見覚えのある地下ホールだった。


 高い天井、崩れかけた柱。風化が進み地面は砂に覆われている。

 あの日、この場所で、アレン・ウォーカーとあこやと三人で任務に当たった。確かあこやは前日の任務で負傷していて、男二人の仲裁役兼新入りの面倒見の名目で同行し、衝突する神田とアレンの間に立たされながら彼女自身も迷っていた。
 イノセンスによって命を与えられた人形と、人形を愛した男と。
 人形を護るために死んでいった探索部隊と、救済者でありたがるアレンと、破壊者である神田との間で。

 もう、一年以上も前のことになる。



「いまでも教団が許せない……憎くてたまらないよ」
「ああ」

 砕けた方舟ゲートの欠片が降りそそぐなか、アルマの泣き声が谺する。

「でもぼくは泥に沈むべきだ……。たくさん殺した。伯爵にまで、力を貸して」
「わかってる」

 アルマはたくさん殺した。
 九年前のあの日、あこやの母を含む研究所の職員四十六名を、そして今回の戦闘で北米支部にいた多くのただの人間を。彼にとっては悼む価値もない見知らぬ団員が殆どだったが、あそこに残してきた彼女にとってはそうはいかない。
 人の死を真っ当に悼むことのできる奴だから。

「……わかってるから……」

 あこや。
 いかないで、なんてあんな風に裾を掴まれたのはいつぶりだっただろう。
 カゲマサの訃報を聞いたフランスの町で、縋りつくように手を握ったまま放そうとしなかった、あれ以来かもしれない。

 振り払って来た。容赦なく斬り捨てて、力任せに吹っ飛ばして。血だまりの中で地を這う彼女の後ろ姿が脳裡に蘇る。いくらエクソシストといっても、あこやの怪我は簡単には治らないのに。
 この手で斬り捨てた。
 アルマの自爆の傍にいたはずだ。自分たちのことで精いっぱいで、一瞥もせずに置いてきたけれど。

「あの子……、あこやだよね。憶えてる」

 喋るなと言ったのに、もうそんな力もないくせに、アルマの瞳から涙が零れる。
 研究所で過ごした日々の中で、キャスはよく二人に娘の話を聞かせてくれた。いつかアルマとユウがエクソシストになって本部に行くことがあったら、あこやと一緒に戦うことになるんだね。いつかあの子に会ったら仲良くしてあげてね……。

「友だちに、なりたかったなぁ」

 彼女は気付けば笑顔でいた。
 家族を亡くして大聖堂で動けなくなるほど泣いた次の朝には「おはよう」と笑いかける。神田が怪我を厭わぬ戦い方をしたり、彼女を庇ったりしたときには手がつけられないほど怒って、その十分後には「ご飯食べよ」と笑う。レベル4の襲撃を受けてぼろぼろになった直後にも、病室を見舞った神田に「お見舞い第一号おめでとう」と。


 まるで自分が死んだあとも、笑顔だけを憶えていてほしいというように。


 だってほら、いまだって。
 あれだけ泣き顔を見てきたはずなのに思い浮かぶのは、九年間どれだけ罵倒しても大ゲンカしても隣にあった、あの笑顔だけだ。



「……そうだな」



 彼女には自分たちのような怒りも、憎悪も、痛みも、絶望も、無縁であってほしいと願っている。
 陽だまりのなかにいてほしいと、祈っている。



 いつまでも。



 ふつふつと降りそぼる記憶を振り払う。
 もう何も考えたくなかった。それを最後に、この九年間いつでも傍らにいた横顔もあっさりと霧散した。
 そうして彼の中に残ったのは、腕の中で温度を失っていく、たったひとりの大切な人。




 子守唄も聴こえない漠野。
 誰にも邪魔されない、ふたりだけの最期。





レゾンデートル


その白い肌が灰になるまで







 神田とアルマを運んだ方舟をアレンが破壊したあと、伯爵は第三使徒たちを連れて撤退していった。
 我々はそれぞれの掲げた『神』の名の下に戦わなければならない。
 アクマに縋る教団の気持ちも解らんでもないが、それはこの聖戦におけるルール違反だと。



 やがてルベリエやリーバーが立ち上がり、ふらふらになりながら怪我人の救護に当たりはじめた。
 アルマの放ったウィルスのせいで多くの支部員が犠牲になったと見られるが、その総数は最早定かではない。北米支部の建物の殆どは壊滅的打撃を受けた。再建には途方もない時間がかかるだろう。

 アレンは、途中駆けつけたリンク監査官の縛羽で拘束されている。
 神田とアルマを逃がしたアレンは恐らく中央庁の尋問にかけられる。エクソシストの逃亡幇助も、アクマのアルマを救おうとしたことも、もう庇えるレベルの話ではなくなってしまった。
 加えて神田の与えた致命傷によって、彼の中の『十四番目』が目覚めている。
 決定的だった。

