甘い微睡みをずっと揺蕩っていた。
 このまま永遠に眠っていたい。戦争も、悲劇も、教団も、愛も、家族も、何もない世界で。
 少しだけ、疲れていたの。


 生まれる前からエクソシストで、それ以外の道が用意されていなかった人生。YUはアジア第六研究所を御戸代の世界と称したけれど、わたしにとっては世界がすでに御戸代だった。
 わたしは、神さまのための捧げもの。
 生まれてから死ぬまでずっと。


 たまにね、教団に生まれていなかったらどんな人生を送っていたんだろう、って思うことがあるの。
 そもそも父と母は教団で出会ったのだから、そうでない人生なんてありもしないんだけどね。
『薄氷』を背負っていないわたし。団服を着ていないわたし。ドレスか、あるいは着物に身を包んで、数えるほどの家族と友人を大切にしながら、平凡に成長して平凡に結婚して平凡に死んでいく。マリも、リナリーも、ラビも、ブックマンも、アレンも、ミランダも……脳裡に浮かぶたくさんの仲間や家族たちの誰とも出逢わないまま、生きて、死んでいく。

 ……神田とも。


 恐ろしいほど空虚な想像だった。



 こんな酷い裏切りを受けて、骨の髄まで断ち切られるような痛みを知ってなお、わたしはエクソシストでない自分が恐ろしい。



 やがて、世界は一定の間隔で揺れはじめた。
 五感がすこしずつ目覚めてゆく。

 嗅ぎ慣れた汗と土埃のにおい。あたたかな気配。ゆったりとした歩幅。わたしの体を抱く、逞しくて優しい腕、掌。


「……、……マリ」


 靴音が止まる。

「起きたのか、あこや」
「うん」
「いま医療班に向かっているところだ。どこか痛いところはないか?」
「……うん……」

 目を開けるのは億劫だった。体に力が入らない。負傷して寝込んだときとはまた違う気怠さだ。
 周囲に人の気配がないようだから、きっと夜中なのだろう。静かな廊下に、マリの靴音だけが厳かに反響している。

「かんだ……」
「…………」
「アルマといっしょに、行っちゃった……」
「ああ。聞いたよ」

 なのに、わたし、生きてる。
 神田がいないと息もできないなんて、大それた告白をしておいて。

「……さみしくなるね」
「ああ、……そうだな」


レゾンデートル


それでも海を臨む理由、対偶




 あのあと医療班と科学班を盥回しにされ、診察やら調査やら受け終わった頃には陽が昇っていた。
 婦長からは検査がてらそのまま入院を言い渡されたので、ベッドで大人しくしながらお粥を食べている。朝からひっきりなしにみんながお見舞いに来て、代わる代わるいままでのことを話してくれた。


 北米支部での一件から、二週間。


 あのあと地下牢に拘束されたアレンは、神田とアルマの居場所を一切黙秘したらしい。
 その状態で五日が経った頃、自白剤が入っているのを恐れて食事も摂らなかったアレンのもとを、リンク監査官が面会に訪れた。ジェリー特製だと解ってもらえるよう工夫したお粥を手に持って。
 そしてその直後、本部の敷地内にノアが侵入。
 アレンはノアとともに監査官を殺害して逃亡したとみられ、教皇は勅令を発令。アレン・ウォーカーのエクソシスト権限を凍結、以降ノアと識別する──



 ルベリエが見舞いに訪れたのは、午後三時のことだった。

「具合は如何かな」
「まあ程々に」
「私の焼いたケーキだが食べるかね」
「はい。いただきます。相変わらず器用ですね」

 減らず口を叩きながらシルバーのトレイに載せられたケーキを口に運ぶと、ルベリエはほんの少し目を瞠った。
 なんだなんだ。わたしがお手製のケーキを食べたのがそんなに意外か?

「何が訊きたいんですか。神田の行き先なら知りませんよ。長官だって見てたでしょ、わたしに一声もかけずにアルマのもとへ飛んでいった神田のこと」
「…………」
「わたし大失恋の直後なんです。傷心の乙女の傷をこれ以上どう抉ろうっていうんですか」
「心当たりもないのかね?」
「わたしに心当たる程度のことであれば長官やコムイにも見当がつくでしょうに」

 嘘は言っていない。
 心当たりはあるが、コムイやルベリエなら見当がついて当然だ。さっぱり判らないというのであればわざわざ教えてやる義理はない。所詮その程度だったというだけの話だ。
 さしものルベリエも「大失恋直後」とまで言ったわたしを尋問する気が失せたようで、「お大事にしたまえ」と言い残して病室を出て行った。

