「ねぇ起きてる?」

 これが、彼が初めて聴いた声。

「もしかして起きてる? キミ。起きてたら手、上げてみて」

 これが、彼が初めて自らの意思で体を動かした瞬間。

「やったあ! 嬉しいなぁ、ぼくひとりだけなのかと思ってたから!」

 少年が水面を覗き込む。これが、彼が初めて見た笑顔。

「キミはね、『YU』っていうんだって」

 これが、彼が初めて聴いた自分の名前。

「え? ぼく? なんか照れるなぁ、えっとぼくはね……」

 彼の人差し指が少年を向く。これが、初めて自ら示した言葉。


「『Alma』、っていうんだって……」


 これが、彼が初めて聴いた、自分以外の誰かの名前。


レゾンデートル


その白い肌が灰になるまで




 どうやらあのターバンを巻いたノア、ワイズリーと呼ばれていた彼には、人の脳をいじる能力があるようだ。
 ヨルダンで神田の頭を潰し、わたしには夢を見せ、そして今こうして神田の記憶を再生させている。この様子だと神田もアレンもロードも、もしかしたらアルマも、同じ映像をどこかで見ているかもしれない。


 彼が目覚めたそこは、暗く、深い、地下の底。


「黒の教団、アジア支部、第六研究所……」


 ……悪性兵器AKUMA。千年伯爵。エクソシスト。イノセンス。
 ……生まれた理由も、生きる理由も、すべてが用意された御戸代の世界だった。


 小さな彼が、胎中室の水の中から生まれる。
 慌ててタオルを持ってきた研究員の面々の顔を見て、懐かしさに涙が出そうになった。
 エドガー支部長補佐。トゥイ支部長。バクの両親であり、母の研究仲間だ。

 目覚めた被検体『YU』は、アルマと激しいケンカを繰り広げながらも、第二使徒としての実験に投入されていく。


 ……アルマ。気持ち悪い奴。
 ……へらへら笑って、いつも、いつも──こんな所で。


「頭おかしいんじゃねぇの……」
「こんな所で! ヘラヘラ笑って!!」



 茫然と立ち尽くしたまま、容赦なく再生されていく映像を追いかけた。





 鴉部隊が両脇で監視する中、イノセンスに手を伸ばした彼の体から血が噴き出す。
 イノセンスに対する非適合者を無理やりシンクロさせる、その実験自体は昔から行われていた教団の裏の顔だ。だがイノセンスは非適合者を認めない。大抵は咎落ち現象が起き、実験を受けた人は命を落とした。
 彼らはその咎落ちを防ぐため、体が再生するよう造られた。わたしはそういうふうに理解している。

 わたしが第二使徒計画について知っていることは少なかった。
 亜第六研究所は人造使徒を造る研究をしていた。適合者とイノセンスの結びつきを研究していた母が招聘され、協力していた。『Alma』と『YU』は造られた人間で、体を再生するための術が施されていて、暴走したアルマによって研究所職員が殺された。アルマは死んで、彼が生き残った。
 それだけだ。

 彼が、ここでどんな実験を受けていたのか。
 母はここでどんな研究をしていたのか。
 そんなこと聞かされなかったし、神田が話したくないなら話さなくていいと思っていたから、きっと知る日も来ないだろうと。

 なのに、こんなかたちで。


「お前は死んだら生き返らないんだな」
「……え、神田って生き返るの?」
「実験中に死んだ。何回も」


『大丈夫だ! セカンドなら必ず適合者になれるはずだ! 人間の希望になってくれ』

 血塗れの彼がイノセンスに手を伸ばす。
 目を逸らしても、その小さな体が潰れる音は止まない。これは神田の記憶だ。彼が体験した過去。その痛みも、恨みも、九年前実際に起きたこと。

「くそったれ、いのせんす……」

 幼い声で発せられた呪詛。
 息ができなくなった。


**



 イノセンスと無理な同調をする日々を繰り返しながら、少年たちが徐々に歩み寄っていく。
 ケンカして、罵り合って。
 同調して、死んで。
 生き返って、再生して。
 壮絶な日々のなか、ある日ふと、二人で大笑いして。