「あこや……! 止血するぞ、悪いけど服脱がすからな!?」
「りーばー」
「喋るな。出血が多い……」

 リーバーが顔を覗き込んでくる。声を震わせながら、すでにぼろぼろのわたしの団服を避けて傷口を露わにした。着ていた白衣を脱ぎ、頭の下に差し込んで枕にしてくれる。
 体中あちこちが痛くて、胸が痛くて、頭が痛かった。

 バクは泣きながら「あこや」と声をかけてくる。咄嗟にその手を振り払っていた。
 解っている、悪いのはバクじゃない。第三使徒計画を聞いて一番憤慨していたのはバクだとコムイが言っていた。アジア支部を訪れた神田には掴みかかる勢いで謝罪したと。

 どうせまたルベリエの言い出したことだ。
 それは解っている。

 それでも勝手に動く口を止められなかった。

「信じていたのに」


 母を亡くした父があのとき、どんな気持ちでユウを保護し、彼を守ろうとしていたのか。
 決して浅くなかったはずの憎しみを必死に押し殺して。計画の凍結に向けて動くバクを支援して。腕を失ったばかりの状態でユウの剣術指南を引き受けて。危険を承知していながらマリと神田を逃がして──
 第二使徒計画を永久に凍結すると、そう請け負ってくれたバクとレニーがいたから。まだ若かった二人の力にならなければと自らの痛みを堪えた父の想いは。
 すべて無駄になったのだ。


「二度と繰り返さないと誓ったあなたたちを信じたのに……!!」


 喉に血が滲む。
 口の中に鉄の味が広がった。

 神田はアルマを連れて逃げた。再生能力にも限界はある。あんな風にぼろぼろになって修復できない神田なんて初めてだった。アレンは決して二人の行く先を吐きはしないだろう。『十四番目』として目覚めたアレンは拘束される。
 もうこれまでの教団のままではいられない。

 辛そうに顔を歪めたリーバーが涙目になってわたしの頭を抱きしめる。どうしてリーバーが泣いているのだろう。悪いのは彼ではないのに。
 悪いのは。
 悪いのは誰。
 みんな世界を守りたいだけだ。ルベリエも、レニーも、バクも、リーバーも、教団のみんな、自分の好きなひとを守りたかっただけだ。家族を、ホームを……。



「救世の正義を掲げて刀を揮うとき、我々は常にその切っ先を己に向けなければならない」



 救世の正義を掲げて刀を揮った。
 わたしたちの正義の切っ先はどこを向いていた?


「……どこ」

 僅かに視線を動かしたわたしの手に、ジョニーが「薄氷これ?」と相棒を握らせてくれた。
 今この瞬間、誰よりも何よりもわたしを護ってくれるもの。あまり動くなと制するリーバーを無視して、わたしは薄氷を抱きしめる。刃が冷たい。

 神田がいない世界で息などできない。
 でも、まだ名前を呼んで抱きしめてくれる家族がいる。彼らを喪いたくない気持ちに嘘はつけない。


 息ができなくても生きていける。
 生きていかなければならない。


「も……、つかれた、」
「あこや」
「お願い、ほうっておいて……」


「取り押さえろ!!」いち早く察知して鋭く命じたのはルベリエだったが、彼の手足として動く第三使徒はもういないし、リンクも戸惑った様子でこちらを見ている。リーバーは一拍遅れて目を見開き、わたしを止めようとした。


「イノセンス、発動」


*     *



 科学班の研究室に安置された氷の塊の前で立ち竦んでいると、近付いてきた足音があった。

「またここにいたのか、リナリー」

 マリだった。

「うん……なんだか眠れなくて」
「私もだ」

 色々なことが、あった。

 世界各地で同時にノアの襲撃を受け、突然暴走したサードがアクマと化し襲いかかってきた。破壊するしかなかった。その途方もない痛みを抱えてなんとか本部に戻ったら、チャオジーが未知の病原菌に侵され、ラビやブックマンも行方不明。さらには神田が逃亡し、アレンは拘束され、あこやはイノセンスの力で眠りについたという。

 眼前の氷の塊。
 形状としては、第二開放の『氷獄』に似ている。あれは空中を飛ぶアクマを凍らせて、氷の牢ごと砕いてしまう技だけれど。
『薄氷』による氷の中で眠るあこやを見つめていると、マリが隣に並び、その表面を指先で撫でた。

 北米支部で伯爵たちが撤退したあと、薄氷を抜いた彼女はイノセンスを発動して自らを氷漬けにした。慌てて本部へ運び込まれ、ヘブラスカが調べてみたり、科学班によって調査が行われたりしたが、現状打つ手はない。
 ただ救いなのは、ヘブラスカの「これはあこやの意思だ」という見解だった。

