「『何があっても僕はエクソシスト』ね……」

 リナリーとマリから不在の間の出来事を聞かされた神田は小さくぼやいた。「アイツなら言いそう……」
 相変わらず、反吐が出るほど甘い奴だ。

「教団が全力で捜索してるのに全然見つからないのよ」
「なんというか、さすがクロス元帥の弟子というかな……」
「ねえ神田、ちゃんとあこやに連絡してあげてね」
「それにしてもおまえ、よくあそこに私たちがいるとわかったな?」
「神田聴いてる? あこやに連絡してってば」

 立て続けに捲し立てられる言葉を右から左に聞き流しつつ相槌を打っていると、リナリーがしっかと腕を掴んできた。
 元帥の護衛任務の過程で焼け落ちた髪は肩にかかるまで伸びたらしい。子どもの頃にあこやがよく結んでやっていたような髪型をしている。
 こいつはこんな顔だっただろうか……と目を細めて、無言で見下ろし、ようやく違和感の正体がわかった。
 泣き腫らした目。

「神田がいなくなってからのあこや、見てられないの。ずっと任務を詰めてて、本部にも全然帰ってこなくて、私もう二ヶ月は会ってない……」
「ひどい怪我はしていないらしいんだがな。まるでカゲマサさんみたいだ」

 ──攻撃を真正面から受けて特攻することは獣にもできる。
 ──一流の剣士は相手の攻撃を受けずして勝利する。
 かつての教えを脳裡に反芻しながら、神田はリナリーに掴まれた腕を軽く揺すった。白い指先が衣服に刻んでいた皺に目をやり、溜め息をつく。

 ……何やってんだ、あいつ。

「ねえちょっと神田聞いてるの?」
「なんかお前ブサイクになったな」

「はあああああっ!?」激怒したリナリーが『黒い靴』発動も辞さぬ構えで脚を振り上げる。慌ててマリが後ろから羽交い絞めにした。それをいいことに、何も考えず思ったことを口にしていく。

「顔がパンッパンにむくんでるぜ。どーせまたヘコんで泣いたんだろ」
「ちょっと待ちなさいよ神田ああああっ」
「リナリっジョーダン、神田なりの励ましというかほらジョーダンだおちつけ!」


レゾンデートル


おまえは獣にはなれない





 雨がやまない。



「市村」

 雨宿りのために避難した軒先でぼんやりしていると、通信機を背負った探索部隊が足元を泥で汚しながら駆け寄ってきた。
 彼には町からの退避を命じたはずだった。なぜ戻ってきたのかと目を細めると、わたしが任務に明け暮れる間ずっとお目付け役を担ってくれた彼は、表情を変えないまま口を開く。

「アジア支部から通信だ」
「アジア支部?……またバク?」
「いや。名乗らなかったが、『市村あこやを』と言われた」

 名乗らないような怪しい通信をつなぐなよ、と余程言おうかと思ったけど黙っておいた。
「それから」通信機の受話器を上げる前に、彼はどこか強張った声でわたしの手を止めさせる。「これは別口からの報告で」
 やや、改まった様子だった。

「ズゥ老師が先程、息を引き取ったそうです」
「……、……そう」

 かつて父の揮っていた『桜火』、わたしの『薄氷』、そして神田の『六幻』。これらの刀を鍛えてくれたのは、高い対アクマ武器加工能力を持つアジア支部所属のズゥ老師だった。
 数えきれないほどお世話になった祖父のようなひと。
 二ヶ月ほど前から調子を崩して、寝たきりになっていた。一度任務の合間に顔を出したときは意識もはっきりしていたが、同時に覚悟もさせられた。

 かさついた体温の低い手を重ねられ、「ユウを、アルマを許してやってくれ」と懇願された、あのときが最後。

 ひとつ深呼吸をしてから受話器を耳に当てる。

「はい市村」
『…………』
「もしもーし。聞こえてないのかな。誰、バク?」
『…………』
「ちょっと。悪戯ですか?……ってそんなわけないか」

 それでも応答はない。
 執拗な沈黙。
 傍に控えている彼にも表情を見せないよう、深く項垂れる。


 ……ああ、だから、「名乗らなかったが」つないでくれたのか。



「……神田?」



『……リナたちから話は聞いた』
「開口一番それなの? 三ヶ月ちょっとぶりなのに相変わらずね。リナと合流したってことはフランス……から、アジア支部?」
『ああ』

「ズゥ爺っさまには会えた?」
『ああ。六幻も受け取った』

「ひどい錆だったけど発動できるの?……ああ、そっか、結晶型になったのね」
『ああ』


「アルマは死んだのね」

『ああ』

「───そう」


『一旦本部に帰れ。リナたちがうるせぇ』
「はいはい、わかった……言っておくけど怪我はしてないしピンピンしてるのよ、だから戻らなかっただけ。エクソシストの数が減ったのに元気なのが休んでるわけにいかないでしょ? 話聴いただろうけど、色々あって忙しいんだから」

