慌ただしく引っ越し作業に追われる本部で、わたしはリハビリも兼ねて科学班の荷造りを手伝っていた。
とはいっても松葉杖必須なので、基本的には座ったまま、右手で書類などの整理である。怪我が治っていればもっと戦力になれたのになと内心もどかしく思いつつも、リーバーやロブの指示に従って紙の仕分け作業に没頭していた。
「……ん?」
研究資料やら何やらかんやら、碌に決裁もされずに放置されている紙の束を捲っていると、イノセンスの怪奇調査の報告書が出てきた。
これはさすがに綴じなければまずいだろう。立ち上がってリーバーのもとへ向かおうとした瞬間、後ろから小走りにやってきたラビとぶつかった。
「あっ、悪ィあこや!」
普段ならなんともない衝突だが、なんといっても松葉杖つき。
容易くバランスを崩したわたしを見て、近くにいた神田がハッと手を伸ばす。三人もみくちゃになったところで、ラビの持っていた荷物の中から転んだ瓶が、松葉杖の持ち手に当たって割れた。
どん、ぱりん、ぼんっ。
怪しい音とともに煙が充満し、周囲から「うわーっ」「何事ですか!?」「あこや!」と悲鳴が上がる。わたしは神田が肩を掴んでくれたおかげで、膝をついた程度で済んだ。神田の反射神経に感謝だ。
……ていうか、何だろう、これ。
下着とか服とか三角巾とか……なんかズルズル落ちてくるんだけど……。
煙が晴れて、一緒に転んだ神田とラビの姿も見えてきた。同時に周りのみんなも無事を確認しにやってくる。
全員の悲鳴はほぼ同時に上がった。
レゾンデートル
黒の教団壊滅事件
3rd 前篇
科学班の作った怪しい薬のせいで、十八歳トリオの体が縮んだ。
リーバーは割れた瓶のラベルや蓋をチェックして溜め息をつく。
「これ、アレだな……以前室長が作った若返りの薬。あこやが前にいっぺん栄養ドリンクと間違えて飲んだやつの、改良版だ」
「あー、アレンが入団してすぐくらいの頃のね。わたし憶えてないけど。そっか、改良版だから中身は今のままってことかな」
「何それそんな楽しい事件あったん!?」
「縮んだわたしを隠し子だって噂されてブチ切れてたんだよね、確か」
ちょうど十歳児くらいの体格になってしまったわたしたち三人は、ひとまずソファの上に避難している。
ちなみに怪しい薬の最初の被害者はブックマンだ。トレードマークの髪の毛がウサ耳になるという、あまりにもアレな症状をもらっている。アレよりはマシだ。
小さくなったのは体だけなので、身につけていた衣服や包帯がずるずると滑り落ちていく。
「……神田ヘルプ……包帯が……三角巾が」
「アア!?」
盛大な舌打ちを洩らした神田が、これまたずるずるの自分の服に苦戦しながらも包帯を巻き直してくれた。服はともかく下着が問題だ……。
「それにしても、ラビって昔はこんな感じだったんだね。今とあんま変わらないけど」
「それ言ったらあこやとユウもだろー? こうして見るとホント双子みたいさね」
「いや、神田は髪型が違ったからちょっと雰囲気変わったね。昔のが今より眼つき悪かったし」
子どもの頃のわたしたちをよく知るロブが、にこにこ笑いながら「懐かしいなぁ」と頭を撫でてくる。
滅多に口を割らない神田の昔の話に興味を持ったのか、ラビが左目をきらきらさせながら「どんな感じだったん?」と訊いてきた。神田が本部に来るより以前のことについては口外厳禁なので、ブックマンJrといえど真実は教えられていないはずだ。だから余計に知りたがるのだろう。
「んー、大ゲンカしてた。談話室の壁、壊して怒られたよねー」
「……あれはお前が掴みかかってきたからだろ」
「あと食堂で手にフォークぶっ刺してお父さんに怒られて正座対決したね」
「……あれもお前が勝手に手ェ出してきたからだ」
「よくケンカして医療班送りになって婦長に怒られたっけね」
「……大半はお前ひとりで怪我してたけどな」
「神田が手加減を憶えるまでは大変だった……剣ならわたしの方が断然強かったけど、殴り合い掴み合いになるとさすがに神田の方が強かったし」
しみじみと肯くと、古株の科学班のみんなが「俺、談話室の壁に穴が空いたとき現場にいた」「フォーク事件あったなー」「俺あこや運んだことあるなー」と懐かしんでいる。
ラビはうへぇと口の端を引き攣らせた。
「すげーバイオレンスだったんだな……オレもうちょっと和やかな思い出話聴きたかったさ」
「よくケンカしたよね、ほんと」
黙々と包帯を巻き続ける神田を見ると、「殆どお前が吹っ掛けてきたんだろうが」と文句をつけられた。