 きっと教団の誰も見たことがない彼の無邪気な笑顔に、誰も聴いたことがない、とうめいな笑い声。


 きっと本当は、神田の片割れは、今も昔も彼だけだ。
 その名を呼ぶことを本当の意味で赦されているのも。


 記憶のなかにはわたしの知らない母もいた。
 アルマたちと一緒にお喋りをして、外の世界のことを教える。人間のことを教え、物語を読み聞かせ、そして彼女の夫と娘の話をする。

「あこやって言ってねー、アルマとユウと同じ年くらいの娘がいるの。本部でエクソシストとして戦ってるから、二人もいつかあの子に会ったら仲良くしてあげてね」
「キャスってお母さんなの!?」
「ふふふ、実はそうなのだ!」

「ムスメ……?」
「女の子なんだよー。胎中室のみんなは男の子だからあんまり実感湧かないかもしれないけど、二人とはちょっと体のつくりが違うわけ。女の子はお母さんになれるのよ」
「ぼくらはお母さんにはならないの?」
「まあよっぽどのことがない限りならないなー。男の子は、エドガー博士みたいな『お父さん』になるの」

 お母さん。
 アルマに殺されて、もう二度と会えないお母さん。

「ぼく早くあこやに会ってみたい!」
「アルマならきっとすぐ仲良くなれるわ」
「ホント? キャス!」
「あこやとよく似てるものー。元気いっぱいで明るくて笑顔がステキ!」
「やかましい女なのか」
「ちょっとユウいま何て言った!?」


***



 やがて、彼の体には変化が現れた。

 知らない女性の声が聴こえる。知らない女性の、姿が見える。
 見たこともないはずの花が見える。
「ずっと、待ってる……」囁くような声。

 幻覚を見るようになった彼の凍結処分が決まると、それを聞いたアルマは研究所の職員を昏倒させ、たった一人の友人を連れて逃げだした。

「まだ起きてないみんな、ごめんね……」

 幻覚症状のせいでぼんやりしている彼が、バカだろお前、と心の中で小さく零すのが聴こえた。

「ユウが処分されたらぼく耐えられない、ユウだけなんだ……!」


「わたしはあなたがいないと息もできない」
「……バカだろお前」


 追跡してきた鴉部隊を振りきり、アルマは彼を地下水路へと蹴り落とす。

「うまくいけば外に出られる……カモ?」
「かもって何だよッ!」
「逃げて!」


「──バカだろお前っ!!」


** **



 ここからのことはわたしも、憶えている。
 あの頃わたしたちは中国での大規模な任務についていた。大勢が死傷したが辛勝をもぎ取り、アジア支部で療養していたのだ。
 父はわたしが知る限り初めての大怪我を負い、アクマの弾丸に被弾した左腕を自ら『桜火』で斬り落とした。
 マリは目に傷を負って視力を失った。九歳のわたしの小さな体にも、至るところに包帯が巻かれている。

「次できっと私も死ぬ……死ねる」

 支部の北地区にある廊下の、低い欄干に腰掛け、マリはイノセンスで鎮魂歌を奏でていた。

「もう仲間の死臭を嗅いで戦わなくていいんだと、ほっとしてるんです」

 病室で休むようにと捜しに来たバクに、マリは穏やかに微笑んでいる。


「……使徒に縋る、私たちが憎いか……?」

「いいえ。もう私には、何も見えませんから」


 彼の膝に両腕と顎を載せて、わたしは目を閉じた。
 死を望むマリの気持ちが解らないわけではない。今回も大勢の家族が死んだ。わたしや父やマリを守るようにして。泣き腫らした瞼が重く、体中が軋んでいる。

「わたしはマリが死んだら泣くよ」
「あこや……」
「きっと泣く」

 そっと呟くと、彼は手探りでわたしの頭を撫でた。

 ぴく、とその指先が強張る。

「今……子どもの声がしませんでした?」
「えっ? い、今か?」
「子ども? わたし聞こえなかったけど」

 首を傾げるわたしと、辺りを見渡すように顔を動かすマリの間に、ぬうっと子どもが割り込んできた。廊下の下を通る水路から這い上がってきたらしい。
 ずぶ濡れの少年。

「なっ、なになに、誰!?」
「なにが『うまくいけば』だあの野郎!」

 死ぬほど冷てぇし、つか死んだし、とブツクサ呻く彼の背中には、鴉部隊の式針が刺さっていた。医療班を呼びに行こうとしたバクの足首を掴んで顔面から転ばせ、「抜いてくれれば治る」と顔を上げる。
 荒い息で位置を探ったマリが、その体を抱えて抜いてやった。