『いいから顔だけ見せとけ』
「誰のせいだと思ってんだか」
『知るかよ』
「そもそも本部に帰れとか神田にだけは言われたくないんだけど。あんたこそちゃんと帰ってみんなに顔を見せてやりなさいよ。ジジなんて大号泣で大変だったんだからね」

『…………』
「……無視ですかコラ」
『…………』


「……相変わらず、正直なやつ……」


 家屋の影からアクマが続々と姿を現す。レベル1のボール型が多かったが、中にはレベル3も数体いるようだった。
 右手を伸ばして薄氷の柄を掴んだ。
 絹よりも細い霧雨が大気を支配している。氷結能力を有するこの対アクマ武器にとって雨天は圧倒的有利。たとえ町ひとつ丸ごとアクマの巣窟と化していてもわたしの優勢は覆らない。


「死んでいなければ戻ってくるだろうなとは思ってた」
『…………』
「やっと、エクソシストになれたね。神田」


 エクソシストになるために生み出された。
 生まれた理由も、生きる理由も、すべてが用意された世界に生まれた第二使徒『YU』。


 エクソシストになるしかなかった。彼自身の望みに関わらず、あのときユウにはその道しか用意されていなかった。その道をひたすらに歩いてきた彼が、初めて、目の前に広がる二つの選択肢の中から、エクソシストになるという道を択んだ。
 そして六幻はその想いに応えた。


「その団服は怪我人の枕にするものじゃねぇんだよ……エクソシストが着るものだ!!」


 彼は初めて、自らの意思で、破壊を己に科すことなくあの団服に袖を通すことができる。
 そのことが嬉しい。
 涙が出るほどうれしい。


「話は済んだ? もう切るね。いま絶賛戦闘中なので」
『お前それ……早く言え』
「いや余裕余裕。雨だし、探索部隊以外はもう誰もいないし。もう独壇場よ」

『……、……じゃあな。あこや』
「さよなら。神田」


「神田……それでも僕は……誰かを救える破壊者になりたいです」


 アレン。
 ありがとう、アレン。


*     *



 ──本部に戻った神田が早速脱走したという報せを受けたのは、それから二日後のことだった。

 神田の帰還を嬉々として知らせてきたコムイの『今なら神田くんも大人しく本部にいるから早く戻っておいでよ〜』という言葉を無視して、「本部に戻る道すがらにこなせる任務」と妥協して次の司令をもぎ取り、イングランド東部の町で先行の部隊とともにイノセンスを確保したときのことだ。
 本部から通信がかかってきた。

『あこやちゃん。すぐに本部に戻って』
「わかったって、イノセンスは保護したからアクマを斃したらすぐ帰る」
『神田くんがいなくなったんだ』

 薄氷を揮う。
 氷の斬撃がアクマのボディを真っ二つに切り裂いた。激しい爆風で団服のスカートが揺れ、踏ん張れなかった探索部隊の一人が「わーっ」と転がっていく。

『どこに行ったか心当たりはない?』
「……あのねコムイ、神田が戻ってきた当日に連絡は貰ったけど、そのあとは音沙汰ないよ。心当たりも何もないから」
『リナリーとマリも同じことを言ってる』
「そりゃそうでしょ。神田そんなマメじゃないし」

 今回の任務にはミランダとクロウリーがもともとついていたが、わたしが戦力増強で合流したかたちになっていた。
 コムイからの無線を漏れ聞いた二人が心配そうな様子でこちらを見ている。

『とにかくすぐ戻ってきて! 神田くんのこと抜きにしても! 最近全然顔見てないからボク寂しい!!』
「はいはいわかったわかったアクマ襲ってきたから切るねーわーきゃーミランダあぶなーい」
『ちょっとあこやちゃ』

 強制的に切断した無線ゴーレムが沈黙した。
 はらはらしている年上の二人が、可愛らしくコテンと首を傾げる。

「アクマが襲ってきたであるか……?」
「さっきあこやちゃんが全滅させてしまったような気がするけど……」
「コムイの通話早く切りたくてつい嘘ついちゃった」



「神田ユウはどこへ行ったのだね」


 方舟ゲートで本部へ戻ったわたしを出迎えたのはルベリエだった。
 わたしが帰るのを待ち構えていたのだろう、中央庁派の役員や科学班が数名と、それに抗議しに来たのかリーバーやジジなどお馴染みの科学班の姿もある。

