強く、肩を掴まれる感触で目が覚めた。

 視界は黒。神田の髪と団服の生地だ。神田に抱きかかえられる形で横たわっていたわたしの横に、『鴉』の札が何枚か落ちてきた。
 神田の体が修復していく、忌々しい音と煙。

「か……ん、だ」

 おかしい。体中あちこちが痛い。九年前の記憶を漂っているうちに肉体が攻撃を受けたのだろうか。
 神田は呻くわたしを鏡のような双眸で見下ろしていた。やがてわたしの肩と腿裏に手を回し、らしくない優しさで抱き上げると、無言で歩みだす。瓦礫の山を往くような、不安定な振動が伝わってきた。

 土埃が晴れて、頭上に広がる青空が目に入る。
 さっきまで建物の中にいたはずなのに、なんだ、この空。

「……?」

 ぼんやりしたまま顔を動かして、絶句した。
 北米支部が壊滅して辺り一面瓦礫の山になっていた。

「うそ……」

 どうしてこんなことに、と愕然とする頭の中の冷静な部分が、アルマ、と囁く。
 夢を見た。神田がアクマになったアルマと殺し合う夢を、あのノアに見せられた。

 ──まさか。

 わたしを平らな場所に下ろし一人立ち上がる神田の腕を、咄嗟に掴んだ。

「行っ、……ちゃ、やだ」

 怖かった。
 任務で父が左腕を失ったときより、第六研究所で母が殺されたときより。父が殉職したと知らされたときより、方舟の中で消滅に向かっていったときより。本部でひとりレベル4と対峙しようとしたあのときなんかよりも、ずっと、ずっと。

「いかないで」

 だってこの手を離したら神田はアルマのところに行ってしまう。
 アルマを破壊するために、行ってしまう。

「…………」

 震え始めたわたしの手を見つめると、神田はそっと手を重ねた。
 そして何も言わなかった。
 無言のままわたしの手を引き剥がし、立ち上がって六幻を掴み、体の傷を再生しながらきびすを返す。


 こちらに一瞥もくれず。


レゾンデートル


その白い肌が灰になるまで




 瓦礫と土埃と死臭のなかで立ち尽くしていた青年は、穏やかに狂ったような笑みを浮かべた。
 アルマ。

「ユウがどうしてぼくを裏切ったのか、やっとわかったよ」

 第三使徒計画の第一母胎となった彼の体には、アクマの卵核が埋め込まれている。
 わたしたちと同じように九年前の記憶を辿ったことで意識が覚醒し、教団に対する憎悪を思い出したことで、ダークマターが力を得た。完全なアクマとなったのだ。
 浅紫色の短髪。優しげな下がり眉。鼻の頭を通る一筋の傷。ノアに見せられた夢で神田と戦っていたのは、彼だ。

「ユウが生きたせいで人間共は悔い改めなかった。……ユウのせいでぼくはAKUMAになっちゃった!」

 例えば九年前、幼いアルマの決意の通り、第二使徒計画と名のつくもの全てを瓦礫の下に沈めることができていたなら。わたしも、マリも、神田も、レニーも全員死んでいれば。
 神田ユウという名を得た彼が、エクソシストとして優秀な戦力になっていなければ。

 アルマは二度と目覚めずに済んだかもしれない。


「だったら壊してやるよ」


 神田は迷いなく六幻を抜いた。
 夢に見たのとまるきり同じ光景だった。
 そして九年前に目の当たりにしたものと、吐き気がするほど酷似していた。

 母胎であるアルマのアクマ化に共鳴するように、サードのトクサの体が不気味に膨れ上がる。普通のアクマよりもよっぽど化け物のようになってしまった巨体がアレンに襲い掛かった。アルマの憎悪に引き摺られて、教団の名のつく者すべてを破壊しようと蠢く。
 北米支部はもはや壊滅。その被害の全貌は定かじゃない。それでもリーバーやジョニーたちは、一瞬前、わたしと同じようにトクサの衛羽に守られていた。