 ばたん、と扉が閉まる。
 思ったよりあっさり引き下がったな。
 まあ実際多くの人たちが、わたしと神田にほとんど会話がなかったことを見ているわけだし。しかもバッサリ斬られたところも目撃しているわけだし。

「ほとんど死亡確定のセカンド二人に追手を割くよりは……って感じかな」

 第三使徒計画の第一母胎となるアルマの遺体、ルベリエとしては、なんとしても確保したかったというのが本音だろう。しかしトクサが暴走したことを考えれば、第三使徒に見切りをつけざるを得なかったか。計画の拠点となった北米支部も、壊滅してしまっているから。
 それよりは、中央庁の目はアレンに向いている。

 ルベリエが持ってきたチョコレートのホールケーキ。ムカつくことに普通に美味しいので、残りはあとで食べよう。
 カバーをかぶせたところで、溜め息をつきながら入口を見やる。

「で、いつまでそこで突っ立ってるつもり?」

 ルベリエと入れ違いで、病室の前まで近づいてきていた靴音があった。明らかにわたしに用があるようなのに、一向にノックが聞こえてこない。
 たっぷり二十は数えてようやく、コムイは静かに顔を覗かせた。

「……ルベリエ長官、来てたんだね」
「うん。今のところ尋問にかける気はないみたいね。ケーキだけ置いて帰っていったけど、コムイも食べる?」
「……たべる」

 食べるんかい。
 コムイはしょぼんとした表情を一切隠すことなく椅子に腰かけると、ルベリエのケーキから視線を逸らして、力ない笑みを浮かべる。

「まずは、『おかえり』。こうしてまたあこやちゃんと会えて嬉しいよ」
「ん。心配かけたね」
「一応これは形式的な質問なんだけど、神田くんとアルマの行き先には心当たりがないかい?」

 アレンが操ることのできる方舟は、奏者の資格を持つ彼が今までに訪れた記憶のある場所、どこにでもゲートを開くことができる。
 幼少期の生い立ちが曖昧で、養父やクロス元帥と世界各地を旅してきたアレンだ。教団に入団したあとも任務で様々な場所に赴いた。選択肢が多すぎて絞りきれずにいるのだろうか。
 とはいえ『形式的』と前置きされたので、わたしも形式的に答えた。

「『わたしに心当たる程度のことであれば長官やコムイにも見当がつくでしょう』」

 コムイは深く突っ込まなかった。
 ただ苦しそうに微笑して、「そうだね」とうなずく。
 このあっさりとした引き方からしても、神田とアルマの生存の可能性が低いと考えられていると見ていいだろう。

「神田くんとやり合って酷い負傷があったって聞いていたけど、眠っている間にある程度は塞がったみたいだね」
「うん、『薄氷』の発動とともに出血も凍ったみたい。よく食べてよく寝て失血を補えって婦長が」
「そうだね、しばらく入院してゆっくり休んで……」
「いや、婦長から退院の許可が出ればすぐにでも任務に行く。今まで休んだぶん働くから。他のみんなを休ませてあげて」

 元帥護衛任務で教団はエクソシストの半数を喪っている。ここにきて神田、ラビとブックマン、それにアレンの四人の離脱は痛手だ。

「ありがとう。でも任務の復帰は慎重に……」
「コムイ。はやく」
「あこやちゃん」
「本部にいたくないの」

 そっと息を呑んだコムイが、わたしの頬に手を伸ばした。
 幼いリナリーを撫でていたのと同じような仕草で、わたしの髪に指を差し込み、慈しむように撫でる。


「ここには、神田と過ごした記憶が多すぎる」



 神田。
 あなたのいない世界に帰ったら多分、わたし、あなたをアクマにするだろうと思っていた。



 だけどできるはずがなかったね。
 きっと本当の意味であなたの名前を呼んでいいのは、いまも昔も、あの子だけだもの。




*     *



「行くのか?」

 コムイと話し合った末に決めた、復帰一発目の任務。
 しばらくはソカロ元帥とクロウリーとの三人組で動くことになる。誰と一緒に出掛けるよりも、ソカロ元帥といるのがいいだろうと思ったから。
 ゲートの間に向かうわたしの背に声をかけてきたのはマリだった。

