こんなときにも忌々しいほど冷静に、わたしは足し算と引き算をしていた。


“大体、なんで神田とアルマが戦っている?”
 アルマがアクマになったからだ。
“じゃあどうしてアクマになった?”
 ノアによって過去の記憶を見せられて、意識が覚醒したからだ。

 最初の疑問に立ち戻れ。
“じゃあどうして伯爵はアルマに目をつけたの、どうしてアレンまでここにいるの?”

 伯爵が自分で言っていたじゃないか。
 アレンを『十四番目』として覚醒させて、伯爵側に連れて帰るためだ。

 ──どうやって?
 アレンはどこまでもアレンだ。誰かを救える破壊者になりたいアレン。わたしと同じものを見て、きっとアルマまで救おうとする。そういう子だ。みんな解ってる。


 解っているからこそ、神田とアルマのもとにアレンを向かわせる。


 アルマを助けて、神田を止めて。神田がアルマを殺したいわけがない。アレンどうか、二人を止めてって。
 一体わたしがどんな役割のためにここにいるのか解らないけど、ただ一つ。


 神田を止めて、アレンの『十四番目』覚醒を阻止し、アルマを破壊する。場合によってはトクサもだ。そして伯爵たちを撤退させる。
 これが現時点で最も大勢が生き残れる確率の高い、引き算の結果。


レゾンデートル


その白い肌が灰になるまで




 トクサの足止めをバクに、ティキの相手をフォーに任せたアレンは、神田とアルマとの戦いの中に介入しようとしていた。
『六幻』は神田の魂を昇華することで力を発揮する。五幻式まで発動した神田の髪の毛は普段の漆黒から浅紫色にまで色褪せた。アレンもろとも容赦なく大技を叩き込もうとしている。

 空っぽの憎しみをぶつけ合うような戦いの最中、アルマが突然、尻餅をついた。
 力の入らない様子の体を引き摺って、彼は執拗に殺意を仄めかした。

「ぼく、は……ユウさえ、殺せれば……」

 座り込んでしまったアルマを思わず支えるアレンの背に、神田が迫りくる。第二使徒の頑丈な体恃みの無茶な戦い方をする神田相手に、アルマを見捨てられないアレンが勝てるわけがない。
 動け、持ちうる限り全ての反射を総動員して。
 これから相手にするのは第二使徒『YU』。
 神田とアレンの間に割り入る。薄氷で受け止めるほどの暇は残念ながらない。



 容赦のない太刀筋で、逆袈裟に一刀。



「……あこや……!?」

 ぼたぼたっ、と大量の血が足元に血だまりをつくる。着ていた団服も裂けて悲惨な状態になっていた。殴り合いも掴み合いも数えきれないほど経験してきたけど、本気の六幻に斬られたのは初めてだ。
 傷に怯むような戦士ではない。内臓、出てないし、大丈夫いける。

「ほんっと……何してんだろ、わたし……!」

 神田の目は何も見ていなかった。
 介入したのがわたしだということにも気づいていない。気づいていても、今の神田なら何も考えずにわたしを殺すかも。

 ちょっとだけ、アレンじゃなくてわたしを斬れば正気に戻るかも、なんて期待した。
 だけどただの傲りだった。アルマの前では、それ以外の全て、神田にとって等しく無価値らしい。

「アレン、下がって」
「無茶だあこや、そんな怪我で!」

 即座に刃を翻し横に一閃された六幻を、今度はなんとか薄氷で受けた。その拍子に噴き出した血が、神田の白い頬にかかる。
 ……薄情な人。
 九年間もずっと一緒にいたのに。あなたがいないと息もできないと言ったのに。そんなわたしを受け入れたくせに。怪我するな無茶するな一人で死ぬなって、残酷なくらい優しかったくせに。

「わかってたけど。それでも、アルマが一番特別なんだって、ちゃんと解ってるつもりだったけどさ!!」
「邪魔だ。退け……!」
「断るっ!!」

 体に力を入れるたび、心臓の動きに合わせて傷口から血が噴き出す。血液の約五十%は水分。イノセンスを発動し、傷口から絶えず流れる血を凍らせた。
 咬み合う六幻と薄氷が悲鳴を上げる。
 ぱきぱきと足元から薄い氷が立ち昇り、神田の脚を、腕を、身体を凍らせた。刃を伝い、薄氷の刀身も鍔も柄も、それを握るわたしの腕も、白く染まっていく。