「……これはどうもルベリエ長官わざわざこんなところまでお越しとは中央庁は余程お暇であるとお見受けする」
「御託はいいから答えたまえ」

 リナリーとマリがその後ろで「ごめん!」「すまん!」と目だけで謝ってくる。察するに神田がわたしに通信を寄越したことをぽろっと零してしまったのだろう。
 先にゲートを通っていたミランダとクロウリーは、不安そうな顔でマリたちの傍に立っていた。

「知りませんよ。あれが教団に戻ったとき、わたしは任務中でした」
「神田ユウはきみに連絡したはずだ。記録を提出しろ」
「はいはい、通信記録でしたら探索部隊が持っているんじゃないですか。ゴーレムのほうも調べたければどうぞご自由に……」

 スリープモードにしてフードの中で眠っていたゴーレムを引っ掴んで手渡す。
 あまりに素直に提出したのが意外だったのか、ルベリエはその片目を少しだけ見開いていた。

「なにか? あ、もしかしてわたしと神田が内緒で熱烈な愛の言葉を交わしたとでも思っています? 大丈夫ですよ、聞かれて恥ずかしい話はしていませんから」
「…………」
「大体、神田がそんな証拠に残るようなことするわけがないでしょう。彼は確かにちょっと短絡的なところがありますけど、あれでも教団で十年第一線を張ってきた戦闘のエキスパートです。彼を造っておいてそれさえ解らないのかあなた方は……」

 本部の多くの人はルベリエに苦手感を抱いている。
 わたしが彼に対して挑発的に反論するさまを、リナリーたちや本部科学班がはらはらしたり不安そうにしたりしながら見つめていた。ミランダやクロウリーなんて顔が引き攣っている。
 わたしもこの人は好きじゃない。
 生前、大抵の人と穏やかな関係を築いていた父でさえ、ルベリエに相対するときは雰囲気が鋭かった。

「……アルマ=カルマはきみの母君の仇なのではないのかね」


 ──そう。
 こういうところ。


「アルマを択んだ神田ユウやアレン・ウォーカーを、きみがそこまで庇う理由は何なのだ……」
「ルベリエ長官」

 意図的に露わにした殺意が、その喉笛に牙を立てる。
 ゆっくりと瞬き、真っ直ぐにルベリエの目を見据えると、傲岸なその顔つきが初めて強張った。

「わたしは、知りませんと、事実を申し上げているだけです。用が済んだなら失礼します。わたしは室長に任務完了の報告に上がりますので」
「…………よろしい。このゴーレムは解析にかける」
「結構。睦言など交わしていませんからどうぞ安心して再生してください。ああそれから……」

 ゲート周辺が沈黙に包まれていた。
 ルベリエに随行していた中央組の科学班数名はがたがた震えている。人の悪意や嫌味には耐性があるだろうけど、殺気には馴染みがないのだ。
 平気な顔をしているのは、わたしと神田の絶対零度のケンカに慣れている旧本部組の面々くらいのもの。

「『アルマ=カルマに母を殺された市村あこや』『第二使徒のYU』『YUとAlmaの逃亡を幇助したアレン・ウォーカー』……そんな風に手駒を一元的に見ているから、何度も神田に逃げられるんですよ。十年も飼っておきながら彼の本質も見通せないとはほとほと呆れる。兵士をあまり甘く見ないことだ」
「……叛意を匂わせる発言は控えた方が身のためではないのかね。市村あこや」
「拘束したければどうぞご自由に? 秘蔵の第三使徒計画が頓挫した今、エクソシストの戦力筆頭であるわたしを処分する勇気があるならの話ですが」

 わざとらしく靴の踵を鳴らしながら横をすり抜けた。
 もはや誰も引き留めようとはしなかった。

 その先に待っていたリナリーが、目をうるうるさせながら抱きついてくる。
 思えば本部に帰ってくるのは二ヶ月ぶりだった。久しぶりに、ジェリーのご飯が食べたいな。

「あこや! もう! 全然帰ってこなくて寂しかったんだから!」
「ごめんごめん。なんかじっとしていられなくてさぁ」
「すまないな、神田にもあこやに会うよう言ったんだが……」
「いいよ別に、あの唐変木が連絡くれただけましでしょ。──あとで一緒にご飯食べようね」

 ルベリエの目の光るここで迂闊なことは言えない。リナリーの体をぎゅっと抱き返しつつ、久々に会うマリとも微笑み合う。
 司令室の前でリナリーたちと別れると、わたしは一人で扉を開けた。

 はっと顔を上げたコムイが悲愴な顔で立ち上がるので、つかつか歩み寄ってそのひょろ長い体を抱きしめる。

「ただいま。コムイ」
「あこやちゃん……やっと帰ってきてくれた」
「リナに懇願された神田が『いいからとっとと本部に戻れ』って言ってきてね。相変わらず神田はリナに弱い」
「あこやちゃんはリナリーと神田くんに弱いよね」
「まーね」