「うん。コムイにも婦長にもルベリエにもオッケーもらったもん。人手不足なのにわたしだけ休んでるわけにいかないでしょ」
「……そうか」

 マリはやや言いづらそうに、しかし躊躇なく口を開いた。

「帰ってこいよ」

 お見通しか。
 まあ何だかんだで、エクソシストの中じゃ一番付き合いが長くて濃いもんね。
 神田との結びつきだってわたしと同じくらい強いマリだ。彼にとっても今回の事件はきつかったはず。

「ごめん。……しばらく空ける」
「正直だな」
「嘘を言っても仕方ない。コムイにも言ったけど本部には神田との記憶が多すぎて憂鬱になるし、それに……」

 言葉を区切ったこの脳裡に浮かぶもの。
 アルマの自爆のあと、陶器が割れるような音をたてて瓦礫のなかに倒れた神田の姿。
 ぼろぼろで、再生も儘ならない、罅割れた躰。


「神田を、捜しに行こうと思って」


 マリは真っ直ぐにわたしを見つめていた。
 九年前、光を失い、神田によって救われた命。わたしもマリも、たくさん神田に助けてもらって、救ってもらってきた。だからいつか神田の世界が少しでも晴れるようにと祈っていた。
 結局わたしたちは無力で、アレンに全部、泥をかぶせた。

「生きてはいないかもしれない、それでもいい。例え死体になっていても構わないから、彼らが自由な最期を迎えることができたという証拠がほしい」
「…………」
「そうでなければ、少なくともわたしは、前に進めない」

 逃げている。
 リナも、マリも、辛くとも前を向いて、エクソシストの古株として新しい世代をしっかり引っ張っているのに。
 わたしだけいつまでも過去に縋って逃げている。その自覚がある。


 だから征く。
 何も考えなくて済む戦場に。わたしの御戸代、聖戦の祭壇に。


「あいかわらず、弱くてごめん」
「いいや。──それでお前が、生きようと思えるなら」


 マリの見送りを受けて出立したわたしは、ベルリンのゲートを経由して、待ち構えていた探索部隊とともに馬車に乗った。ソカロ先生とクロウリーはドイツの海沿いの町で任務に当たっているらしい。
 合流した探索部隊は、よく神田とわたしと組まされた、寡黙で有能な隊員だった。

「久しぶりだな。市村」

 彼が本部にやってきて五年になる。ミランダとそう変わらない年齢のわりに落ち着いていて、探索部隊として非常に優秀なため、神田もこの人についてはわりと信用していた。

「久しぶりだね。元気してた?」
「ああ、少なくとも市村よりは」
「反論できない……」
「コムイ室長からわざわざ指名を受けたぞ。お前が無茶しないようしばらく張り付いていろと」
「ついでに監視報告書の提出もあったりするのかな? 仕事増やしてごめんね」
「全くだ」

 やがて蹄の音と、車輪が土や石ころを蹴る音に、潮騒が交じってきた。
 海のにおいがする。

「……出身はイタリアだったよね。どんなとこ?」
「何もないところだ」
「海は見える?」
「むしろ海しかない」

 端的な返事。
 本部にいる間、婦長や旧本部組やリナリーたちみんなから、触れれば割れる硝子でも運ぶような扱いを受けていたわたしには、かえって心地いいぞんざいな口ぶり。



 ああ、戻ってきた。
 血と死臭と、愛と悲劇しかない、白と黒の戦場に。
 わたし、ひとり。


 神田、だからあなたは戻ってこなくていいよ。
 アルマとともに死んだなら、どうかそこでじっとしていて。いつか迎えに行くから。中央庁が二人の捜索を打ち切った頃、こっそり行って、ちゃんと墓標を立ててあげる。

 生きているならどうか択んでほしい、これから先の道を。
 生まれた最初、あなたたちに与えられなかった選択肢だ。あなたには択ぶ権利がある。わたしはその意志を邪魔しない。だから、エクソシストじゃない神田ユウが想像できないわたしを許してほしい。



 生きているなら、わたしの知っている神田なら、きっと教団に戻ってくるんだろうなぁ。
 なんて浅はかな想像をするわたしを、どうか。



「……『ユウ』」

 久しぶりに口にしてみたその名前は、短く、軽く、空虚だ。やはりわたしには相応しくない。
 正面に座っていた彼はぴくりと反応したけれど、何も訊ねようとはしなかった。

 馬車の荷台で揺られながら、布に包んだ薄氷を強く抱きしめた。
 海岸線から続く北海はどこまでも青い。この向こうに神田がいるなんて馬鹿げた妄想だし、実際彼がいるのは反対方向のはずだけど、どうしてか臨まずにはいられなかった。