
 到着からアクマ全機の活動停止まで、僅かに八分。

 凍りついたアクマたちの残骸を縫って歩きながら、巻き込まれた団員がいないかと目を凝らす。ラフな稽古着のままで『薄氷』の氷結能力をふんだんに使用したせいで、呼気が白く凍っていた。
 足元に転がる氷塊を蹴飛ばしながら、傍で欠伸しているクロス元帥を仰ぐ。

「──結局この襲撃は、『卵』奪還のためのものだったんですか?」
「だろうな」

 とりあえず早く駆けつけねばとゲートに突撃したせいで、いまいち現状が理解できていない。
 敵方が方舟をつないで第五ラボに侵攻、目的はアクマ生成工場奪還。ミランダの能力のおかげでいまは取り返した形になっているが、発動を止めれば当然吸収した時間はもとに戻る。
 この卵が伯爵の手元へ渡る前に、元帥たちと元気なわたしの四人で破壊しなければならない。

「こいつはダークマターの塊だ。一撃で壊すには四人でかかるしかないが、それで行けるか保証はできんぞ」
『なんとか頼みます』

 コムイの声がクロス元帥の無線機越しに聞こえた。

「っつーことだ、あこや頑張れ」
「いやいやいやなに若い者に押しつけようとしてるんですか?」
「いつでもいいぞ、ミランダ」
「無視っすか」

 女性には優しいクロス元帥だが、生まれた頃からの付き合いのわたしはちょっと扱いがアレン寄りらしい。

 深呼吸したミランダが発動を止めようとしたとき、彼女の足元から水が渦を巻いて現れた。

「ミランダ!」叫んだマリが『聖人ノ詩篇』の弦で水の塊を貫くが、糸で水は捉えられない。

「あこや!」
「無理! ミランダごと凍る!」

 あの水はあらゆるものに変身できる「色」のノアらしい。その体に捕えられたミランダが意識を失ったため『刻盤』の発動が止まり、卵が再び敵のゲートに沈み始めた。
 マリが弦を操って卵を固定し、わたしもミランダを巻き込まないようノアを捕えようとしたが、このままでは手遅れになる。

 生成工場の価値はわたしにはよく解らない。
 だがこれを奪還しに来たのが奴らの目的である以上、現時点で複数の被害が出た教団は意地でも卵を渡してはならない。犠牲が出て奪還もされて、では完全にこちらの敗けだ。

 ミランダ。
 護衛についていたマリ。ブックマンはアクマのダークマターに中てられて動けなくなっていた。あとは負傷した──アレン。
 アレンがいる。

「……ノアもろとも全員で攻撃を撃ち込まなければこちらの敗けです」
「あこや!?」
「まああの女もエクソシストだ、覚悟はできてるだろ」

 わたしの切った口火にソカロ元帥が同意した。ミランダを助けたいマリが抗議の声を上げたが、クロス元帥の一言が合図になる。

「『卵』破壊を優先だろうな」

 元帥三名の砲撃が火を噴き、わたしの氷の龍をも巻き込んで爆風を起こした。
 破壊のその瞬間、白いマントを翻したアレンが飛び込んでいくのが見える。

 罅の入った生成工場が方舟ゲートの黒い海に沈み込んだのを見下ろしながら、ソカロ元帥が愉しげに口角を上げた。

「ひでぇ師匠だなオイ。飛び込んでくると解ってて本気で撃っただろう」
「ふ……避けては撃ったさ」
「元帥とは大違いの善性ですよね。何でこの師匠にしてあの弟子が生まれるんですかね」
「言うじゃねぇかオイあこや。お前も容赦なくなったもんだな? 昔はもっとクソ甘ったれだった気がするが」

「アレンのことだから……」足元の黒い海で僅かに震動が起きる。予想を一片も裏切らない頼もしい弟の横顔を思い出しながらちょっとだけ笑った。「飛び込んでくれるだろうと、思いましたので」
 ゲート内部の爆発とともに、ミランダを抱いたアレンが飛び出してきた。

「……、タチが悪い……」
「信用してやってんだよ馬鹿弟子」

 アレンが床に降り立つと、アクマたちが侵攻のために開けた方舟ゲートが閉じていく。
 マリとブックマンに気絶したミランダを預けたアレンが「僕はリーバーさんのところへ」と呟く後ろ姿に手をかけた。

「あこや……」
「アレン、怪我は?」
「これくらい大丈夫です。それよりあこや酷いですよ、僕が飛び込むって解っててあんな全力で攻撃するなんて! 師匠みたいな真似するんですから!」
「アレンならミランダを助けに行くって判ってたから、『卵』破壊に全力を出せたのよ。来てくれて助かった」
「…………」

