過去篇『ストレイシープ』はすでにお読みでしょうか? よろしければ先にそちらをどうぞ。




 北米支部が造り出した、半AKUMA種“第三使徒サードエクソシスト”。
 人体を半AKUMA化することで、共喰いによってAKUMAを斃すという人造使徒の導入が発表されたとき、神田の脳裡に浮かんだのはあこやの顔だった。


レゾンデートル


あのこの棘のぶぶん




 北米支部長レニー・エプスタインが第三使徒を伴って本部を訪れたとき、あこやは任務に出ていた。従ってその報を聞いたのは神田たちよりも一歩遅く、本部に帰着したあと、司令室でコムイから打ち明けられたという。
 神田があこやと顔を合わせたのはその直後、食堂でのことだった。

「あ……、神田」
「帰ったのか」
「うん。ただいま」

 あこやが両手で持った盆の上には温かい蕎麦がある。
 席を捜している最中だったのだろう、神田の横が空いているのを見てすとんと隣にやってきた。

「…………」
「えへへ。久しぶりに蕎麦、食べたくなって」

 風呂に入ったあとなのか、あこやはゆったりとした袍に身を包んでいた。長い髪の毛も結ばず背中に流している。
 いつもなら任務終わりだろうが何だろうが稽古着で修練場をうろつくくせに、今日はもう休むつもりなのだろうか。怪我でもしたかと観察してみるもその様子はない。

 いただきます、と両手を合わせたあこやは箸を手に、蕎麦を掻き混ぜ、瞬きを繰り返した。
 余程伸びるぞと言おうかと思ったが、さすがの神田もあこやが落ち込んでいるようなのは判っていたので、黙って隣に座っていた。自分がその話を聞いたときに彼女を思い浮かべたように、彼女もまた自分を思い浮かべただろうから。

「……もう聞いてる?」
「あ?」
「第三使徒」
「……ああ」

 一昨日、修練場にそいつらが通りかかって。たまたまモヤシがぶつかって、半分アクマだからイノセンスに反応して、モヤシが怪我をして。
 その辺りの顛末をぽつぽつ語り聞かせると、あこやは箸を置いた。「お腹へらない」と、盆ごと蕎麦をこっちに寄越す。こっちだって二杯目はいらないのだが。
 溜め息をついて、頬杖をついた。

 神田としては特になんの感慨もない話だった。
 第二使徒セカンドエクソシスト計画は確かに凍結した。当主を喪ったチャン家とエプスタイン家、そしてエクソシスト市村景政とティエドール元帥の働きによって。そもそも神田はその『凍結』自体が怪しいものだと思っていたし、ここ一年の戦局を見れば中央庁やどこかが戦力増強を図るのは当然の流れだ。
 懲りないやつら。
 すげぇ発想。
 飽きもせずよくやる……。

 隣で黙ったままどこか遠くを見つめているようなあこやの、頬にかかる髪を指先で掬う。木か小石でも掠ったような小さな傷が頬骨のあたりにできていた。
 髪を耳にかけて、指の背で傷を拭う。
 あこやは反応を示さない。
 瞳が揺れている。

「わかってる」

 少しして、喧騒に消え入りそうな声であこやは言った。

「ノアの一族が出現した。アクマは進化した。エクソシストの数が減った。教団の戦力は厳しい。どこかで誰かが、戦力を増やすべきだと考えるのは当たり前の話」

 そうだ。あこやは戦士だ。感情とは別にしてそういう計算が働く。
 でも納得できないんだろう。
 彼女もまた九年前の惨劇の被害者だからだ。

「これで本当にみんなの負担が減るのなら、わたしは納得しなければ」

 空虚な響きの言葉を並べる唇を、掌で覆って黙らせた。
 聞いていられなかった。

 あこやが押し付けてきた蕎麦を、近場で食事していた顔見知りの探索部隊に押し付ける。「なんだこれ」と訊ねてくる声を無視してあこやの腕を掴み、食堂をあとにした。
 すれ違う団員たちのなかに、「あれってあこや?」と囁く声が聞こえる。
「いつもと違うな」だの、「部屋着姿は珍しいな」だの。
 見当違いも甚だしい。家族だというのなら、いつも通りを装うことのできない異常を察しろよ。

「……チッ」

 自室のドアを開けて、ベッドにあこやを放り投げる。幸い同室のマリは任務だ。

「ハナからできもしねぇこと言ってんじゃねーよ。鬱陶しい」
「…………」

 寝ろ、と肩を押して横たわらせる。エクソシスト戦力筆頭の女剣士の体は呆気なく神田のベッドに沈み込んだ。
 投げ出された両脚の傍に腰を下ろすと、反動であこやの体が少し跳ねる。
 ……白々しいまでの軽さ。

「神田は、どうして、って思わない?」
「思わねーよ。教団がどうなろうが俺の知ったことじゃねぇ」
「辛くない?」
「懲りねぇやつらだなとは思う」
「あの本部襲撃で、人造使徒計画を停止したのは間違いだったとわかったと、レニーさんが言ったって」
「……どうせそのうち誰かがまた始めんだろうとは思ってた」