「そんなケンカばっかしてんのに、もー絶交! とかならなかったんだな、二人」
「えー? だって絶交しようにも部屋が隣だったし、きょうだい弟子だからどっちにしろお父さんのとこで顔合わせるし」
「ハ? ケンカの十分後にへらへら笑ってお前が腹減ったってほざくからだろうが」
「あはは、そうそう。ケンカしたらお腹すいたご飯行こー、って言ったら神田すごい顔で舌打ちしながらも一緒に来てくれたから」
「食事中に騒いだらカゲマサが怒るし」
「『食事中に騒ぐとは何事か!』って、お父さんの雷ね」
ようやく包帯と三角巾が元通りになり、神田が疲れた様子でどかっとソファに座り直す。
こんなによく喋る神田も珍しいなと意外な気持ちでいると、ラビもそう思ったのか、にかっと笑ってこっちを見ていた。
ふと、止め処なかった思い出話が途切れる。
色々なことを思い返していると、急に実感が湧いてきた。
父と母が出逢い、わたしが生まれて、たくさんの家族に囲まれて、大きくなって、リナリーに出会って、神田とともに過ごして、多くの人と出会い別れたこのホームから。
家族を喪ったときにも等しい、むしろそれ以上の、漠然とした不安に襲われる。
「……引越しかぁ」
しかしそんな寂寞を吹き飛ばすように、「ばか起きろアレン!!」とリーバーの慌てたような声が聞こえてきた。
またもや怪しい煙が上がる──
「わああああああ!?」
「またやったか……!」
次なる犠牲者はアレンだった。
机に積み重なる本の山に凭れてうとうとしていたところ、反対側から支えていたティムキャンピーの努力の甲斐なく雪崩を起こし、その上に乗っていた怪しい瓶の中身をかぶったらしい。
起き上がったアレンの白髪は、背中に届くまでに伸びまくっていた。
「これは前にバク支部長の誕生日に作った強力育毛剤だ。大丈夫、これも時間が経てば元に戻るよ」
「だから油断するなって言っただろ」
「科学班が変なモン作り過ぎなんさッ!!」
縮んだ十八歳トリオは、ブックマンから服を借りることになった。
移動や着替えにも苦労するわたしは、リナリーに抱えられて本棚の裏に隠れ、手伝ってもらいながらなんとか着替えを終える。もとのソファに下ろしてもらって再び書類の山に手を出そうとすると、後ろから腕を掴まれた。
「なに、神田」
「大人しくしてろ」
「なんでよ。一人だけサボれというのか」
「これ以上なんかあって治りが遅くなったら俺が文句言われんだよ」
……婦長にね。成る程。
一応退院して自分の部屋に戻ることができたとはいえ、わたしはまだ重傷人にカテゴライズされている。
引っ越しを手伝っているのも、「無理せず怪我を治すほうに集中しろ」というリーバーの気遣いを蹴り飛ばして駄々をこねた結果だ。神田は婦長からわたしの監視を命じられているのである。
「……体が腐る……」
「腐るわけねぇだろバカか」
神田に免じてソファに体を沈めると、今度はミランダの悲鳴とともにぼふんと煙が上がった。
「またやった!」という科学班の嫌そうな声(ほぼ自業自得のくせに)が響く中、晴れた煙の中から現れたのはリナリーとブックマン。
「ニャ〜〜?」
「ニャーニャー」
「わああああ今度は猫語になったぞ!!」
「じじいキモイさ――!!」
科学班とエクソシスト陣の阿鼻叫喚、さらにパニックになったミランダの「私も猫になってお詫びを」と半狂乱の叫び声。アレンが慌てて羽交い絞めにして、マリが肩を掴んで落ち着かせている。
「じじいはヤバイけどリナリーは許せるからいいんじゃね?」
「何言ってんだテメエは!!」
呑気なラビには兄・神田が鉄拳制裁を施した。
一体誰が何のために作った薬なんだかたいへん気になるが、それはそれとして、どんどん混沌としていく科学班の引っ越し作業にわたしは重たい溜め息をついた。
これじゃいつまで経っても終わりやしないな。
背中のあたりまで伸びた白髪をリボンでまとめたアレン(かわいい)が、ニャーニャー猫語を喋るリナリー(かわいい)を、避難させるべくエスコートしながら(かわいい)頭を抱える。
「もう嫌だ、科学班の引っ越し……。まさかもっとヤバイ劇薬とかあるんじゃないでしょうね?」
「いや所詮俺らごときが作るもんだし、そんな常識外れなのは……」
「充分外れてんだよ」と小さな神田が傍らでリーバーに突っ込んだ。
さっきから神田がツッコミに忙しい。なんともはや珍しい光景だとしみじみしていると、ジョニーがあははと明るく笑った。
「コムイ室長みたいなヤバイのはさすがにね〜」
まるでコムイが作ったものはさらにヤバイみたいな言い方ではないか。