 あこやは辛かった。何もかも辛くて、少しの間思考に蓋をしたかった。
 だからイノセンスを発動し、薄氷もその願いに応えた。あこやの意思にもよるが、この現象が原因で死ぬようなことはないだろう。いつか彼女が目覚めたいと思うようになれば、自然と氷も融ける筈だ。


 ……なら、目覚めたいと思わなければ?
 怖くて、誰もその問いを口にすることができなかった。


「……あこやは生まれたときから教団にいた。教団が家で、団員が家族だ。そう言って、エクソシストになった私を迎えてくれた。私ももう家族の一員だと」
「うん……。私も、そうだったと思う」

 マリの独白に同意する。
 教団に連れて来られた当時のことをもうよく憶えていない。言葉の通じない異国の地で、見知らぬ大人に囲まれた恐怖ばかりが刻まれている。それでもあこやの笑顔だけは憶えていた。
 当時の自分はその笑顔に応えることができなかったが、きっと、マリを迎えたのと同じように自分を迎えてくれていたはずだった。

「だがそれと同じくらい、あこやは家族の死を看取ってきたんだ。家族が死んでいくのが日常だった。そしてそのたびに大泣きして、動けなくなって。神田が来るまでは私もよくあこやを抱っこして運んだよ」
「そうだったんだ……」

「だからきっと、神田の『俺は死なない』という言葉が、あこやにとっては何よりの心の支えだったんだと思う」

 ……そんなこと、ひとつも知らなかった。
 あこやはいつだって強くて、確かに昔はちょっと泣き虫だったけど、それ以上に笑顔だった。神田とよく大ゲンカして、でも結局仲が良くて。

「心の支えがいなくなってしまって、どうしたらいいか、判らなくなってしまったのかもしれないなぁ……」

 一緒にいる二人の後ろを追いかけるのが好きだった。
 パタパタと追いかけていくと、あこやが振り返って笑う。その少し先でちらりとこちらを振り返る神田が、ほんの少し歩くペースを落とす。
 そんなふたり。

「マリ、私ね、何だかんだで神田とあこやは両想いなんだと思ってたの」
「両想いと言われると違和感が凄いな。まあ言いたいことは解るが……」

 江戸での方舟戦以降、二人の空気はほんの少し変わった。
 絶対安静のエクソシストたちに代わって一人任務に飛び回るあこや、それを見送る神田、彼女が無事で帰ってきたときの二人の雰囲気。旧本部が襲撃を受けたあのときも、重傷を負ったあこやの世話を甲斐甲斐しく焼く神田の姿を見て、やっぱり、なんて思ったものだった。
 ちょっとだけ寂しくて、だけど嬉しかったのに。

「なのに、神田があこやを置いていくなんて……って、ちょっとびっくりしてるわ」
「そうか? 私は、あいつららしいと思うけどな」

 マリに倣ってあこやの眠る氷に手を伸ばす。
 この氷は不思議なことに、リナリーやマリが触れるとただひんやりとした水晶のような手触りだが、触れる人によっては痛いほど冷たくなるらしい。これもあこやと薄氷の意思だろう、というのがヘブラスカとコムイの意見だった。
 ルベリエや、バクは、これに触れられない。紛れもない拒絶の意思。

「神田はあこやにとって教団のみんなが家族であることを、あこやは神田にとって教団が憎むべきものであることを、お互い解って尊重していた。あいつらにとってこれが唯一交われない点だったんだ。……最後まで、二人は互いの価値観を大事にしたんじゃないかなと思うよ」

 それでもやっぱり辛かったから引きこもっているだけだろう、とマリは穏やかに笑う。

「あこやがリナリーのことを泣かせたままにしておくわけがないだろ?」

 悪戯っぽく笑う彼に、ようやく強張っていた体が楽になった。
 そうかもしれない。いつだって家族の痛みや悲しみが最小限で済むように、矢面に立とうとしてくれる姉だった。
 その彼女を隣で唯一護れた人がいないいま、今度は私たちが護ってあげないと。

「いつもあこやに助けられてばかりだったから、今度は私たちで待っていてやろう」
「うん。……そうだね。ちょっとゆっくりさせてあげなくちゃね」
「さ、ここは冷える。風邪を引いたらそれこそあこやが怒って出てくるぞ」
「ふふ」

 両手を伸ばし、ひんやりと冷たくてどこか気持ちいい氷を抱きしめる。


 いつも優しかった姉は、こんなになってもこの手を受け入れてくれる。そのことがとても嬉しくて、そして涙が出るほど切ない。
 彼女は神田を苦しめた教団を、それでも心の底から嫌いになることができない……。


「……おやすみ、あこや」


 ぱきん、と氷が軋む音が響く。
 あいさつを大事にしていた彼女だから、いまのはきっと「おやすみ」という返事、かな。