 やがて、すすり泣く声が聞こえてきた。

 傷痕だらけの両腕で顔を隠して、誰も聞いちゃいないのに声を殺す。
 本部襲撃の最重傷者。血だらけになって戦ったその女が、守れなかったものを数えては自らの無力を嘆いている。

 教団の体制なんてものを信じていない。どうせ碌でもない実験や研究なんて山ほどしている。神田やあこやには決して明かされない負の側面などいくらでもあるはずだ。だから今回のこともたいして驚きはなかった。
 ただその結果がこの女を不安定にさせていることに、腹が立つ。

 第三使徒計画を推進した北米支部長は第二使徒計画の関係者だ。
 あの事件に巻き込まれたあこやが、穏やかでなくなることくらい解っていただろうに。

 知らず噛みしめていた歯がぎりっと音を立てた。

「神田」
「……寝ろっつったろーが」

 あこやが片手を伸ばしている。
 咄嗟に、本当に反射的に、その手を握った。
 あこやの指先は冷たい。どちらがそうしたわけでもなく、指を絡めた。

「神田。いっしょにねて」
「…………」

 ……いい加減ガキじゃねーんだぞとか任務先で宿が取れなかったわけでもあるまいしとか旧本部みたいな一人部屋でもねーんだぞとか、反論する文句は一瞬で頭を過ぎったが。
 それら全てを飲み下して、渋々、体を横たえた。

「明日になったらちゃんとする」
「…………」
「ちゃんとするから……」

 あこやに背を向けるように横臥すると、しばらくして抱き着いてきた。
 背中が涙で濡れる感覚がする。

 早く寝てしまえ。
 第三使徒計画はすでに導入された。
 どうしようもない現実に泣くくらいなら、早く寝て全て忘れていつも通りバカみたいに笑え。


‥‥‥




 第三使徒が実戦に投入されてから少し経った頃、神田は単身アジア支部を訪れていた。
 本部配属になったジジからアジア支部の刀工ズゥを訪ねるよう言われたのを、三か月経って思い出したからだ。というかいつまで経っても顔を見せない神田とあこやに対して、再びの催促があった。
 生憎あこやには直前に任務が入り、一人で来る羽目になったというわけだ。
 方舟ゲートを出た瞬間遭遇したバクに連れられ、今は老師が来るのを待っている。

 いい思い出など一つもないアジア支部。
 ここに来るたびにいつも苛立つ。

 しかし六幻を抱え、支部から広がる外の景色を眺めているうちに、最初感じていた苛立ちは少しずつ凪いでいった。
 中国、荒野の乾いた風に、景政のことを思い出していたからだ。
 神田が知り合ったときにはすでに隻腕だったあこやの父はかつて、この中国で起きた大規模な戦いで利き腕を失ったらしい。
 アクマの血の弾丸に被弾し、自ら利き腕を斬り落とした。
 そう聞いていた。
 だが実際はもっと血腥い状況だったのだと、先日マリから教えられたのだ。



 人の気配で目を覚ました神田は、その足音からマリだと判断して動かずにいた。
 これがティエドール元帥やラビや科学班の連中なら、廊下を歩いてくる時点で察してあこやをベッドから投げ落とす。こんな状態を見られたら揶揄されるのが判りきっているからだ。
 マリは呼吸の数と音で、神田のベッドにあこやがいることを察知した。
 巨躯に反して静かな足音が近付いてくる。神田とあこやを覗き込み、掌をかざすようにして何かを確かめてから、足元に畳んであった布団を広げた。

「落ち込んでいたか?」

 神田が起きていることさえ知っている。
 マリは二人の肩まですっぽりと布団で包み込んでから、あこやの頭を撫でた。

「……納得しようとしていた」
「寝息が苦しそうだ」
「泣いたからな」

 あこやが唸った。「ぉとうさん」と鼻にかかったような甘え声。マリがくすぐったそうに笑う。
 その気配に目を覚ましたらしく、あこやは瞬きをした。

「……マリ……?」
「起こしてしまったな。すまない」
「んーん……。ただいま。うわ、思いっきり寝てた」

 ホントになと神田は内心呆れたが、声の調子がはっきりしていたので、まあ頭の切り替えには成功したんだろう。部屋に連れてくる前は本当に、夢のなかで迷子になっているような有様だった。
 あこやはマリの手を見て顔を強張らせる。

「マリ、その手」
「ああ……パリの任務で被弾してな。ウイルスが回る前に指二本、落とした」
「そんな」
「カゲマサさんのおかげだな。迷わず決断できたよ」

 あこやの父、神田の剣の師匠、今は亡き教団屈指のサムライ。神田が出逢う前に任務で被弾し、自ら利き腕を斬り落としたというのは昔から有名な話だった。
 だが。

「ぁ」

 あこやは両頬に爪を立ててか細く叫んだ。あ、あ、ぁ、と細切れの悲鳴が上がる。

「……おい?」

 異変に体を起こしたときにはもう遅く、「ちがう」と絶叫が響き渡る。せっかく一度寝て落ち着いたというのに今度はなんだ。
 頬や首を爪で抉りながら、あこやは喉を潰すような呼吸を繰り返した。
 白い膚に赤い掻き傷が浮かぶ。
 血が滲む。

