黒の教団が本当に壊滅した例の事件から、数日。
 バクやフォーを始めとするアジア支部の面々の死闘のおかげで、引っ越し作業がなんとか再開できるようになった。
 まず正気に戻されたのは当然、科学班とエクソシストたち。
 非戦闘員の団員は確保もワクチン投与も比較的楽だったけど、なんといっても元帥三人組に苦労した。特にソカロ元帥。丸一日戦った。最後にはわたしも参戦せざるを得なかった。

 翌朝、さすがに疲れた顔で朝食をとるラビと神田に歩み寄る。

「おはよう神田、ラビ」
「おはよーさぁあこや……」
「……ああ」

 ゾンビ明けの教団には、全体的に疲労感が漂っている。
 あの事件のせいで、もともと再起不能なまでにボロボロだった本部にはさらに大穴が増えていた。もう引っ越しが寂しいとかおセンチなこと言ってる場合じゃない。早く引っ越さないとそのうち崩れそうで怖い。雨が降ったら確実に濡れるし隙間風もやばい。むしろ早く引っ越したい。

「ねえちょっとこれ見てよ……」

 べろん、と着ていたシャツを胸の下まで捲り上げる。
 隣り合っていた神田とラビは、突然お腹を露出したわたしに一瞬ぎょっとしたが、次の瞬間ドン引きの顔になった。

 わたしの薄っすら割れた腹筋。
 その脇についた、青黒い歯型。

「お前……なんだそれ」
「ホラ、ソカロ先生に噛まれたところ。グロくない?」

 だから噛まれるならせめてクラウド元帥がいいって言ったのに。
 あのあとアレンもソカロ元帥にやられたみたいで、白い喉にくっきりと歯型がついてしまっていた。見える位置だけに余計可哀想だ。

 ラビは半目でわたしのお腹を眺めながら、パンを千切って口に放り込む。

「なんか位置だけ見るとちょっとエッチだな」
「ラビは擂り潰してほしいの?」
「どこを!? 姉さん怖いッ」


レゾンデートル


新しい日々とその生けにえ




 騒ぎから程なくして、黒の教団本部は無事に引っ越した。
 先んじて科学班数名とアレン、リナリーが新本部入りしている。中央庁の意向で移動に方舟を利用することとなり、アレンにはそのためのゲートを繋いでもらわなければならなかったからだ。

 アレンだけが持つ方舟の操縦権、『奏者の資格』。

 いまだ中央庁やクロス元帥からの詳細な説明はなく、わたしたちは胸の奥底にその疑問を仕舞い込んだままでいた。
 しかし新本部での生活が始まった初日、現存するエクソシストと元帥の総勢十二名は、ルベリエとコムイから真実を聞かされることとなる。



「アレン・ウォーカーは、『十四番目』というノアの“記憶メモリー”を持った宿主であることが判明しました」


 ルベリエは澄ましきった顔でそう告げた。
 エクソシストは全員「はい?」という状態だ。興味なさげに背を向けている神田の隣で腕を組む。

「……つまり、アレンはノア、ってことなんです?」
「いずれそうなることもあるだろう」

 ノアの一族。先達てミランダがイノセンスとともに発見された際、任務に当たっていたアレンとリナリーの前に現れたのが最初のコンタクトだ。
 続く元帥護衛任務や江戸での戦い、方舟戦、本部襲撃と、長い付き合いになってきている因縁の相手。

「『十四番目』の“記憶”とやらを持っているから、方舟が操作できたんですね。『奏者の資格』を持つのはアレンではなくその“記憶”。……現時点ではそれだけでも、これから先、『十四番目』の記憶や自我がアレンを乗っ取るかもしれない」

 独り言のようにまとめながら、内心ぞっとするのを抑えきれなかった。
 ルベリエは色のない表情で「その通り」とうなずき、この件は中央庁と教団幹部及びエクソシストのみ開示される情報であると続ける。

「……ですが表向きは、今後も彼には教団本部に在籍しエクソシストの役務を続行してもらいます。今は彼の奏者の能力が教団にとって必要であり、戦力面からみてもこれ以上の減少は痛手であることから、中央庁はノアをしばらく飼うという結論に至りました」

 ……『ノア』を『飼う』。
 相変わらず人の神経を逆撫でするのが巧い言葉選びだ。ヒリついたわたしの気配を察してか、神田がちらっと見下ろしてきた。
 大丈夫、別にこんなところでケンカ売ったりしないよ。

 話の続きはコムイが引き取り、やや険しい面持ちで、苦しそうに切り出した。

「只今をもってエクソシストに、教団司令官として無期限の任務を言い渡します」

 ……ああ、嫌だな。
 コムイがこうやって自分を押し殺して、『司令官として』なんて前置きをするような任務、碌な内容じゃないに決まっている。

「もしアレン・ウォーカーが『十四番目』に覚醒し、我々を脅かす存在と判断が下された場合は、……」

 言い淀む彼の唇の隙間から、噛みしめた歯が覗く。
 損な役回りだ。だけど今は、そういう決断を下すことでしか、恐らくアレンの立場を庇ってやることができない。


「そのときは僕を殺してください」


 やさしいコムイを思いやってか、アレンは静かに瞬いた。
 かえって残酷な言葉の刃だった。

「でもそんなことにはならない。『十四番目』が教団を襲うなら、僕が止めてみせる……」

 今度は隣にいる神田の気配がぴりっと尖る。
 アレンのこういう自己犠牲的な優しさが、彼は出会った当初から嫌いだったから。


「僕がこのふたりの犠牲になればいいですか?」
「犠牲ばかりで勝つ戦争なんて虚しいだけですよ!!」

「可哀想なら他人のために自分を切り売りするってか……?」
「テメエに大事なものはねえのかよ!!」


 そっと目を伏せて、記憶をなぞる。

 その後もいくつか話を聞かされたあと解散となった。元帥たちが部屋を出ていき、マリがミランダやチャオジーたちに退室を促す。神田が歩きだしたのに続いたわたしも、リナリーの肩を抱いてルベリエに背を向けた。


