「神田、あこやがどこにいるか知りませんか?」

 修錬場の一角で胡坐を掻いていた神田に訊ねると(アジアの文化で座禅というらしい)、彼はいつも通り丁寧に、まるでそれが挨拶代わりであるかのように舌打ちをしてから片目を開いた。

「……なぜ俺に訊く」
「誰に訊ねてもみんな『神田のとこじゃないのか』って答えるんですよ」
「見てわかんねェのかいねぇよ」
「見たら解りますよだから知りませんかって訊いてるんです。まだあんまりうろうろできる体じゃないのに……」

 最早恒例行事となりつつあるアレンと神田のいがみ合いだが、話題が彼女のことだからなのか、普段に比べると神田の態度はほんのちょっとだけ棘がない。
 あこや本人は「仲がいいんじゃなくて扱いを心得てるだけ」と主張しているが、やはり扱いを心得てくれている彼女には気を許しているということなのではなかろうかと、アレンは勝手に認識していた。

「……門番のとこだろ」
「門番? っていうとあれですか、僕が初日にアクマだと叫ばれたあの……」

 おかげで神田に斬りかかられて酷い目に遭った。
 白髪や傷のせいで奇異な視線を向けられることは多かったが、さすがにアクマだとまで言われたのはショックだった。あれ以来あの門番には嫌われているような気がする。
 それはともかく、教団の人間は基本的に地下水路から出入りするので、あの門番には用がないはずだが。

「どうしてそんなところに?」
「…………」

 神田は答えない。
 目を閉じてはいるがアレンが突っ立っていることは解るはずなので、そのままじーっと神田に視線を送っていると、彼はまた「チッ」と忌々しそうに零した。よくそんなにきれいに鳴るなぁとむしろ感心してしまう。

「探索部隊が死んだからな」
「答えになってませんよ」

 捜しているあこやなら或いはその一文で理解できるのかもしれないが、生憎アレンは神田と出会ってまだ一年未満の付き合いである。
 懲りずに噛みつくと、神田は嘆息しながら瞼を上げ、どこか物憂げに目を伏せた。

「『たまに自分が本当に彼らを呼び戻していないのか自信がなくなる』だとよ」


レゾンデートル


遺骨と湖




 けっこう長い付き合いの探索部隊だった。

 わたしが子どもの頃から教団にいて、よく任務でも一緒になった。彼が指揮をとる部隊は高確率で全員生還する。戦況の見極め、撤退すべきとすべきでないところ、結界装置の使い方、エクソシストとの連携、どれも経験に裏打ちされた安定感のある隊長だった。

 長期の調査から帰ってくるときはよくお土産なんかを買ってきてくれたりして。
 身長が伸びるたびに「大きくなったな」って頭も撫でてくれて。
 派遣された先で顔を合わせると「あこやが来てくれたからもう大丈夫だ」って笑ってくれて。
 本部で会ったときは一緒にご飯を食べたり、修錬場で神田と一緒にいたら組手を挑んできたり、怪我をしたと聞いたらお見舞いに来てくれたり。
 そういえば父が亡くなったとき、父の遺品やイノセンスを拾い集めてくれたのも彼だった。

 ……部下を庇って死んだ。
 アクマの血の弾丸ウィルスを受けて遺体も残らなかったという。

 それがわたしたちの戦争だ。遺体が残らないことには慣れている。喪失の痛みも、悲しみも、やり過ごす方法を知っている。



「アレスティーナさーん」

 本部の正面入り口に聳える大きな門は、科学班の血と汗と叡智の結晶でできた門番、アレスティーナ(略)五号によって守られている。
 人とアクマを判別する能力のある鈍色の体をぺたぺた叩くと、彼はぱちっと片目を開けた。

「……松葉杖つかなきゃ歩けん奴がこんなトコ来るなよ」

 折れた骨はまだ完全にくっついていないが、外傷や手術後の傷は粗方塞がった。
 無理をしないこと、何かあれば(忌々しいことにすっかり全快の)神田を呼ぶことという条件のもと退院し、現在は松葉杖で移動できる程度に回復している。

「ふふ、でもたまにはレントゲン検査も受けなくちゃ」
「アクマになった人間は自分から受けになんてこねーよ」
「そうだね」

 それでもアレスティーナはその大きな両眼を見開いて、わたしの体を検査する。
 彼の目によると、アクマとなった人の額にはペンタクルが浮かぶのだという。だから入団初日、左眼の上にその呪いを持つアレンは間違えられてしまったのだ。