「あこや」
「ちがう。ちがう。ちがう!!」
「──何が違う」

 とにかく自傷を止めるために両手首を掴むと、あこやは顔を上げて、神田の向こうの過去を見ながら言った。

「わたしが斬った!!」

 マリが息を呑む。

「わたしが。おとうさんの、うでをきったの」

 ガタガタ震えるあこやの体を抱き寄せた。
 どういうことだかわけがわからないが、その場にいたはずのマリが否定しないのだから事実なのだろう。景政の腕を斬った感覚が蘇るのか、あこやの両手は慄いていた。

 震えが止まらない。喘鳴のような呼吸も。
 ごめんなさいと聞こえた。おとうさんごめんなさい。
 どうして謝ることがあるというのか。
 マリはしばらく唇を引き結んでいたが、やがて「思い出させてしまったんだな」と息を吐いた。

「どういうことだ」
「あの日……。カゲマサさんは、あこやを庇って被弾したんだよ」

 今度は神田が息を止める番だった。
 そんな話はあこやからも景政からも聞いたことがない。

「手の甲辺りを。景政さんは、咄嗟に左手で『桜火』を拾い上げて前腕を斬り落とそうとした。だけどできなかった。逆の手では骨を断つまでいかなかったんだ。それで景政さんが一言、『あこや』と呼んで」

 あこやはその呼び声に正しく応えた。
 即座に『薄氷』で父親の利き腕を、二の腕から斬り飛ばしたのだ。
 両手で柄を握りしめ、逆袈裟に一刀。アジア支部の医療班が目を瞠るような見事な切り口だったという。
 しかしその出来事はあこやの心に深い、深い傷を残した。精神的なものが睡眠に影響しやすい性格のあこやは不眠に陥った。だから景政は当時のアジア支部長に頼んで、あこやの記憶を一部封印してもらったのだ。
 つまり父は自ら利き腕を斬り落としたのだと、記憶を改竄した。


 ……そうして、隻腕となった景政と、盲目となったマリと、記憶を一部失ったあこやは、アジア支部で神田たちと出逢った。


「また、はじめたんだな……」

 記憶の階段を静かに下りているうちに、気付けば口をついて出ていた。
 あのあとあこやは精神を防衛するように気絶してしまい、神田はあこやを抱きかかえたまま朝陽を待つ羽目になった。マリは「寝かせようか」と提案してきたが、そうするとまた父親の腕を斬った感触を掻き消すように自傷するのではないかと思えて、放すことができなかった。
 あのタイミングで記憶の封印が解けたのは、第三使徒計画の動揺のせいだったんだろうなと、神田は考えている。

「今度は半アクマにしてアクマを喰わせんだって? すげぇ発想」

 実際すげぇなと呆れ半ばに思っている。そうまでして勝ちたいか。そうまでして救いたいか、こんな世界を。
 思い耽る神田の背後で「やはり」とバクが立ち上がった。

「キミを傷付けてしまったか……っ」
「……は?」

 一瞬何を言われたのか解らなかった。傷付いたなんて誰も言ってねーよ。

「いや傷付いて当然だ……っ。すまん神田」
「まてオイ」
「キミにした誓いを我々は守れなかった」

 なんか誓われたか? じりじりと近寄ってきたバクが神田の肩を掴んだ。やめろ触るな。

「ちょ……」
「殴れ!! 言い訳はせん! ボクを殴りたまえ神田!! 思いっきり殴……」
「傷付いてねぇよ!!」

 暑苦しいし鬱陶しいし顔が近いので遠慮容赦なく殴り飛ばした。ぐはぁ、と頭から後ろ向きにバクが倒れていく。受け身くらいとれ。あと勝手な妄想はやめろ。

「謝る必要なんざねーよ。教団がどうなろうが俺にはどうだっていいことだ」
「キミがそうでも、我々にとってキミはそうではない……」

 九年前、中央庁が推した人造使徒計画で神田を造りだしたのは、バクのチャン家とレニー・エプスタインの一族なのだから。
 震える声でそう言ったバクに、わかってんじゃねぇか、と内心白ける。
 その通りだ。ならば今回のこれが、あいつをどれほど苛むかもわかっているんだろう。

 傷付いたというならば、俺ではなく、

「──謝る相手は別にいんだろ」

 思いのほか低い声が出た。そのことに自分でも驚いた。
 あこやはあれから、第三使徒計画については「もう決定されたことだから仕方がない。戦力になるのならば、言うことは何もない」というスタンスを見せている。
 第三使徒との任務もこなして帰ってきた。連中にも笑顔で接する。
 いつも通り、よく笑う。

「合わせる顔がない……。彼女は何か言っていたか?」
「何も。どっかの支部長みてーにギャアギャア騒いでもねぇよ。今もサードと任務に出てる」

 泣いていた、と言ってやればよかったか。そうすればこの支部長はまた中央庁に抗議だなんだと大騒ぎするだろうか。

 あこやが飲み込むと決めたことだ。
 ならばあの痛々しい泣き姿を口外してなどやるものか。