「話は聞こえていたかね。市村あこや」


 リナリーの肩が強張る。
 前を行く神田は、顔半分振り返り足を止めた。

 わたしはゆっくりと回れ右して、ルベリエと、コムイ、そしてその場に立ち尽くすアレンを見やる。

「先程の任務内容を復唱してみたまえ」

 一番に痛ましげな表情になったのはコムイだった。
 ああ、ねえ。
 そんな顔しなくてもちゃんと解っているから。


「アレン・ウォーカーがノアとして覚醒し、我々を脅かす存在と判断が下されたそのときは──」


 こう答えることで今、アレンの立場が保証されるなら、上辺だけの言葉を吐くのに躊躇いなんてない。



「速やかに彼を殺します」
「結構」


*   *



 新本部への引っ越し、人事の再編が進むとともに、体勢が整ったエクソシストたちにも任務再開の見通しが立った。
 武器が直った神田とラビ、目を覚ましたクロウリー。対アクマ武器の調整が済めばチャオジーもいずれ実戦に赴くことになる。まだ許可が下りないのは、わたしだけだ。

 世界各地に存在する教団サポーターの拠点にも、方舟のゲートが設置されることになっていた。
 アレンは前々からそのために出かけている。おかげでわたしたちの任務も移動が楽になるだろう。以前は汽車に飛び乗り乗車したり、嵐になれば船が出なくて足止めを受けたりもしたけれど、そういうことに時間を取られるケースも少なくなる。

 リナリーとアレンが任務に出るというので、わたしはお見送りと称して、リハビリがてらゲートの間までついてきていた。

「あの、あこや……」

 部屋の扉を開ける直前、新調された団服に身を包んだアレンがわたしの手を取る。

「すみませんでした。あんなこと、言わせてしまって」

 ルベリエに呼び止められた一件だろう。
 殺すと言われた側のアレンに謝られる意味はわからなかったけれど、縋るようにわたしの手を掴んだ年下の少年の、華奢でしなやかな指を撫でた。
 ゲートの間の両脇には衛兵が立っている。監査官の目もあるから、曖昧に言葉を選んだ。

「……もしそんなことになれば、アレンが誰より辛いだろうと思ったからああ答えただけ。大丈夫。いざそのときになったら、ことが起きるより先に息の根を止めてあげるからね」

 こくり、とうなずいた彼の、白い髪の毛を指先で梳いた。
 以前よりも、左額のペンタクルがよく見えるように分けられた前髪。
 アクマにしてしまったという養父に刻まれたという、呪い。

「でも信じてるから」

 その肩に手を回してぎゅっと抱きしめた。いつの間にか背が伸びた彼の後頭部を引き寄せ、頬と頬をくっつける。「あこやっ」と慌てたように声を上げたアレンがちょっと赤くなっていたのに、つい笑ってしまった。

「アレンは負けない」

 そっと、露わになった左額に口づける。
 誰より早くアクマの気配を察知して、何度も何度もわたしたちを助けてくれた愛しい呪い。
 ぽんっと顔を真っ赤っかにしたアレンから一歩下がり、一連を見守っていたリナリーや監査官に向けて手を振った。

「行ってらっしゃい」

 するとリナリーがぷくっと頬を膨らませる。何やら不満げにわたしを見つめたあと、右手の人差し指でほっぺたを指しながら「ん!」と顔を寄せてきた。
 ……なんだこの可愛い生き物。
 内心悶えながらその小さな頭を引き寄せ、頬にキスをする。

「リナ」
「なーに?」
「わたしはリナをそんな魔性の女に育てた憶えはない……」
「あら。あこやにだけよ。“姉さん”」
「なお悪い」

「行ってきます」微笑んだリナリーの声で我に返ったアレンは、あわあわとフードをかぶって顔を隠すと、逃げるようにゲートの間の扉を開ける。

「こらぁ、アレーン!『行ってきます』は?」
「い……行ってきます!」




 彼ら三人の姿が見えなくなると、にこやかに振っていた手から力が抜けた。

 ……子どもの頃、わたしの世界には『教団』と『アクマ』しか存在しなかった。
 教団は聖でアクマが悪。至ってシンプルなこの構図の均衡を崩したのは、教団の暗部から生まれた神田。今ではもう、黒の教団の組織が一点の曇りもない潔白ではないことも知っている。
 けれど。


 千年伯爵。『ハート』。ノア。
 方舟。レベル4。『十四番目』。
 “記憶”。宿主……。


「ああ……、……痛いな」

 小さく息を吐いてきびすを返す。
 具体的にどこがどう痛いというわけではなかったけれど、どうしようもなく、体中のどこかがつきつきして堪らなかった。