「これで大丈夫か?」
「抜けば治るって……すごく血が出てるけど本当に大丈夫?」

 彼の顔を覗き込むわたしたちに、彼はぱちりと瞬いた。

「おまえら……どっかで……?」

 その途端にこてんと寝た少年に戸惑っていると、「その子どもをお渡しください」と音もなく鴉部隊が現れたのだ。
 ひと悶着あったものの、あとから母がやってきて鴉とともに彼を連れて去っていった。
 これが、わたしとマリと彼との、最初の出逢いだった。


** * **



『あの人』が振り向く。しあわせな夢のなかで。


 ……ねえ、この花、知ってる?
 ……蓮華の花。泥の中から天に向かって生まれて、世界を芳しくする花なのよ。


 愛してる、そう呟いた『彼』は青空に向かって手を伸ばしていた。ずっと愛してる、それが『彼』の最期の言葉だった。暈けた視界にアクマが入り込み、まだ生きてやがると哄笑を上げながら、とどめを刺す。



 おまえを、あいしてる……。



 目を開けると、『彼』は、被検体『YU』は亜第六研究所の中の薄暗い一室の寝台に横たわっていた。
 凍結処分の準備を進めていくトゥイ支部長、レニーと、その父サーリンズ。少しずつ拾い集めた記憶の欠片を繋ぎ合わせて、彼は自分の身に起きたことの顛末を、悟った。
 狂ったように笑いだす。

「ユウ、これからお前に術をかける。少し苦しいだろうが、すぐに終わる」
「騙してたな?」

 深い、深い絶望と怒りに満ちた冷眼が、彼には見えていないはずのわたしまで射貫いた。
 おまえも同罪だと言われているような気がした。
 教団の正義の仮面しか知らなかったわたし。


「第二使徒計画? 人造使徒?」

「ちがう」

「ちがうね」


「何もかも全部でたらめだ!!」


 決まって現れる女性の後ろ姿。彼女の愛した蓮華の花。アクマに殺された『彼』。執拗にシンクロさせられたイノセンス。第二使徒計画。アルマも、胎中室でいまだ眠る彼らも、きっと同じ。


「俺はAKUMAに殺されたんだろ……何しやがったお前ら……『俺たち』に何をしやがった!?」


 サーリンズの一言で術が開始される。
 激しい抵抗の末、目を見開いたまま涙を流して眠りについた彼の瞼を、トゥイ支部長がそっと閉じた。


「……会いたい人がいる」


 寝台の脇から彼を見下ろし、わたしは小さく、ごめんねと謝った。この声が彼に届くことはない。それはちゃんと理解している。
 全てはもう済んだこと。
 神田が確かに痛みを伴って経験した厳粛な過去。
 わたしには一生手の届かない、彼のなかの柔らかい部分。

 彼はずっと、『彼女』を捜していたんだ。
 かつて『彼』だった彼が愛した人。永遠を約束し、その最期の最後まで想い続けたひと。振り返る笑顔がまばゆく、美しい……そして、きっともう、生きてはいないひと。


「名前も、どこにいるのかも、生きているのか死んでいるのかすら解らねぇような人だ」

「……会えたらいいね」


*** ***



 鴉部隊に捕まったアルマはそれでも全力で抗った。力尽くで拘束を破り、友人を守るためにイノセンスを望んだ。
 そして地下の奥深く、イノセンスの安置室で、この計画の真実を知ったのだ。


 全ては聖戦に勝つため。
 一向に実を結ばぬ非適合者への人体実験の果てに、教団は、適合者を人造化することでその数を保持する計画に着手した。
 戦闘不能になった適合者の脳を別の器に移殖することで、イノセンスの適合権が移行するか実験したのだ。


 ──それが、わたしの知らない第二使徒計画。


「わかってるよ。教団は、第六研究所は戦争に勝つために悲しい研究をしていた、神田は被害者だ、神田だって痛い思いも悲しい思いもたくさんしていまも傷ついてる」


 わかっていなかった。
 わたしは、全然、ひとつも、これっぽっちも、あの人の痛みも悲しみも解っていない。本当のことなんて何も教えられていなかった、父もバクも教えようとしなかった、神田ですら口を閉ざしていた。
 幼いわたしが現実の闇に潰されないように。