「バッチリ人間だよ! 残念だったな」
「そうかぁ」

 ふんと鼻を鳴らしながらアレスティーナがそっぽを向いた。
 いや、門そのものが彼の顔であるからして正面を向いたままなのだけど、気分的にね。

「いつまでもこんなことやってんじゃねーぞ。本部の引越しと同時に門は解体なんだからな」

 けっ、とまるで唾でも吐きつけるように唇を尖らせた彼に、ちょっとだけ笑う。

 本部移転の通達が出たのは昨日のこと。
 先達ての襲撃によって壊滅的打撃を受けた黒の教団本部は、その再建は最早困難と判断され、新たな地で新たな本部を構え再出発することとなった。移転に伴い本部で稼働しているほとんどのシステム──アレスティーナや監視室のろくじゅうごなど──は解体される。

「リーバーにお願いしたら、解体した五号の一部も新しい本部に連れていってくれるって」
「マジかよ」
「六号も造らなきゃならんって、みんなもうヒーヒー言ってる」

 引っ越し作業に追われる科学班を思い出して笑みを浮かべると、アレスティーナも目を細めた。

 わたしの気の紛らわしに付き合ってくれた彼に別れを告げて、周囲に広がる森の中に足を踏み入れる。
 昔は足腰を鍛えたり体力をつけたりするために、ここでよく神田やリナリーと追いかけっこをした。足音を消すのが上手な神田が大抵勝っていたけど。

 鬱蒼とした森の中を、葉を踏みしめながら亡羊と歩く。
 この森とももうお別れか。

 幼い頃の記憶を辿りながら森の中を彷徨っていると、誰かが足音を立てながら近付いてきていることに気がついた。
 神田ではない。歩幅からしてリナリーでも、マリでもない。ラビとはまた違う。
 もう少し華奢な──

「……あこや!」

 まだ幼さの残る声に呼ばれて振り返ると、きょとんとした顔のアレンが追いかけてきていた。
 そうか、この足音はアレンのものか。

「どしたの、アレン」
「婦長が捜してたよ、診察時間なのにまだ来ないって……」
「あ」

 退院はしたがまだまだ重傷人。
 毎朝の診察やリハビリの時間が決まっていて、顔を出さないと婦長に怒られるのだ。しまったなぁと思いながら、すっかり筋力が落ちて骨の浮いた左腕を見下ろす。

「あの、あこやが門番のところにいるだろうっていうのは神田に聞いたんですけど……」
「うそ。アレンと神田がまともに会話するなんて……成長したね」
「茶化さないでくださいよ!」

 ぷんすかしているアレンに笑いながら謝ると、彼はふと沈痛ないろを浮かべて、三角巾の端っこから覗くわたしの左手を握った。

 アクマにしてしまった父親から受けたという呪いの左眼。
 このほっそりとした年下の少年がいままで一体どれほどの涙や絶叫を呑み込んで生きてきたのかと考えると、教団でぬくぬく育った自分が逐一へこんでいるのが情けなく思えてくる。

 痛みも悲しみも人それぞれで、誰かと比べるようなものではないのだと解ってはいても。

「わたしね、お父さんが死んだときすごく悲しかったけど、アレンみたいに呼び戻してまで会いたいとは思わなかったんだよね」

 ぽつりと零すと、アレンは眉を下げて微笑んだ。

「当然ですよ。あこやはずっと教団で育ったんだから」
「うん。でもね、たまにすごく不安になるんだよ」

 大切な家族を戦争のさなかで何人も何十人も喪った。
 痛みも悲しみもやり過ごすことができるようになったけれど、本当はもうその中の誰かが死んだ段階で、終わりのない喪失に耐えかねたわたしは誰かをアクマの魂として呼び戻してしまってはいないだろうか。
 だって、じゃないと、なんだかわたしは随分と薄情な人間みたいだ。

 何十人と喪っても、家族の誰も、母や父さえ、例え魂だけの存在になっていても会いたいとは思わなかった。
 悲劇の愛が溢れるこの世界で、なんて空虚なのだろう。

 すると、わたしの左手を握る力を強くして、アレンは唇を引き結ぶ。

「あこやが本当にアクマだったら、僕にわかるからヘーキだよ」
「…………」
「どんなに人間らしく振舞えても僕の眼は誤魔化せない。あこやがアクマになっていたら僕が気付く。そしたら……」