いや、有り得る。一部エクソシストの脳裡に蘇ったのは往年のコムリンTやらコムリンUやらといったろくでもない発明の数々……。
即座に、コムリンUに追いかけ回され手術されかけ部屋を破壊されたアレンがジョニーに詰め寄った。
「あるの?」
「イヤッでもっホントに危険なのはちゃんと取り上げて倉庫に隠してあるから……!」
そのとき。
深夜二時の科学班を照らしていた天井の電気が、音もなく消えた。
条件反射というか、戦場が染みついた悲しい性というか、まともに動けもしないのに咄嗟にソファを下りて臨戦態勢を取ってしまう。突然の暗闇に驚いて身を寄せ合うアレンたちの傍らに構えると、ヒヒヒ、とどこからともなく笑い声が聞こえてきた。
甲高い少女のような、嗄れた老婆のような妖しい朗笑。
思わず神田の服に指を引っ掛けてしまう。
──ヒヒヒヒヒ……
──ヒヒヒヒヒヒヒヒ……
……だって、レベル4が出現したときも、あの災厄の赤子は笑っていたのだ。
我ながら情けない。わたしの手が微かに震えたことに気づいたのか、神田が振り返った気配がした。その目を見ないように、すぐ横にいたアレンの顔を見上げてみたけれど、彼や左目が特別に反応しているような様子はない。
ということは、少なくともアクマではないのか。
わりあい呑気な科学班や余裕のある神田は、コムイの悪ふざけと決めつけたようだった。
人望の薄いようだが、まあ、実際色々やらかしている室長なので致し方ない。天才となんとかは紙一重。有能なことに間違いはないが前科が多すぎるのだ。
「室長ーっ、俺ら忙しいんですよ!」「仕事しろ巻き毛!」と騒ぎ始めたリーバーやジョニーを、マリが制止した。
「しっ……声とは別に、何か音がする。近づいてくるぞ」
思えばマリだって、アクマの駆動音があれば聞き分けることができるのだ。
十八歳トリオの武器はまだ手元に戻ってきていないが、ここには戦力に数えることのできるエクソシストが五人もいる。元帥三人だって、本部内のどこかにはいるのだ。
必要以上に緊張した自分がちょっと恥ずかしかった。
ここに至ってようやく力が抜けていく。
すると、ぎぃぃぃ、と古びた扉が軋みながらゆっくりと開いた。
コツ、コツ、と足音が聞こえる。
このヒールの音、婦長?
停電になったからこっちの様子を見に来たんだろうかと首を傾げたら、アレンも同じように「ふ、婦長?」と零した。
「アレンこの暗さでよく見えたね」
「あー、修業時代の節約生活で夜目がきくようになりまして……」
えへ、と遠い目で頭を撫でるアレンの左腕に、婦長が突然噛みついた。
がぶ。なんて盛大な音がするほど。
茫然とするアレンの左腕をなおもがじがじしている婦長を、科学班が慌てて引っぺがす。
「ふ、婦長? どうしたんですか、怒ってるんですか!?」
「ガルルルルッ」
「まあ、すごい声。風邪じゃないですか、婦長」
そっと彼女の額に手を当てようとしたミランダの首筋にも、婦長ががぶり。
「わ───!!」とさすがにみんなで婦長を遠ざけ、マリとリナリーはミランダの顔を覗き込んだ。
「ニャー」
「大丈夫かミランダ? 少し心音がおかし……」
くるっ、とミランダがマリを見上げた。
次の瞬間、彼女はマリの太い首筋に躊躇なく歯を立てる。
これには周りにいたみんながキャッと頬を赤らめた。いつもお淑やかで穏やかなミランダがこんな、情熱的にマリの首に……!
しかし誰よりもマリが真っ赤になってショートした。
「マリ!!」
「いや、ていうか……」
おかしい、よね、さすがに。
ガルガルと涎を垂らして吠えていた婦長は、彼女を羽交い絞めにしていた科学班にも噛みついている。怒ってるとかいうレベルじゃない。
婦長がアレンとミランダに噛みついた。
ミランダがおかしくなってマリに噛みついた。
とすると次は──
真っ赤になったマリの様子を見ていた小さな神田。
その細い手首を乱暴に掴んで、マリが神田を持ち上げる。それと同時に、一緒に引っ越し作業をしていた科学班のみんながざわめき始めた。
どうやらあちこちで、噛まれた人がガルガルいいながらまた他の人を噛むという状態になっているらしい。
最初に婦長が開けた扉から、他のフロアで作業していた団員のみんなが押し寄せてくる。一様に目を剥き、歯を剥き、アアアアア、と言葉にならない呻き声を上げていた。
さすがにゾッとして、リナリーの傍に寄る。きゅっと手を握ってくれた彼女に縋りつくようにして体勢を立て直した。
「こいつら……」
神田は容赦しなかった。
マリの顎を蹴り抜き、鋭い声を上げる。
「──正気じゃねェぞ!!」