 そしてアルマは、だから。
 かつて死んで、死してなお戦わされようとしている仲間たちを、これ以上苦しめないために。
 その死を蹂躙させないために。
 二度とこんな戦争の駒にならずに済むように。


 全てを、葬り去ろうとした。





 あの日わたしはこっそり第六研究所に忍び込んでいた。
 ずぶ濡れの少年を拾った直後、わたしとマリは新しい任務に出かけた。そこでマリが戦闘不能になって支部に送還され、わたしは暇を持て余していたのだ。彼が第二使徒計画の被検体になろうとしていたなんて知りもせず。

 この間お母さんが連れて帰った男の子、どうなったんだろう?

 それが気になって、アジア支部を駆け回って。道中なんとなく変な気配を感じて、誘われるように地下深くへと下りて行った。研究所は守り神のフォーによって鎖されていたはずだけれど、きっと、アルマの逃亡の混乱によってどこかに綻びが生まれていた。
 実際、巡る記憶の片隅に、「あこやが忍び込んだ!?」と焦る母や「キャス、ここはいいからあこやを捜しに行って」と廊下を走るトゥイ支部長の姿があった。

 思えばわたしは、アルマがイノセンスを操る気配を感じていたのだろう。
 あるいは夥しい数の死を。

 気配を追って、『胎中室』へ。

 床にいくつも開いた丸い穴。運命の二人が生まれたところ。その穴を満たす、どす黒い血。
 折り重なる死体、死体、死体。
 強烈な鉄の臭い。嗅ぎ慣れた死臭だ。
 そこで、わたしを捜す途中でアルマに斬られた母を、見た。

「お母さん」

 母の血が顔面にかかる。

「あこや来ちゃだめ、逃げて、逃げるの」

 床を這う母の頭上に、少年の右手から繋がる鎌のようなものが振り下ろされる。

「研究所の外へ、支部まで戻って、お父さんのところへ!!」
「おかあさ……」

 血の海に静かに落ちた母の手。
 跳ねた血痕。
 閉じた瞼、蒼白い頬。

「キミ、だれ?」

 きょとん、と無邪気な表情で彼は首を傾げた。こっちの台詞だった。

 あなたは誰?
 どうしてお母さんを殺したの?

 ここにいるみんなも、あなたが殺したの……?


「もしかしてキミが『あこや』?」


 きりきりきりきり……と軋むような音とともに、いびつな翼のように広がった少年の右腕の刃が襲い掛かってきた。
 咄嗟に『薄氷』の鞘で受ける。
 軽い体は壁に吹っ飛ばされた。一瞬、意識が遠のく。

 そのとき通りかかったのが、マリを背負った彼だった。

「アルマ……」
「ユウ、会えて嬉しいんだけど、ぼくキミを殺さなきゃ」

 このせつない言葉の直後に繰り出された怒濤の攻撃で、わたしは再び瓦礫のなかに埋もれた。体中が痛くて、ぶつけた額から大量に出血する。左手がうまく動かない。感覚がなかった。
 加工されていない剥き出しのイノセンスをわし掴み、小さな獣が傷つけあう。
 霞む視界に残ったのは、迸る赤い血、そしてイノセンスの光。

「……止められなかった……」

 ぼろぼろと涙を零すアルマが悲鳴を上げる。
 死してなお戦わされようとしている仲間たちをこれ以上苦しめないために、その死を蹂躙させないために、教団が二度とこんな実験をしようなどと考えないように、彼は文字通り全て、被検体である自分たちの存在まで徹底的に葬り去ろうとした。
 なのに、自ら致命傷を負っても、それでも修復していく躰。

 小さな体を蝕む憎しみと怒り。底知れない恐怖。
 あの日のわたしが、ただ見ているしかできなかった光景そのもの。


「何回破壊しても体が再生してきてっ……止められないよユウっ!!」


 泣きながら殺戮を繰り返すアルマを、彼もまた、泣きながら斬った。


 アルマ。
 教団も、戦争も、恨みも、怒りも、彼と一緒だったら全て飲み込めるとさえ思った大切なひと。


「ごめん……俺は生きたい」


 ……いつか二人で、一緒に見ることができたら。
 ……ホントに? おじいさんとおばあさんになっちゃってもよ?

 ……待ってるね。ずっと……



「お前を破壊してでも……!」



 ──『あの人』に会うために。