「神田。六幻を解いて。そのままじゃ死んじゃう」
「うるせえ……」
「お父さんはアルマを殺させるためにユウを助けたんじゃない!!」
「うるせえんだよお前ッ!!」

 無理やり破られた氷がパンッと高い音を立てて砕け散った。
 そのまま六幻で横殴りに吹き飛ばされ、瓦礫の上を転がり落ちる。傷の痛みで意識が遠のき、痛みにまた呼び起こされた。さすが、容赦ない。というか語彙。相変わらず「うるせえ」ばっかり。出逢った頃と一緒。

 体の動きのぎこちないアルマを抱き上げたアレンが、怒りを滲ませながら神田を睨みつけた。

「呆れた……。一体なに考えてんのかと思ったら、キミ何も考えてませんね? こんなになったアルマを目の前にして、思考に蓋をした──考えると辛いから!」

 見晴らしの良くなった北米支部から見上げる空は、嘘みたいに青い。
 わたしの心はこんなにも粉々なのに。


「教団への怒りを捨ててでも一緒に生きたいと思った大事な人じゃないんですか! なに逃げてるんだ神田ッ!!」


 ……ああ、吐きそうだ。
 ユウとアルマが過ごした時間は一年にも満たなかった。わたしは九年かけても彼の名前を呼べない。ロードにつつかれた傷がじくじくと痛みだす。それでも神田はアルマを択ぶんだ。アルマはあこやの大事なもの、全部持ってっちゃうんだねぇ。
 浅ましい嫉妬。
 あの壮絶な過去を見てなお、こんな感情を抱く自分が恥ずかしい。
 アルマを赦せないわたしは、醜い。

「全部お前のせいだろうがノア野郎っ!!」

 神田の絶叫とともに、二人のエクソシストが互いのイノセンスを発動して戦いはじめた。
 呆けていないで、止めに入らなければ。どいつもこいつも目先のことばっかりで、普段の任務のときだって、わたしが止めないとすぐ突っ走って怪我するんだから。

 離れたところに転がっていた薄氷のもとへ歩きだす。
 神田に吹っ飛ばされた拍子に発動が切れて、凍らせて止血した傷口からは再び血が滲んでいた。
 一歩踏み出した瞬間、夥しい血が零れる。

「あー……そうだった、あのバ神田」

 逆袈裟に容赦なく振り抜きやがっ、て。

「怪我も痛みも、怖くはないけど」

 がくりと膝をつく。
 立ち止まったそこに、見る見るうちに血が溜まっていった。

「失血は、どうしようもないからなぁ……」

 急速に思考が鈍る。
 体を支えるのも億劫で、わたしはうつ伏せに倒れた。どんな任務のときだって、こんな大怪我を負って戦闘不能になったことはない。理性をなくした神田に本気で斬られて本気でぶっ飛ばされたら、本当はわたしなんて一溜りもないのだ。ちくしょうめ。
 両腕に力を籠めて、あと少し先、薄氷に指先が届くまで。這ってでも進む。

 止まったら死ぬ。
 エクソシストとしてのわたしが間違いなく死ぬ。

 我を忘れた神田がアレンの左脇を六幻で刺し貫いた。アルマがどうして泣いているのかわからない、と苦笑するアレンに「モヤシ」と零す。ようやくその蒼い双眸が真っ直ぐにアルマを見つめたと思えば、イノセンスによって痛めつけられたアレンが『十四番目』に覚醒した。伯爵の嬉しそうな様子が心底腹立たしい。わたしは間に合えなかった。肝心なときに。
 いつもそう。

「ありがとう、神田ユウ!! アレン・ウォーカーはもう終わりデス!!」

 嬉々として顔を歪める伯爵に、神田は伯爵の目的を察した。
 覚醒の衝撃で瓦礫に叩きつけられたアルマを腕に抱いて。開けた視界の隅に、うら寂しく転がる薄氷を見つけた。地を這って相棒に手を伸ばすわたし、その血痕、這った跡、自分がしたことの何もかも。


 アレンではない誰かの哄笑が、地鳴りのように響き渡る。


 体は重いし、視界は霞むし、もう一歩も動ける気がしない。だけど薄氷があれば戦える。戦わないといけない。そのために生まれた。生まれたときから戦士だったこの躰。戦わなければエクソシストでいる意味がない。夥しい数の犠牲者たちに、申し訳が立たない。
 もうこれ以上なにものも蹂躙させて堪るか。
 アレンがノアとして覚醒してもう終わりだというのなら、何が起こるより先に息の根を止めてあげるねと、あの優しい弟に誓ったのだから。