 不満げにぷくっと頬を膨らませた弟をぽんぽん叩いて宥める。
 実際紙一重だった。口火を切ったのは自分だけど、どうにか上手くいったいまでも心臓がばくばくしている。本当にミランダが死ぬようなことになったらどうしようかと思った。
(ミランダ無事でよかったー、ほんとよかったー)と内心叫びながら、それでも顔には出さないようにして、首を傾げる。

「それで、リーバーたちがどこにいるって?」
「はい、改造された科学班の人たちが奥のゲートに連れていかれたからって……」

 そのとき、アレンの左眼が反応した。
 表情が変わる。何かが聴こえているかのような表情で研究室の奥を見やる。

 左眼が反応したということはまだアクマが残っているのだと、わたしもそちらを向いた瞬間、アレンの反応したものが聴こえた。


 ──くすくす
 ──クスクスクス……


 ぞ、と血の気が引いていく。
 気味の悪い笑い声だった。
 弾かれたように駆け出したアレンのあとを追って走る。アクマの残骸が積み重なる研究室を駆け抜けて、蹲って倒れるジョニーを見つけた。血が出ている。刺されたのか。

 誰のものかもわからない血の海を踏んだ。


 倒れて意識がないリーバー。バク、ロブ、……科学班のみんな。


「ア……レン……あこや……」

 掠れた声を上げたのはマービンだった。

 血塗れのアクマにその体を半分以上取り込まれている。
 上を指さす人差し指の先から黒いペンタクルが浮かび上がる。
 アクマの血の弾丸ウィルスがその体を蝕んで、体が赤く染まって──

「しんか、した……わるい……ふん……ばれ、な、く──」

 ──進化した。
 ──悪い、踏ん張れなくて。


 ぱきん、と粉々に砕け散る。
 衣服だけがその場にはらりと落ちる。

 遺体さえ残らない。


「マ……ビン……」

 その指が示していた先を見上げると、まるで腹部を割って何かを生み出したような体勢で仰け反る、女性のかたちをしたアクマの残骸が塑像のように聳えていた。

 その像の脇から、翅の生えた赤子が顔を出す。



「ぼくれべるふぉお」



 レベル4───


 慄然と体を震わせながら、その赤子の甲高い声が紡いだ、言葉の意味を理解した。

 百年続く教団の歴史の中でもアクマの進化形態はレベル3までしか確認されておらず、その最終進化形態は謎とされてきていた。
 アクマは内蔵された魂が受けるフラストレーションによって進化する。
 理論的には3以上の進化があってもおかしくない。
 だが邂逅したことはなかった。

 つまり今この瞬間──教団にとって初めての、レベル4との接触。

「ぐ……」隣で呻いたアレンが嘔吐する。
 アクマに内蔵された魂は、レベルが上がるにつれてその様相が変化すると聞いた。それはとても悲しく、残酷で、一度影響を受けたラビにとっては食欲を失くすようなものだったと。

 きっと、人を殺しすぎたその魂、最早見れたものではないに違いない。

 レベル4が一歩踏み出す。
 膝をついて立ち上がれないアレンの前に立ちはだかり、『薄氷』の柄に手を掛ける。

 ──神田

 心の中でつい呼んでしまった。情けない。柄を握った手が震えている。

 ──やばい、神田。久々に……怖い。
 ──怖い、けど、アレンが泣いている前で、みんなが倒れている前で、ジョニーが見ている前で震えているわけにはいかない……!

 アレンの手を、ジョニーが掴む。
「ごめん、アレン」「ごめん」「たすけて」血の滲むような声で繰り返すジョニーの手を握ったアレンが、咆哮を上げて神ノ道化を発動した。

「──イノセンス発動!!」
「お前を破壊する! レベル4!!」

 先行したアレンの援護で氷塊を飛ばしながら、足場を作って追っていく。
 マリやブックマンの横を抜けてアレンの続けざまに斬りかかると、「そうだわすれてました」と惚けた口調でレベル4が首を傾げた。

「さつりくへいき」

 悪性兵器AKUMA。
 その進化のレベルが、殺した人間の数を物語る。
 レベル4など──ここに至るまでに一体いくらの人が犠牲になったのか。その進化のために、今日ここで一体何人の科学班が、わたしの大切な家族が──

「進化した。悪い、踏ん張れなくて……」


「ぼくのそんざいりゆうをじっこうさせてもらいましょう」