 体を離して肩を竦めると、コムイも泣き笑いに似た表情になった。

 すこし、痩せたように見える。
 中央庁と板挟みになってエクソシストを守り続けているこの人が、神田やアレンの件を受けてどれほど神経をすり減らしたかは想像するに余りある。恐れずルベリエに噛みついてやれるわたしは、もっと本部にいてやるべきだったかな。

「……っていうか、リナリーの無線からこっそり話は聴いてたんだけど……」
「え? うん」
「すっっっごいスッキリした。さすがだよあこやちゃん」
「伊達に教団生活長くないからね! みんなが言えない分いっぱい嫌味言っといたよ!」

 本部に寄りつかないことでみんなに心配をかけていただろうが、コムイとの連絡はきちんと取っていた。
 神田との記憶が多すぎる本部にいたくない。じっとしていられる気分ではない。任務の合間に神田を──たとえ物言わぬ死体になっていたとしても──捜したい。
 そして、減ったエクソシストたちのぶんまで、誰かが働く必要はどうしてもある。

 その辺りはみっちり話し込んで教団を離れたのだ。なのでリナリーが深刻に心配するほど、精神的に追い詰められていたわけではない。
 ……まあ、詳しく相談せずに任務任務のモードになったのは、悪かったと思っているけど。

「あこやちゃん。本当に何も知らないんだね? キミたちはそういう二人だから、これは疑っているわけではないんだけど」
「あはは、お見通しか。……何も言わなかったよ。ただ神田のやることくらい想像できていたから、あんまり驚いてはいないかな」
「……あこやちゃんはそれでいいのかい」

『薄氷』に頼ってまで眠りについたわたしが、アルマを連れて逃げた神田に対して、単純じゃない想いを抱いていることはみんな知っている。
 コムイのこの質問はきっと、再びわたしのことなど一瞥もせず神田が走りだしたことについて、傷ついてはいないかという労わり。

「キミのお母さんは……」


 母を殺したアルマ。
 アルマを破壊してでも生きたいと願ったユウ。
 母を喪ったあの痛みはきっといつまでも忘れない。


 それでも今日に至るまでの長い日々──神田が隣にいなければ到底生き残れなかった戦いが、耐えられなかった悲しみが、確かに存在するのだ。


「あの日、北米支部で神田とアルマの過去を見た。第二使徒計画の薄暗い部分も、アルマが研究所を破壊しようとした理由も、神田が生きようとした理由も。それでもやっぱり、どうしてお母さんが殺されなければならなかったのかは解らない」
「……うん」
「アルマの境遇は不幸だと思う、だから九年前のことについて今更彼を憎む気もない。だからといって、赦せることじゃない」

 コムイは静かにうなずいた。
 痛みと思いやりを載せた痛切な眼差しを、真っ直ぐわたしに注ぎながら。


「でもわたしは、九年前に殺された母よりも、いま生きている神田の方がだいじなの」


 声が震える。
 それに気付いたコムイがわたしの両肩に手を置いた。

「いま、生きている、神田が。アルマを破壊した自分を赦せなかったあの人が、生まれてからずっとエクソシスト以外の道を択べなかったあの人が、初めて自分の意志で生きようとしてる」
「…………」
「神田とアルマは最期に二人で自由になれた。長い間続いた、神田の贖罪の戦いがやっと終わったの。わたしはそれが嬉しい、心の底から。だってわたし、お母さんと過ごした九年間と同じだけの時間を、もうずっと神田と一緒に生きてきた……」
「うん」
「薄情な娘だと思う?」

「そんなことないよ」力強く断言したコムイが繰り返す。「そんなことない」
 そのおおきな両手になんとなく父を思い出した。父が生きていれば、そう言ってくれるような気がした。
 事実わたしはそう諭されたのだから。

「強いね。あこやちゃんは……」
「『憎しみに敗けて揮う刃で護れるものなど何もない』……。難しいこと言うんだから、九歳の娘に向かってね」
「カゲマサさんらしいなぁ」

 コムイの指先がわたしの眦をなぞる。
 おかえり、と彼はいつもの調子で囁いた。ああ、帰ってきた、神田の記憶が多すぎるこの本部に。


 何も考えずに、ただ戦場を駆けるだけの獣でいられたらどんなにか楽だっただろう。


*     *



 その翌日──

 教団を退職して実家へ向かう元科学班ジョニー・ギルと護送する鴉部隊のもとに、神田ユウと思しき青年が現れたという一報が黒の教団を駆け巡る。
 以降教団は神田ユウ『保護』部隊を編成。ティエドール元帥と探索部隊に加え、エクソシスト一名が選抜された。


 神田ユウと一対一で渡り合える剣士として、市村あこやが抜擢されたのはいうまでもない。