「でも」


 でももう、いやだよ。


 アクマなんていなければ。伯爵なんて、ノアなんていなければ。教団なんて、イノセンスなんて、戦争なんてなければ、こんな痛みも悲しみも憎しみも知らずにいられたかもしれないのに。お父さん。お母さん。神田に斬られた傷が痛い。本当はもう戦いたくない。痛い思いしたくない。アルマを殺すために命を顧みない神田なんて見たくない。



 いっそあの日、出逢わなければよかったなぁ。



 教団を憎む神田ユウと、教団が家で団員が家族の市村あこやとして、出逢っていればよかった。
 決定的な深い溝を抱えたまま対立していられたら、こんな痛み、知らなくて済んだ。



 わたしが運命に屈したその瞬間、アレンは運命に抗った。


『十四番目』の哄笑が止まり、浅黒く変化していたアレンの肌が元の色に戻りはじめる。神田が刺し貫いた傷口に向かって収束していったノアの気配は、彼の左目がキンと発動した瞬間、どこかに消えてなくなった。
 アクマを捉える左眼。養父に刻まれた愛しい呪い。

「アルマ、キミは……」

 それが、神田の腕のなかのアルマを捉えた。


「言うなあぁぁっ!」


 左眼に映された魂の正体ごと自らを屠ろうとするかのように、彼が択んだのは自爆だった。
 アルマのなかのダークマターが膨れ上がり、聞くに堪えない絶叫が轟く。リーバーや、ジョニーや、バクの悲鳴が耳に届いた。神田はそれでもアルマから逃げようとはしない。今度こそ致命傷になるかもしれない、こんなときにも。

 苦しそうに笑って死のうとするアルマに、苦しそうに手を伸ばす。
 なんで笑ってんだよ。

「なんでなんだよ……アルマ!!」

 血の通った神田の叫びが耳に届いたその瞬間、凍える指先が薄氷の柄を掴んだ。
 これ以上何も奪われたくないその一心で、ただ相棒の名を叫び、体の前に突き立てる。

 目を灼く閃光が弾けた。
 わたしの意思を世界に映した薄氷は、即座にアルマを氷で囲もうとした。大気を凍らせきるには時間が足りず、熱と衝撃をほんの少し吸収しながら破裂する。砕け散った氷の破片が頬や額にぶつかった。
 爆風と衝撃になんとか耐える。すぐ横にいるはずの神田の姿すら見えないほどの、強烈な光だった。


 永遠に続くかと思われた風が、やむ。


 薄氷の柄を握っていた両手から力が抜けた。ずるずると地面に倒れ込むわたしから少し離れたところで、パキン……と陶器の割れるような音が響く。
 体中の至るところが罅割れ、再生も儘ならない様子の神田が、力なく倒れ伏したところだった。
 アルマの姿はない。

 ……耐えた。どうにか。

「神田! あこや……!」

 駆け寄ってきたアレンが、死の気配に満ち満ちた神田の体に覆いかぶさった。
 首を動かして見てみると、神田の脇には、彼と同じ術式の梵字が刻まれた玉が転がっている。多分、アルマだ。彼ら第二使徒の肉体は、あの玉を核にして造られた。

「どうしてっ……神田はどうなる……!」

 アレンの絶叫の意味は、わたしにはわからない。
 あのとき彼は左目でアルマを見ていた。アルマの魂を。

『YU』に死ぬ前の記憶があったように、アルマにも、『Alma』になる前の誰かがいたということ。

「何も知らずに九年間生きてきた神田は! 神田の気持ちはどうなるんだよ……!」

 嫌な予感がした。
 それでも神田はアルマを択ぶんだ。アルマはあこやの大事なもの、全部持ってっちゃうんだねぇ。……わかってるから、そう何度も何度も、頭の中で繰り返さないでよ。
 体中が痛い。心が痛い。瓦礫にぶつけた額が痛い。出血を凍らせていた傷口は、斬られたのが痛いのか凍らせたのが痛いのか、もうわからなかった。