 その彼らを今度はトクサが殺しにかかる。


 地獄があるならきっとこんな光景かもしれない。
 人造使徒などという幻想に固執した、その末路がこれ。


 茫然と、神田とアルマの戦いを眺めているわたしの膝の上に、いつの間にかロードがよじ登ってきていた。
 まるで弟か妹でも慰めるように、わたしの膝を撫でる。

「かわいそぉだね、あこや」
「…………」
「アルマにお母さんを殺されて、アルマに殺されそうになったよね」

 ……やめて。

「アルマのいない九年間、ずぅっと神田のそばにいたのはあこやなのにね。それでも神田はアルマを択ぶんだ。アルマはあこやの大事なもの、全部持ってっちゃうんだねぇ」

 やめてってば。

「アルマが憎い? 嫌い? 殺したい?」
「‥‥‥るさいな」

 わたしを煽って何がしたいの、何をさせたいの。

「それでも教団をホームと呼べる?」
「うるさいっ!!」

 手の甲で叩き飛ばしたロードは軽やかに瓦礫の上を転がった。きゃらきゃらと癪に障る笑い声を上げながら、こともなげに起き上がる。

「素直になりなよぉ。あこやが我慢する必要なんてないんだからさぁ!」
「おぉいロード、何やってんのこんなとこで」

 瓦礫を踏みながら近づいてきた爪先が視界に入った。
 見上げると、ロードを拾い上げたティキ・ミックが薄い笑みを浮かべている。

「や、お嬢さん。スペインや江戸で会ったときは、強くていい女だと思ったんだけど」
「…………」
「案外、脆いんだな。あんた」

 咄嗟に抜刀した薄氷は余裕で避けられる。我ながら雑な抜刀だった、避けられて当然だ。
 彼はごく親しい友人にするように、肩を竦めてみせた。

「イイ子でいんのってけっこう大変だよな? わかるぜ」
「うるさい……」
「ティッキーってあこやのこと好きだよね〜〜」
「だってなんか可哀想じゃん。教団で生まれて、外の世界を一切知らなくて、エクソシストとしての生き方しか知らないんだろ?」
「──イノセンス発動!!」

 薄氷の鈍色の刃が凍りついた。
 大気中の氷の粒が結集する。長い尾、鬣、うねる胴、鋭い爪、瞬く間に結集した氷の龍が、太陽の光を反射して眩しく輝いた。一度藍い空高く舞い上がり、怒りを破裂させた咆哮を上げると、勢いよく降下してティキに襲い掛かる。
 ティキは龍の顎を両腕で受け止めた。しなった長い胴の動きが止まったかと思うと、粉々に砕けて弾け飛ぶ。

「そうこなくっちゃな!」

 その氷の破片のなかから斬りかかると、彼は目を見開いて笑った。

「なあ、アンタって技名あんまりつけないタイプ? 聞いたことねえよな!」
「わざわざ攻撃の内容を教えてあげる義理もないでしょ!」
「それもそうか」

 砕け散った龍の欠片も『薄氷』の支配下だ。幾千もの針と転じた欠片の数々がティキを目掛けて飛んでゆく。しかし彼の腕の一振りに弾き飛ばされた。
 そういえばアレンの報告書で読んだな。ティキ・ミックの固有能力は『拒絶』。
 イノセンスの力で生み出す氷までは拒絶の範囲内。ということは、薄氷で直接斬るしかないか。
 世界の理屈をも跳ね除ける厄介な能力だけど、その動きは特別早いわけじゃない。父や神田の剣技、リナリーの『黒い靴』、ソカロ先生の理不尽なまでの強さに較べれば、ノアはなるほどただの人間だ。

 一定の距離を保ったまま薄氷の柄を鳴らす。
 第二開放。
 動きを止めたわたしに気づいて、様子を窺うように足を止めたティキの半径二メートル四方の空気が急速に凍る。瞬きする間に大きな四角い氷牢が出来上がった。

 そのなかで目を丸くしていた彼は、しかし次の瞬間には白く濁って見えなくなる。
 内部から罅が入ったのだ。一度、二度、高い音を立てて放射線状に罅が増えていき、三度目には氷が粉々に砕け散った。

「頑丈ねぇ……」

 呆れ半ばに斬りかかる。
 その背後、アルマ細胞の憎しみで暴走するトクサが繰り出した電撃に耐えながらも、バクが封神フォーを召喚していた。

「びびったぁ! 今のけっこうな大技だった!?」
「あの程度で大技とは言わないけど」
「マジかよ」

 トクサを相手に、優しいアレンは苦戦している。
 大勢の教団の『頭脳』と、アクマになってしまった第三使徒。どちらを助けるべきかなんて考えるまでもない。
 アクマになってしまったなら破壊するしかない。
 父ならそうするだろう。ソカロ先生も、きっと。
 せめてこれ以上無駄に殺さず、苦しまないように──

 一瞬思考がそぞろになったとき、ティキの姿が目の前から消えた。振り返ると、トクサに捕まっていたアレンを助けたフォーへと襲い掛かっている。
 フォーは精霊だ。彼女にも負傷の痛みはもちろんあるけれど、体の替えが利かないわたしが、フォーのために捨て身になってはいけない。ティキとの戦闘中はずっと詰めたままだった息を吐き、深呼吸した。一旦、戦況把握に立ち止まる。

 すると、ぽとりと頭の上に柔らかい何かが着地した。
 ロードだった。

「戦わないの?」
「……邪魔。しつこいんだけど」
「アルマもサードもアクマだよ? ノアは教団の敵でしょぉ? 敵がいっぱいいるのに、こんなとこでのんびり深呼吸しちゃって。どーしたの、あこや」