「下らねェことぐじぐじ悩むな鬱陶しい」
「テメエがアクマになったら俺に壊されるだけだろ」



 ──きっと、神田が察して破壊しにくるんだろうな。
 六幻を携えて。

 アレンは続きを言わなかったし、わたしも答えなかったけれど、頭の中に浮かんだ人は同じだったようだ。

「神田だってそう決めているから、門番のところにいるあこやを追いかけないんでしょ」
「そうだねぇ、神田は本当わたしには容赦ないからな……全力で叩き斬りにくるだろうな……」
「っていうか、あこやがアクマになったら絶対強いじゃないですか。そんなの戦いたくないよ僕。神田くらいしか勝てないですって」

 笑いながら本部へ向かって引き返す。
 なんとなく、手をつないだまま歩いていた。

 気付いているだろうか彼は、いつからかわたしたちとの間にある壁がなくなっていることを、紳士の仮面を被っていたその言葉遣いが砕けたものになってきていることを。
 指摘してしまえばまた、悲しくなるほど美しい微笑みを湛えた道化の仮面を下ろしてしまいそうだから、黙っておくことにした。


 本部の中に戻ると、腕組みをした神田が柱に凭れて立っている。
 アレンと二人してぱちぱち瞬き、どうやらわたしの帰りを待っていたらしい彼に首を傾げてみると、神田は浅く息を吐き出して目を伏せた。

「……捜してんぞ」
「え、うそ、ごめん。怒られた?」
「『今すぐ来なければ再入院させる』だと」
「やば……ごめんねアレン、捜しに来てくれてありがと!」

「いえ」笑ったアレンとつないでいた手を解き、松葉杖をカンカンと突きながら大股で神田の方へ近寄る。左足が着地し損ねてよろめいたところに神田の腕が差し伸べられ、膝裏を掬ってひょいと片腕に抱えられた。確かにわたしが自力で歩くよりこうしてもらった方が早い。
 神田の肩にしがみつきながら、昔のことを思い出した。

 初めて、アクマの材料を『知った』ときのこと。

「……わたしがアクマになったら神田が破壊してくれるけど……」
「あ?」
「死んだ神田を呼び戻してアクマになったわたしは、誰に破壊されるんだろう」
「くだらねぇこと言ってんじゃねェよ」
「くだらなくないよ」

 こてん、とその首筋に顔を埋めて繰り返す。「……くだらなくない」
 方舟から帰還して、みんなに合わせる顔がなくて、本部が襲撃されて、レベル4に太刀打ちできなくて、多くが死んで、本部の引っ越しも決まって、弱っているのかもしれない。骨が癒合するのを待つばかりの日々に、衰えていく筋力や心肺機能に、言葉にならない不安に、少しずつこころを蝕まれていく感じがする。
 神田はそんなわたしの脆弱さを知っている。

「くだらねぇよ」
「くだらなくない……」
「俺は死なねぇ」
「……死ぬよ。神田も、いつかは。再生能力にガタがくれば」

 昇降機の釦を乱暴に押した神田が苛立たしげな溜め息をついた。
 膝裏を支えてくれている腕とは逆の方の手指で、ぐずる赤子みたいに神田に縋りつくわたしの顎を掬い上げる。至近距離で見つめた彼の双眸の蒼さに吸い込まれそうになったとき、神田は無言で強烈な頭突きをかましてきた。

 比喩でなく視界に火花が散った気がする。

「…………痛い……」
「目ェ覚めたかバカあこや」
「痛くて何も考えられない……」
「てめえは時々どうでもいいこと悩みすぎなんだよ」
「どうでもよくないって言ってるのに」
「お前より先に俺は死なねぇ。骨がくっつくまでは何度でも言ってやる」

 神田にしては寛大なお言葉だ。
 頭突きを受けた額が痛くて涙が滲んでいるのだか、神田のそのこころざしが尊くて涙が浮かぶのだか、よく解らなくてなんだか笑えた。

 静かに上昇を続けていた昇降機が浮遊感とともに停まる。
 婦長になんて言い訳したものかと悩みつつ、ずきずきする額をさすって泣き笑いのまま神田の顔を覗き込むと、珍しく柔らかい表情をしていた。