 空はこんなにも藍いのに、寒くて、虚しくて、息が震えた。

 投げ出した手の向こうに転がる、アルマの核。
 やがて僅かな再生能力の残り滓をかき集めながら、アルマの心臓を、胸を、肩を、頭を形作っていく。それでももう、神田と同じように罅だらけで、色素もごく薄い。
 いえないよ、とアルマはやさしい声で囁いた。


「ぼくが『あの人』だってわかったら、ユウはもう、捜してくれない……」



 世界中の、鼓動が一斉に温度をなくした、気がした。



「ユウが『あの人』との約束に縛られてる限り……、彼はずっと『あの人』のものなの……」



 事ここに至って、ようやく、腹の底からアルマに対する憎しみが湧いてきた。
 この人は。
 わたしや父から母を奪っておきながら。たくさんの人の大切な存在を、その右腕で殺しておきながら、この期に及んで神田の心まで独占して殺して死のうとしている。


「ユウの体、どこ? どこにあるの……?」


 縋るような声に反吐が出そうだった。と、思ったら、本当に喉の奥から血が溢れた。
 体は動かないけれど、アルマの息の根を止めるためなら根性で立ち上がれそうだ。指先を、地面に突き立てる。瓦礫を引っかき腕に力を込める。

「……っ」
「あこや……」


 上体を起こしたわたしの目に入ってきたのは、下半身まで再生する余力もなく、片手で地を這って神田を求めるアルマの姿だった。



 あまりにも───
 わたしの憎しみも苛立ちも幸福に思えるほど、あまりにも、悲愴な。



「どうしても……」

 ぽろぽろとその白い肌を伝った涙が跡を残す。

「この人だけは失いたくなかった……っ!!」



 ──ああ。
 どこまでも、どこまでも……憎たらしいやつ。



「あこや、憶えておきなさい」

「憎しみに敗けて揮う刀で護れるものなど何もない」


 母を喪ったわたしには父がいて、母を喪った父にはわたしがいた。
 アルマを壊した神田には、深い傷と罪悪感と憎悪以外なにもなかった。
 そしてアルマには、神田以外もう、なにもない。

「…………」
「あこや、……」

 立ち上がったアレンがわたしを窺うように見る。神田とアルマの過去にわたしが噛んでいること、彼も見たはずだ。アルマへの憎しみと殺意に支えられたこの醜いわたしを一瞥し、つらそうに眉を寄せる。
 そっと目を伏せて、わたしは口の端からぼたぼた血を零しながら、地面に体を横たえた。

「も、いい、アレン」
「…………」
「もう、みたくない」


 こんなかたちで再会したくなかった。アルマ。
 あの日も今日も、あなたの目にはわたしなんて映っていなかっただろうけど。

 お互いもっと遠い距離で、神田を通してだけ知っていれば、きっといつかあなたを赦せた。


「……、神田は、こっちです」

 アレンは静かに涙を流しながら、アルマの体を抱き上げる。
 やさしいね、アレン。
 次の瞬間、アルマの体から黒い液体が噴き出した。ダークマターだ。ぶくぶくと膨らんで、天へ向かって飛んでゆく。追おうとしてイノセンスを発動したアレンを、微かな声が呼び止めた。

「モヤシ……」





 母が死んだとき、父がいたから耐えられた。
 父が死んだとき、神田がいたから耐えられた。
 なら、神田がいなくなったら?


 何年も何年も胸の底に仕舞い続けた恐怖が、こんなにも藍くてきれいな空の下で、感動的に爽やかに実現しようとしている。


 アレンに連れられて天へ飛び去った神田が、アルマを抱きとめて落ちてくる。
 そのふたりを誰の目からも隠すように、アレンは方舟ゲートを開いた。


 神田は教団や世界のためには生きていなかった。
 ただ、アルマを破壊してでも為し得なければならなかったこと……『あの人』に会うためだけに、生きていた。それだけが、彼の枷であるべきだった。
 わたしは神田を縛りつけずにいられただろうか。
 神田はなんの躊躇いもなくアルマを、『あの人』を選び、なんの後悔もなく、辛いことのほうがきっと多かった人生を、穏やかに終えられるだろうか……。


 二人を世界のどこかに送り届けた方舟を、アレンが粉々に破壊する。

「ノアにも、教団にも、もう手出しはさせない──」

 誰にも邪魔されない、二人だけの最期を祈るように。


 光る方舟の剥片は青空に舞う雪のようで、憎らしいほど美しかった。