 ……わかっている。
 アクマと化したアルマと激しい戦闘を繰り広げる神田。完全に我を失っている。ただ目の前に復活した九年前の悪夢を葬り去るために心を閉ざして、破壊のためだけの刃を揮っている。

 アルマの影響で暴走するトクサ。彼をどうにか正気に戻そうと足掻くアレン。そのためには大本であるアルマを止めるしかない。見境なく誰も彼もに攻撃を仕掛けるトクサを今、バクがなけなしの力で抑えている。

「あこや」と、悲痛な叫び声がしたのはリーバーだと思う。
 助けてくれ、どうにかしてくれ、って。
 多分そう言ってる。

 エクソシストとして、アルマを、トクサを破壊する。それがわたしの為すべきこと。今までずっと生きてきた根拠。戦う理由。ここで彼らを破壊しないのならば、わたしはエクソシストではない。



 ……でも、アルマをアクマにしたのは、教団なのにね。



 神田とアルマの過去を巡ったあのときから感じていた、胸のなかの澱み。幼い頃から直視しないようにしていた教団の闇に対する恐怖と、怒りと、それでもエクソシスト以外の生き方を知らないわたし。

 胸の裡で小気味いい破裂音が響き渡った。
 なにかが壊れた音だった、と、おもう。


 使途に縋る私たちが憎いか。いいえ、もう私には何も見えませんから。騙してたな。何もかも全部でたらめだ。俺たちに何しやがった。とんだお笑い草だよね。これじゃまるでアクマ。ごめん、俺は生きたい。どうか、第二使徒計画の永久凍結を必ず実現してくれ。承知しています、もう二度と、このような悲劇を。憎しみに敗けて揮う刀で護れるものなど何もない。救世の正義を掲げて刀を揮うとき、我々は常にその切っ先を己に向けなければならない。
 アルマ=カルマ。私たちサードの第一母胎です。
 ユウが生きたせいで人間共は悔い改めなかった。


 ロードがけたけたと笑った。いつの間にか肩まで下りてきて、子どもを慰めるような仕草でわたしの頬を撫でている。

「可哀想な子……。色んなもの、憎くて憎くてしょうがないのに、愛してるって言い聞かせないと生きてくところがないもんね」

 その柔らかい顔面をわし掴み、そのへんにぽいっと投げ捨てた。

「壊れちゃったのは、あこやの心?」

 わたしを見上げる無垢なその目を、睨み返すことももうしない。
 こんな状況で呑気にロードの言葉を聞いているわたしに、ルベリエが怒鳴っているし、バクもこっちを見て叫んでいる。
 何か言っているみたいだ。
 聞こえないけど。



 使途に縋る、私たちが憎いか。
 九年前のあの日、バクがマリに訊ねたこと。



 足元の瓦礫を踏みしめて歩きだすわたしの背に、「どこ行くのぉ?」とロードが笑う。

「誰と戦うの? あこや」
「…………」
「何を救うの?」

 わたしはわたしの世界を愛している。そして同時に今、途轍もなく憎いとも思っている。
 憎いと思う自分をもう抑えておけない。現にルベリエやバクの言葉が聞こえない。リーバーやジョニーが名前を呼んでくれるのは理解できるのに。

「アルマと神田の境遇は不幸なものだった。ずっとそう言い聞かせてきた。だからお母さんを殺したアルマを今更憎んではいない」

 生まれる前からわたしを見つけていた、生来の相棒、『薄氷』。
 鋼色の刀身を柄から切っ先まで指先で撫でて、ぎらつく刃に映る自分の顔をじっと見つめる。

 ひどい顔。


 九年前の知らなかった部分を見せられて、自分の無知に嫌気が差して、勝手に神田に見捨てられた気分になって、懲りずに使徒に縋る連中にうんざりして。


「だけどアルマの体を性懲りもなく弄んで、また神田とアルマを殺し合わせている教団は嫌い。扱いきれない半アクマ種なんて実験に手を出して、結局伯爵に利用される詰めの甘さが大っ嫌い。九年間ずっとそばにいたのに、一年も一緒じゃなかったアルマを選んだ神田のことだって、どつき回してやりたいくらいムカつく!」

 それでも。
 それでも、だ。

 薄氷の一閃で、ロードの体を真っ二つに切り裂いた。

「でも全員生きて帰らなきゃ、ムカつくって殴り飛ばすこともできないのよ! わたしが戦う相手はアクマと伯爵とノア! わたしが救うのはわたしの世界! 愛していようが憎たらしかろうがそれだけは死ぬまで変わらない……伯爵やあんたたちの思い通りに、可愛らしく壊れてなんかやるものか!!」